嘘は渦まく

空飛ぶ魚

嘘は渦まく

 僕の目は嘘つきだ。だから僕は世界の正解を知らない。

 全ての人が同じ世界を見ていて、その世界が揺るぎない本物である、という考え方はもう時代遅れだ。誰の見ているどの形の世界が正解か、なんて断言できる人は一人もいない。

 だから、僕と君、どちらの見ている世界が正しいか、僕にも君にも誰にもわからない。

 僕も君も、普通の人には見えない世界が見えているのだという。けれど僕の見ている世界と、君の見ている世界もまた違う。確実に違う。どれほど違うのかは今は問題じゃない。僕の世界は正しく君の世界と異なっていて、僕には見えていないものが君には見えていて、君が知らない何かを僕は見ている。

 正しい形の世界を知らない僕が、ただ一つ、知っている真実がある。

 君の身体をくまなく覆っている渦のような模様。

 白と黄色と薄紫。たまに緑と紺色。色彩が丸を描いて、連なり、次々と連鎖する渦模様。曲線の角度の具合、色と色との間隔、君のきれいな身体と微笑み、全てが美しく調和して、僕の前に現れる。

 僕以外には誰にも見る事が出来ない、渦模様。

 僕の知る真実は、君を、そして君以外の全ての人を覆うこの渦が、世界のついている大嘘だという事である。



 私は新しい白衣に袖を通し、資料の束を持って小会議室へと向かうところであった。

 理由は二つ。一つは、小会議室で待っている対象者の証言を取り、警察などの機関へ伝えられる形にまとめる事。

 もう一つは、対象者をサンプルとするために、『症状』について詳しく聞き出すためである。

 十数年前、その症状は人種や地域、年代、性別も何もかもを無視して、突然に広まり始めた。

 見えるものの一部が現実とは異なって見える、という症状である。

 当初は幻視の一種かと思われたが、明らかに異質な未知の症状であると注目されるようになった。患者に精神病や麻薬の形跡もなく、一度発症すると長期に渡って継続する。だが、注目される原因はそれだけではない。

 患者が見るものは共通して『渦』であるのだ。

 例えばある人は、壁という壁に極彩色の渦巻き模様が見えると訴える。また別の人は、森が赤色の渦巻きに侵食されていると言う。どうやらその人物は「緑色」が全て渦巻き模様に見えてしまうらしい。

 これらの患者は皆、条件は違えど、必ず『渦巻き模様』という点では共通した症状を述べる。見える位置や条件、渦の色や形、個数といった要素は人によって大きく異なるが、結局は『渦』なのである。

 その異常を確認する術がないため、最初は虚言かとも思われていたが、もはや馬鹿には出来ない数の患者に膨れ上がったため、本格的な調査が開始された。視覚の異常以外はいたって平常で、脳にもおかしな点は見られていない。

 一体何が彼らに『渦』を見せているのだろうか。

 私がこれから会いに行く対象者も、その症状を持った者である。その者は事件を起こしているため、特に詳しく話を聞く必要がある。

 私は一度、深呼吸をして、小会議室のドアを開いた。



 僕には生まれつき、渦が見えていた。

 それが一風変わった病気であり、僕の見ている世界が嘘である事を知ったのはだいぶ成長してからだ。

 渦に関する研究は進んでも、治療法は見つかっていなかった。そもそも治療なんていう概念が僕には理解できなかった。突然に発症した時はともかく、生まれつきの異常は、もはやその人にとって普通ではないのか。僕はむしろ治療法が見つからない事を願っている。

 治療法が見つからない代わりに、まるで皮肉のような技術の開発には成功していた。

 人が見ている世界を、覗き見する。

 それがいわゆる「普通」の世界であろうと、僕らの見る「渦」の世界であろうと、他人の見る世界とほぼ同じ景色を見られるのだという。

 その技術開発は随分と難しいものだったらしいけれど、実現した今ではただのドキュメンタリーだ。問題はその技術を僕達がいかに利用するかにある。

 技術の結晶は四粒の薬。赤と青が一粒ずつで黄が二粒。赤と青はこの薬を利用する誰もが使う薬。ただし二粒の黄色い薬は、君の世界を見るために、君の血や細胞や色々なものを検査して作られたものだ。

