第4話 見解の違い

 義貞の死の前には吉野朝廷側近第一等とも言われるきたばたけ親房ちかふさの子で、皇子義良のりよし親王(後の村上むらかみ天皇)を奉じて陸奥むつを守っていたきたばたけ顕家あきいえもまた戦場に散っている。

 前年、奥州十四郡の勢力を率いて白川の関を越え下野しもつけ利根とねがわでの一戦で千寿王を大将とした軍を破って鎌倉を陥し、今年正月には鎌倉を出発。

 宗良むねよし親王や反足利勢力としてほうじょう時行ときゆきらの軍勢まで加えて東海道を西上する。

 途中、美濃みのあおはら(後の関ヶ原)で足利方の軍勢を打ち破ると進路を伊勢いせにとった。

 伊勢から伊賀いが大和やまとと至ったところで師直軍と遭遇、大敗を喫してしまう。


 顕家はたしかに才のある武将であったかもしれない。

 公家武将として千種忠顕とは比ぶべくもない武功を挙げている。

 もし、彼が武家の出であったならば、このような大敗はしなかったかもしれない。

 この一戦の最大の敗因は遠征の疲れである。

 奥州を発した顕家軍は休息と言えるほどの休みをほとんど取ることなく半年以上戦い続けてきた。

 これは付き従ってきた兵卒に対してあまりにむごい。

 のみならず、無理な遠征軍の兵粮は行手を塞ぐ集落からの略奪で補った。

 その様は苛烈を極め、民家はもとより寺社でさえ蹂躙されて草木一本残らなかったと太平記に記述されている。

 太平記は表現が誇大なところがあるが、奥州を発って半年以上敵地を転戦していた軍勢に安定した食糧供給がなされていたとは考えにくく、行きすぎた兵粮徴収が行われていただろうことは想像に難くない。

 やはり、彼もまた下々の機微を知らない公家の一人であったということなのだろう。


 顕家は、義良親王を吉野へ逃し、自らは河内へと落ち逃れてきた。

 義良親王を吉野へ逃したのは、その先に後醍醐天皇のおわす朝廷があったためであることは明らかだ。

 また、自らが河内へ落ちてきたのはおそらくそこが楠木の根拠地であったからだろう。

 正行の館へ辿り着いた顕家はわずかな供に支えられ、やっとの思いで立っていたにもかかわらず開口一番こう言った。


「おお、正行。われに楠木の軍勢をつけてくれ」


 正行は睨みつけるような眼差しを顕家に向ける。


「楠木の兵でなにをなさるおつもりですか」


「知れたこと、師直めに此度の敗戦の借りを返すのじゃ」


 正行はぎりりと奥歯を噛みしめた。

 戦の貸し借りなどとそんなわたくしの事情で多くの命を奪ってよいものか。

 それも自らの配下、家の子郎党を駆り集めてのことならまだしも、関係なきにも等しい楠木の兵を借りてそれに充てようなどとは、いったい他者のことをどう思っておられるのか。

 父とは旧知の中であったかも知れないが、父亡き今、楠木一党を預かる頭領としてそんな願いを受け入れられようはずもない。

 しかも、それは一分の勝算もないものと正行には感じられる。

 正行には正行の、いや、父の考えがある。


「申し訳ございませぬが、お貸しすることは出来かねます」


「なに」


 正行は大きく息を吸って間を取り、一言一言に力を込めながら話し始めた。


「河内には北畠様の借りが返せるほどの軍勢はございません。それに、今は貴方あなたさまのご養生の方が大事かとお見受け致しますが、いかに」


 湊川で父が死んでから二年が過ぎようとしていた。

 その間、正行は弟たちと共に少しでも早く父の遺言「帝をお護り」できるよう勉学に調練にと励んでいる。

 その一方でその死後もなお、父を慕う領民たちはそれぞれの思いを胸にある者は田畑を耕し、ある者は商いに精を出し、血の滾りを抑えられぬものは南朝方として戦場働きに命を懸けていた。

