バトンを君に
空飛ぶ魚
バトンを君に
ビルの屋上で俺は煙草を吸っている。
見上げれば空は真っ黒である。星は一つも見当たらず、代わりに何やらちらちら光るビニール袋が飛んでいる。その逆、フェンス越しに地上を見れば、十階分の高さを隔てて、光の筋。車線に並ぶ車の群れはどこまでも夜のビル街に伸びる。
シャツの胸ポケットには空になった煙草の箱。今吸っているのが最後の一本である。
空に近い分、地上よりずっと静かで変化の無かった屋上に突然、どおん、と激しい物音が響き渡って、俺は飛び上がらんばかりに驚いた。
振り向けば、ビル内に続く階段のドアが大きく開いている。それより問題であるのは、こちらに向かって駆けてくる人影がある事だ。
それは学生服を着た青年である。青年の表情が酷く切羽詰った風に見え、次に俺の目を引いたのは、彼の右手がしっかりと掴んでいる赤いもの。
近くに来てそれが何かわかった。
バトンである。
全力疾走してきた青年が俺の前で急停止した。俺はフェンスを背にして青年と向かい合う形となる。当然、何を言えば良いのか見当もつかない。ただ俺は青年の顔を見た。
結果的に言葉は必要無かった。青年は黙ったまま俺の左腕を掴むと、手を引っ張りよせて、自身の右手に握るバトンを手渡した。暗闇の中に気味の悪い肌色を浮かび上がらせる俺の掌に、赤色のバトンが適度な速度をもって渡される。
ぱしん、という音を俺は確かに聞いた。
俺の手がバトンを握るや否や青年は手を離す。するとバトンの、彼の手が握っていた部分が見えるようになって、その部分は白色であった。赤一色に見えていたバトンは二色で塗り分けられていたのだ。
「次の人に渡して下さい。絶対に渡して下さい。頼みましたよ!」
青年の目が俺を睨みつけた。いや、睨むというよりも懇願していた。あまりの必死さで俺は睨まれたように感じたのだ。
青年はそのまま数歩後ずさる。革靴がかつかつと音を鳴らす。そして、くるりと背を向けて階段へ駆け戻っていく。
待て、と追いかけようとして、はたと左手の感触に気づいた。
バトンがなぜか、とんでもなく重いもののように感じられたのである。
バトンは左手の中にある。俺はいつの間にか、しっかりとバトンを握りしめている。まだ学生の頃、運動会で使っていた物そのもののバトンで、ようするに適度な長さのあるプラスチックの筒である。
しかし、紅白である。横にして中央から端までが、今俺の握っている赤色。もう一方、青年の握っていた方は白色。二色のバトンなんて見た事も聞いた事も無い上に、紅白とはどういう事か。
はっと視線を戻せば、階段のドアは重く閉じられていて、青年のいた音も気配も、全ての痕跡がどこかへ行ってしまった後であった。
このバトンを、俺はどうすれば良いのか?
訊けば良かったと今更に悔やむ。こんな時間にこの屋上に来る人間などもういないだろう。ここで悩んでいても仕方ない。
俺はフェンスを離れてドアへと向かい、心細い明かりが照らす階段を降り始める。左手にバトンを握ったまま。ごおう、と空調の低い音が響く階段に、俺の靴音が加わってうるさくなる。
青年は何と言ったか。俺は思い出す。『次の人に』と言ったはずだ。次の人とは一体誰なのか?
俺の記憶の限りにおいて、あの青年についての覚えは見当たらなかった。彼が俺を見た時の顔を思い出そうとしたが、ほんの数瞬前であるのにはっきりと思い出せない。大して変わった相貌はしていなかったという印象だけが残っている。
今朝の電車で隣に座っていたのかもしれない。コンビニでレジを担当していたのかもしれない。どこででもすれ違っていそうな人物だという事で、確かな情報などどこにもない。
ただ彼は俺にバトンを渡した。次の人に渡せと、声と目で伝えてきた。何より、そのバトンを渡す感触、手の平に打ち付ける真摯な力強さ、そして夜の屋上に響いた音。それらの全てが、彼がいかに真剣であるかを俺に語っていたのだ。
俺はこのバトンを誰かへと渡さねばならない。
一階にたどり着き、ビル裏口のドアを開けると、外は沢山の音であふれていた。車のエンジン、店のBGM、通りすぎる人の靴音。風に乗った音の一群を俺は正面から浴びて、一瞬何も考えられなくなるが、バトンを握り直して外へと足を踏み出す。
片側二車線の大きな道路。既に深夜も近い時間帯だが、車の往来は絶える事が無い。まだ営業している飲食店の灯りはぎらぎらと輝いており、欲深な人間が手招きしているようだ。その分、看板の影、植木の影、道行く人の影、あらゆる影という影には、光に追いやられた寂しさが溢れんばかりに満ちている。光と影の強烈さに俺は訳がわからなくなる。おそらく夜というものは光と影の戦いの時間であるのだ。
俺は道路の左右を見渡して、バトンを渡す人物を探す。渡すべき人物の検討はついていない。それでも俺はその誰かを探す。
俺の前を通りすぎる男。俺と似たような濃い灰色のスーツ姿で、俺と似たような年齢である。彼なのだろうか? あの青年が俺を選んで渡したという事は、俺のような人間であれば渡しても構わないという事ではないのか。
しかし俺はバトンを握りしめたままであった。彼の手にバトンを渡しても、俺が青年に渡された時のような、あの音は鳴らないような気がしたのである。
道路を右に早足で進んでいくと、次々に人物とすれ違う。どこを見ているのかわからない目をして歩くOL。茶髪の学生達。犬の散歩をする老婦人。
が、誰にもバトンを渡す事は出来なかった。俺の手のバトンをちらと見る人間もいたが、俺は今更恥じたりはしなかった。
俺はふと思いついて、ある居酒屋の前で立ち止まる。赤みがかった光が俺を照らし、コンクリートの地面には夜の闇より更に濃い影がひっそり張り付いている。
もしや誰でも良いのだろうか? 男か女かは関係なく、職業も年齢も問わず、俺とこの夜この道で出会った、それだけの理由でバトンを渡して良いのだろうか。渡すべき『次の人』が存在するのではなく、俺のたまたま選んだ人物が『次の人』となるのではないか?