 僕は水の入ったコップを持って、君の前に座る。

 君の肌は様々な渦模様に覆われている。君の頬にある大きな渦は特に美しい。薄紫の加減がちょうど良く、君の微笑みを更に魅力的なものにする。

 僕が薄紫だと思っているこの色も結局、僕が「その色」だと思っているだけであって、君が見る黒が僕の見る白だっていう事もある。世界は意思疎通を放棄している。

「どうして私の世界を見たいの?」

 渦に包まれた君は、僕にそう問いかける。

 僕に渦が見えるのと同じように、君もまた渦が見えるのだと、教えてくれた。

 ならば僕は、君がどんな渦を、世界を見ているのか知る必要がある。

「君と同じ世界を見たいからだよ」

「答えになっていない」

「恋人が何をどう見てるか知らないなんて、悲しいじゃないか。僕は君の世界も知りたいんだ」

 そういうものかしら、と言う君。

「私は貴方の世界を見れなくっても構わない」

「だからって別に卑屈にはならないよ。僕は」

「良いわよ。だって貴方の世界が凄く恐ろしい世界だったら、私はつらいもの」

 そんな想像は無意味だと僕は思う。

 君の世界が君の見ている世界だという以上、僕がそれを恐れる必要がどこにあるだろう? 君のものであるという事実だけが僕をコントロールしていて、君の世界を愛おしむ以外の選択肢は最初から排除されてしまっている。

「僕は嬉しいから、今から見に行くよ」

 そうして僕は鮮やかな色のカプセルを飲み込む。


 

 私はそこで話を遮り、彼に確認した。

「カプセルの数に間違いは無かったんですね」

 小会議室の中、私と向かい合ったまま彼は頷いた。

 木目のまだ新しい机の向こうで、その男はじっと座っている。検査用の服にはしわ一つ無い。

「間違いありません。きちんと確認しましたから」

「そうですか。もし一つでも誤りがあると、副作用がより酷いものになる恐れがあるので」

「はい。大丈夫です」

 彼ははっきりとそう言った。言葉の絶えた部屋には、換気をする空調の音が何かの虫の声のように低く響き続けている。

 不気味に感じられるほど男は冷静だった。彼にとっては大きな精神的苦痛を伴うであろうに、その落ち着いた話し方は、まるで他人の事件を報告しているのかと疑いを持ってしまう。

 男は落ち着き払ってこちらを見つめている。まるで私の方が観察か何かされているかのようだ。

「続けてください」

 私は机の上の書類に視線を戻した。



 例え世界が嘘をついていても、僕は世界を信じていたし、世界も僕を嫌ってはいなかった。

 渦模様と馴染めず、心がぼろぼろになってしまう人もいる中で、僕は生まれつきだという条件を除いたとしても、とても上手くやれている方だと思っていた。

 薬を飲んでどれぐらい時間が過ぎただろう。説明書きに載っている時間の範囲内ではあったと思う。

 君の笑顔から渦が消えた。

 僕は自分が何を見ているのかわからなかった。

 僕の前にいるそれが、君であろうという予測はあった。目の大きさ。唇の動く具合い。そういったものから推測される結論としては、それは間違いなく君だった。

 だが、僕の知る渦が、今の君には無い。

 鮮やかに咲く花びらを溶かしたような薄紫と、透き通るような白、そして生命力に満ちた黄色。それらが絡まり合い、上品でいて艶やかな渦は、もうどこにも見えない。

 目の前にいるそれの肌は、木のような色をしている。

 僕は口を開ける。しかし言葉は出てこない。

「私が見える?」

 それの唇が動いて、君であるらしい音程の声はちゃんと僕の耳にまで届く。どうしてそれから君の声が出るのかわからずに、僕はひたすら混乱する。

 気味が悪い。悪寒がする。

「これが本当の私。どうかしら」

 それが僕の手を掴んだ。僕は急いで振り払う。

 それは一瞬、まるで悲しむように顔の形を歪ませる。

「びっくりしてるの? 普通の人は、皆こう見えているのよ。渦模様なんて無いでしょう? 本当の私は、こうなの」

「そんなはずない!」

 言葉は勝手に口から飛び出した。

 僕は君が好きだったはずだ。

 美しい模様に包まれた君の肌も、君の声も、それこそ爪の先まで愛して止まなかった。

 目の前のそれは君じゃない。顔にも首筋にも、手にも足にも、どこにも渦が無い。

 ただ、表面を剥いだ木の幹に似た色が一面広がるばかり。

 けれど、それが本当の君だというのなら、僕は今まで一体何を愛していたのだろう? 君を愛しく思う感情は何だったのだろう?