 彼らは、正行が起つのなら喜んで集まってくれるだろう。

 だが、集めた楠木軍をこの顕家に扱いこなせるとは思えない。

 とうと西国勢が恐れおののく奥羽の兵をいたずらに戦に散らした公家侍だ。

 しかし、そのままにべもなく断るわけにもいかない。

 正行は、父譲りの商人的才覚で素早く代替案を提示する。


「兵はお貸しできませんが、敗れ散っていった者共を集めさせましょう。その間、北畠様には私どもの館でご養生いたされますよう」


 顕家は、後に楠木兄弟を苦しめる彼の父北畠親房ほどには公家の血が濃くなかったようで、頑迷なところはない。

 人の意見を案外素直に聞くことができた。

 安堵した顕家は鎧を脱ぐとすぐに意識を失った。


 正行は、ここに初めて能動的に情報網を使うことにした。

 馬借や船頭たちに奥州敗残の兵たちを探させて、できうる限りの人数を収束させたのだ。

 集めた兵には治療を施し、食べ物を与え、元気な者には楠木軍に混じって調練もさせた。

 正行には、湊川を生き残った老臣たちを後見とした、したたかな計算が働いている。

 奥羽の兵は蛮勇で轟いている。

 調練に参加させることで、彼らの強さを盗もうとの意図があったのだ。

 実際、以降の楠木軍は平場でも大いに戦果を上げている。


 他方で正行は、傷の養生をしている顕家のもとへ幾度となく訪れた。

 彼は正行の知らない「戦場の父」を知っている。

 正行は父の戦のざま、軍中での言動などをずいぶんとせがみきいたようである。

 父の話が聞けるというので弟たちも兄と共にやってきた。

 正行の心に深く印象を残したのは、やはり湊川へ赴く直前の父の言動だった。

 この件に関しては顕家の個人的憤りによる部分も多い。

 父は、正月の宮方勝利の直後に宮中に参内し、義貞を除き尊氏と和睦願いたいと奏上している。

 それが宮中の不興を買った。

 却下されたのは言うまでもないことだが、正成は次善の策も献じていた。


「北畠顕家殿の奥州軍を今しばらく京にお残しいただきたい」


 父はその配下の卓抜した情報網から既に尊氏の再起が早く、強勢であることを見抜いていたのだろう。

 その上で、義貞への出征督促もしていたという。

 いずれも却下されている。

 顕家は言う。


「吾もあれほど早く再起するとは存外であったが、滅亡した北条入道(高時)めの遺児が関東で兵を挙げたことを鑑みれば、いずれ再起もありなんと思っておった。尊氏との和解など論外ではあるが、吾を京に留め置き、早々に義貞を出陣させるべきだったのだ」


 それを眉をひそめて聞いていた者がある。

 まだ元服前だった正儀だ。

 彼だけは、兄二人とは別の解釈で湊川までの経緯いきさつを心に刻みつけた。

 生来の性質もあったには違いない。

 しかし、兄たちと違う捉え方をしたのは教養の差であったのではないかと思う。

 正行も正時も、この時既に元服済みで多感な少年期にあり、父に倣って朱子学を学んでいる。

 そうした二人が朱子学という思想のフィルターを通して父の言動、行動を見たことは想像に難くない。

 忠義の為に最善を求めて献策し、受け入れられないと見ればすぐさま次善の策を出す。

 それすらもすげなく却下されただけでなく逆に死命ともいえる出陣を命じられた。

 そんな無慈悲な主君に対しても父は潔く身命を賭し、忠義の為に湊川に散っていったのだと、二人は思った。

 が、正儀はそうは思っていない。

 いや「思う」というほどに思考が確立していたわけではない。

 父は朝廷に失望し、死ぬことを選んだのだと感じだのだ。

 幼い正儀も兄二人を真似て朱子学を学び始めている。

 言葉の意味するところくらいは判っていたであろう。

 それでもなお、幼い純真さが父の弱さを感じ取った。

 そして思うのだ。

 最善が和睦であるならば、何故その初志を貫徹しようと努めなかったのか。

 何故に生き延びて自分の前に戻ってきてくれなかったのかと。

 「帝のために死なねばならぬ」という父の言葉を聞き、泣きながら桜井で別れた少年正行と、ただひたすらに優しい父の帰りを待ち望んでいた幼子正儀の父への想いの相違がそこにあった。

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