篠野佳織の日常

篠野佳織の日常 第1話 朝

目を覚ますと隣には恋人が眠っていて、起こさないようにベッドを抜け出して、わたしはリビングに向かった。


「おはよう。ノア、ロト」


わたしを見つけるなり小さな二つの塊がケージに飛びついてみーみー言い始める。


黒猫がノアで、茶トラがロト。名前をつけたのは二匹の引き取り主である真凪だった。


「ごはん作るからちょっと待ってね」


真凪が飼いたいと譲り受けてきた保護猫の兄弟は、トライアルも終わってすっかりうちの子になりつつある。


夜に出しておくと危なっかしいので自分たちが寝る時だけケージに入れていて、二匹分の朝ご飯を準備してからケージに向かう。


ケージを開けると二匹ともキャットフードの入ったお皿にまっしぐらで、必死にご飯を食べる様すら可愛かった。


二匹が食べ終わるのを待ってから、わたしは朝食の支度に取りかかって、出来上がった頃に真凪が起きてくる。


真凪の方が起きるのが遅いのは単純に朝が苦手だからで、わたしは余裕をもって準備したくて、真凪はぎりぎりまで寝ていたいという性格の違いだった。


「おはよう」


唇を触れ合わせるだけのキスで朝の挨拶をしてから、二人で向かい合って朝食を取る。


それがもう日常になっているけど、そんな日常をわたしが得られる日が来るなんて、わたしは思っていなかった。


はっきり言ってわたしは感情を表現するのが下手で、真凪よりも前につきあった恋人はいたものの、何を考えているかわからないと言われて終わるような恋ばかりしてきた。


新しい恋に前向きになれないわたしに告白をしてくれたのが真凪で、真凪の優しさに触れて、わたしは真凪を信じたくて、その背中に抱きついた。


わたしの恋人となった水上真凪は、170cmと女性にしては長身で細身で、遠くから見るとモデルかなと思うくらい立ち姿は姿勢がよくて、すぐに目に留まる存在だった。平均身長、平均体型のわたしはいつ見ても羨ましさはある。


でも真凪は細いのに、わたしを抱えちゃったりできるので、どこにそんな力があるんだろうかと不思議だけど、愛の力だと平気で言ったりする。


多分そんな人だから臆病で何もできないわたしに、挫けずにつきあってくれているのだろう。


こんなに真っ直ぐわたしを見てくれる人は、もう二度と出会えないと思っているので、わたしにとっては運命の人なのだろうなと感じている。真凪には言ってないけど。


朝食の後、二匹と遊ぶのは真凪の仕事になっていて、そのせいか最近真凪の腕は二匹の引っ掻き傷だらけだった。


綺麗な肌なのにもったいないと言うと、佳織のものなのにごめんねと臆面もなく言われて、照れ隠しに思わず両手で真凪の頬を引っ張ってしまった。


何でも思ったことを口にする真凪と、何も言葉にできないわたしは正反対の性格だけど、真凪が言葉にしてくれて、わたしの答えを待ってくれるから、一人で抱え込まずに済んでいることも多い。


真凪はいつだって引っ込み思案なわたしを引っ張って行ってくれて、迷っていれば手を繋いでくれる。もう真凪なしでの生活なんて考えられなくなっていた。


「佳織、準備できた?」


真凪の声にわたしは急いで最後の仕上げをして、リビングに戻る。真凪も既に出勤準備はできていて、ノアとロトに声を掛けてから揃って玄関に向かった。


わたしと真凪は今は勤務先が同じビルということもあって、朝はほとんど一緒に出勤をしている。


「その服新しく買った?」


わたしの今日着ている服を見てそう聞いてくる真凪に、よく見てるなぁと熟々感じる。


どんなわたしでもわたしには違いないから気にしないとは言ってくれてるけど、真凪は可愛い子が好きなので、真凪と通勤を始めてから仕事に行く格好をわたしは気にするようになった。


それにスタイルが良くて、颯爽とした真凪の隣に並ぶのに、暗い色の組み合わせの服ばかりではいたくなかった。


「この前帰りに見かけて、可愛いなって思って買っちゃった」


駅までの道を並んで歩きながら、とりとめのない話をするのはいつものことだった。


「佳織によく似合ってる。可愛い、可愛い」


そう言ってもらうために買ったようなものなので、内心は飛び上がるくらい嬉しいけど、表面上ははにかむだけにしておく。


「真凪って、会社でもそうやって口説いていたりしない?」


「そんなことしてないよ。私は仕事場で篠野さんにもそういう意味で話かけたりはしてなかったでしょう?」


過去の記憶を探って、真凪は普通のいい先輩だったと改めて思う。ご飯に誘われることくらいはあったけど、それはあくまでつきあいの範囲内で、わたしが家を探しているという話をしなければ、きっとこんな関係にはならなかっただろう。


「そうだった気はする」


「わたしはノーマルな子を口説くような勇気ないからね」


「そうなんだ。じゃあわたしがそうだって知らなかったら興味持たなかった?」


「意地悪なこと言わないで……多分、好きになっていたけど、告白はできなかったかも」


「真凪って唯依は積極的に口説いたのに、わたしにはそうじゃなかったよね?」


「仕事でのつきあいもあったからね。唯依はバーで会ったから、お互い求めるものが一致してたし、そこで口説かなかったら何も始まらないでしょ? 佳織はそういう意味で逆だったから、関係を壊してしまうのも怖かったかな」


普段は真面目な真凪の性格が出ていて、バーでは開放的になったということだろう。それはわたしも同じことが言えたので、それ以上真凪を追求することはやめておく。


「わたしは真凪とつき合えて良かったって思ってる」


「それは私もだから。佳織をぎゅってしたい~」


我が儘を言う真凪に外だから駄目と釘を刺したけど、真凪には満員電車に乗ってからこっそり抱き締められていた。


小さく怒っておいたものの、わたしも大好きな人の腕の中は嬉しさがあって、結局次の駅に着くまではそのままだった。





毎朝、真凪とは会社の入っているビルのエレベータで別れて、昼間に会うことは基本的にない。転職したわたしに人間関係を作るのも大事だからと真凪は言ってくれて、お昼時のフリー時間も普段は別々だった。


時々美味しい店を見つけたからと誘ってくれることがあるくらいで、大抵わたしは自分の会社のあるフロアにずっといる。


わたしの転職先の会社は、前と同じシステム開発を主にしている会社だった。でも、仕事内容はそれまでの保守業務とは少し違って、自社製品への機能追加の設計から開発までを今は担当している。


転職して半年も経っていないので、わからないことも多かったけど、周りの人が丁寧に教えてくれるので何とか形にはなっている。


真凪に言われなかったら新しい世界をわたしは知ろうともしなかっただろう。でも、あのまま保守を続けているよりは、転職して良かったな、と最近では感じるようになっていた。

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