沢山の選択肢からたった一つの正解を見つける事と、自らの決断であらゆる可能性を切り捨てる事と、どちらが容易な事なのか、俺にはわからない。
道の先の大きな交差点で信号が変わる。車が動き出す。停まっていた車が全て行ってしまうと、僅かな間、エンジン音が無くなって静かになる。道を区切る白線は闇を被って何か諦めたような暗い色をしていた。
俺は遠くから照らしてくるヘッドライトに目を細めた。金色がかったその光は、前触れも無く一つの人影を黒々と浮かび上がらせた。
あっ、と思わず喉から飛び出す俺の声。悲鳴のようなブレーキ音がそれに重なる。
次に聞こえたのは女の声だった。
「殺してよ!」
怒ったような叫び声。俺はすぐさま走り出した。
一人の女が道路に座り込んでいる。けがをしているような様子は見られない。間近には急停止した白い車。後ろには何台かの車が列を成しており、クラクションの音が不満を込めて鳴らされている。。
女のそばには、白い車から降りてきた若い男が立っていた。顔はよく見えないが、女をどうしていいのか困っている様子がありありと現れていた。
「私を殺してよ! 何で止まるの! 轢いて、そのまま行っちゃえばいいのよ!」
女は泣きながらわめき続けている。タイトスカートからのぞく足は裸足である。俺は女に駆け寄るとかがんで肩に手をかけた。知らない男がいきなり触れてきたというのに、女はこちらを見ようとも振り払おうともしない。泣き叫ぶ事に全力を注いでいるようだった。「殺して」「もう嫌だ」と、嗚咽の合間に声を上げる。
俺は、そばに立つ若い男を見上げて言った。
「すみません、本当にすみません。大丈夫です。酔ってるんです。今退きます、ええ大丈夫ですから」
言いながら俺は、女の肩を抱いて立ち上がらせ、歩道へ連れて行く。歩道には女の荷物が置きっぱなしであった。革のバッグと、揃えられた黒のハイヒール。エナメルのハイヒールは車が通りすぎるたびに流れ星のような光を反射させる。女はまだ泣いていたが、何とか歩く事はできていた。
歩道に女を下ろした時には、泣き声は弱弱しくなっていた。うつむいて地面に座る女の右手を取った。爪にはピンクと白のマニキュア。
広げた手の平に、俺はバトンを渡す。
ぱしん、という音が鳴った。それは車の騒音にもかき消される事無く聞こえて、街全体にまるで鐘のように鳴り響いた。少なくとも俺と、そして女にだけはそれが聞こえた。
女が顔を上げた。手の中のバトンを見つめ、そして俺を見た。泣きはらした目が、これは何? と尋ねていた。
「頼んだ」
俺は女に伝えた。
「次の人に渡してくれ。これはバトンなんだから、捨てたりなんかしないで、絶対に渡してくれ。頼んだぞ」
俺はそれだけ言ってバトンから手を放した。女は紅白のバトンをぼんやりと眺めている。
これ以上、伝えるべき事は俺には無い。いや、言ってもいいのではないかと思う事は山のようにある。しかし、先ほどバトンを渡した時の言葉だけで、彼女には充分なのではないかと思ったのだ。
俺は女に背を向けて道を戻り始める。胸ポケットに触れると煙草は空であった。帰り道でコンビニに寄ろうと決めた。
背中に女からの視線を感じたが、振り返りたいとは思わなかった。あとはあの女が、ハイヒールを自分で履いて、次の人を探すだけの話である。
俺は家に帰ると、面倒だったので風呂には入らずそのままベッドへ直行した。とても疲れていて、間もなく睡魔がやってきた。
ふと、左手の不思議な感触が蘇ってきた。あの青年に渡された紅白のバトン。実に奇妙なバトンだった。あの青年はあれからどこへ行ったのだろう。俺と同じように帰って、やれやれ使命は果たしたぞとすぐ眠ってしまったのだろうか。
瞼の裏側に、ビルの屋上の情景が写る。何も無い屋上にひとり煙草を吸う男の姿。暗闇に明滅する煙草の赤い火。男はフェンス越しにはるか下を見下ろしている。ずっと見下ろし続けている。
こいつ、吸い終わったら死にそうな顔してるなあ。
夢うつつにそう思いながら、俺は眠りに落ちていった。
<終>
バトンを君に 空飛ぶ魚 @Soratobu_fish
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