年を、またぐ

未末

第1話

 時計の針は十一時を示して、テレビの音の途切れに遠くから鐘の音が鳴り始めた。今まで住んでいたところは、どんなに部屋の壁が薄くても周りにお寺が無かったため、除夜の鐘を聞くのは今回が初めてだ。


「そろそろお腹減った。なんか食べよ」

 こずえくるまっていた掛け布団を剥いで、のろのろと立ち上がった。台所で、溜められた食べ物を物色している。

「もう進学先が決まった高校生は、ひどく気楽だな」

「指定校のために私にしては成績優秀を維持したんだもん。年越したら、じきに勉強するよー。大学入ってまで、さとるさんに迷惑かけたくないしね」

 本当ですか、と言いながら覚も台所の方へ向かった。


 少し前に買ってあった、赤いきつねと緑のたぬきが置いてある。梢は、迷いなく赤いきつねの方を手に取った。

「年越しなのに、うどんか」

「覚さんの事だし、どうせ年越し用に買ったわけじゃないでしょ。それにうどんの方が好きだし」

「ああ、そう。じゃあ、俺はたぬきにする」

 蓋を開けてお湯を注いでいると、鐘の音が一つ二つと背中に鳴る。年の瀬を肌に感じる。特にこれといった忙しさは毎年無いのだが。


 梢は眼鏡を曇らせては中身を伺って、少ししてから蓋を取った。決められた時間よりもだいぶ早い。

「まだ三分しか経ってないぞ」

「いいんだってー。ちょっと固めの方が美味しいよ? ほら私、素麵そうめんとかそのまま食べるの好きだし」

「それはやめた方がいい。やつ、ああ見えてそこそこ塩分あるからな。ちゃんと調理して食べなさい」


「……あっ、これ味違わない?」

 と、梢はつゆを試す。

「ああ、ここは関東風だな。今まで住んでたところは全部関西風だったか」

「へえ。なんか醤油甘いの違和感」

 そう言いつつ黙々とうどんをすする梢を横目に、腕を組む覚は一向に食べようとしない。

「早く食べたら? そばは伸びるよ」

「知ってるよ。待つ方が全体的に柔らかくなって良いんだ。大体の即席麵はそうしてる」

「絶対よくないよ、それ。いやー、覚さんとは一生分かり合えないわ」

 覚が食べようとしたときに梢はもうほとんどを食べ終え、再び台所へ片づけをしに行った。賑やかな大晦日特番に疲れたのか、覚はテレビを消した。

 既に忘れていた鐘の音が、はっきりと響くようになった。


「そうは言いつつ、もう十年は居るんだからな」

 今思えば可笑しな話だよ、と覚が笑う。

「私はもう十年間、覚さんの趣味に付き合わされてるもんね。稼がない研究者さん」

「娘にそう言われるのは良い気がしないが、趣味と言ったら趣味か。楽しいし。稼げるけど楽しくはない道だってあったさ。やめたけど」

 覚は有名企業へ就職するという周囲の勧めを振り切って、今の研究職に就いたのだった。

「パソコンカタカタするの似合わないし、良かったんじゃない?」

「そういうことを出来ないのは、やはり不味いか」

「やっぱ覚さんはそれでいいよ。これからも」

 と、梢は笑ってみせた。除夜の鐘は、もう何度鳴っただろうか。


「前々から、名前で呼ぶ癖あるよな。父親を」

「んー、だってパパって感じじゃなくない? 小っちゃい頃、一時期だけ呼んでたけどさ。なんか微妙なんだよねー。それに、もうすぐそんなこと関係なくなるでしょ」

 決まりの上では、大学を出たら親子の関係は終止符を打つ。東京の大学に進学する梢が覚と過ごす機会は、実質高校卒業までである。

「その辺り、いつも軽いな。初めだって、梢なんか『じゃ、これからよろしくお願いしまーす』だったぞ。あんな大変な目に遭った子供の様子ではなかった、」


 鐘は、そう話す間も黙る間も一つ二つと鳴る。一年の煩悩を一つ二つと除く。

「――お父さん、泣いてる?」

「……今さら思い出し泣きなどしない」

「そ」


 あと少しで時計の長針と短針が重なる頃になった。

 梢は寝息を立てていたが、のっそりと起き上がって伸びをした。まだ鐘は鳴っている。

「あぶない、あぶない。年をまたぎそびれるところだったよ」

「毎年同じセリフじゃないか」

「よーし。姿勢を正して、一年の最後くらいきっちりね」

「はいはい」

 あと少し。テレビではきっと、いよいよカウントダウンだ。


「あのさ、今言う事じゃないけどさ。今すぐ終わることでもないし」

 梢は正面を向く。さっきの寝ぼけた顔ではなかった。


「お父さんが住んでるところが私の実家だからね。いつでも年越しはに来るからね」

「ああ――」


 ぼーん。

 除夜の鐘は永く響く。


 あけましておめでとう。

 なんだかまた、腹が減ったな。

 じゃ、その緑のたぬきの残りつゆで茶碗蒸し作ろっか。

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年を、またぐ 未末 @samecho

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