「そんな、僕は……嫌だ、お前は何だ!」

「どうしたの? 待って、どこに行くの!」

「来るな! この、化け物!」

 立ち上がった僕に向かって、それは手を伸ばしてくる。振り払って部屋を横切り、震える手で鍵を開けて外へ飛び出す。君の声が僕を追ってくる。

 エレベーターでは逃げられない。非常階段を駆け下りる。後ろから足音がついてくる。僕はフロントの前を駆け抜けて、建物の玄関から屋外へ。

 僕の目に空が映った。

 そこにあるのは、青空でも、夕焼けでも、夜空でも無かった。

 青紫と黄色、紅色と濃緑、あらゆる色が入り交じり、流れ出し、渦を巻く光景。

 僕の後ろで君の声がする。

「あなたにも見えた? きれいな空でしょう?」

 君は、それは、渦の無い顔で優しく笑っていたのだろうか。

 僕の記憶はそこでぷつりと途絶えた。



「僕は、馬鹿な話だと思っていました。彼女の世界を見てみたいだけだったんです。きっと受け入れられると思っていて……まさかあんな事になるとは、全く思ていませんでした」

 私に向けて、彼はそう言った。話し方は落ち着いている。しかし先ほどまでの冷静さは見られない。精神的には酷く動揺している事が伝わってくる。思い出させ過ぎたかもしれない。

 男の話は、あの薬の使用中に起きてしまった事件についてであった。恋人と同じ渦の症状を経験したものの、気が動転してしまい恋人に暴行した。この頃とても多い事例である。

 私は彼に話しかける。

「大丈夫です。あなただけではありません。他人の見えている世界を受け入れられない例はたくさん報告されています」

「そうなんですか……」

「ええ。あの薬は、販売中止になりました」

 私がそう言うと、彼はすぐ納得したようだった。

「だから、わざわざこうしているんですね。おかしいと思ったんです。僕に話をさせるより、薬を使って調べるのが早いだろうと」

「そうです。無理に思い出させてしまい、申し訳ありませんでした」

 必要な事は全て聞く事が出来た。少々長引いてしまった。私は資料をまとめて、退出の準備を整える。

「担当の者を呼びますので、ここでお待ち下さい。お疲れ様でした」

 軽く頭を下げて、彼がまた顔を上げる。

 その顔は、色の入り交じった渦模様で覆われている。

 私はドアをそっと開けて廊下へと出る。するとドアのそばには人が立っていた。肌を覆う渦巻きの色から、教授だとすぐにわかった。

「ご苦労さん。次は私が」

「はい。宜しくお願いします」

 私は教授にそう言って、廊下を歩き出した。しかしすぐに教授の声が引き留めた。

「そう、彼女の事なんだが」

 足が自然と止まった。教授を振り返る。

「最後に目撃された場所の近くで、靴が見つかったそうだ。まだ片方だけだが……」

「あのホテルの近くで?」

「そうだな。詳しい事は聞きに行ってくれ」

「わかりました」

 教授の言葉はそれで終わりだった。教授はドアを開き、あの対象者の部屋へと消えていった。私は資料を持ち直した。

 私――「僕」の愛した彼女は依然として行方が知れない。

 私が覚えているのは、あの禍々しい空の色と、何の模様も持たない彼女の顔だけだ。著しい混乱状態に置かれて記憶の大半が欠落している。

 平静を取り戻した時には、私は救急車の中だった。車を呼んだのは女性であると後で聞いたが、それが彼女である証拠は無い上、現場には私が倒れているだけで、女性の姿など無かったという。

 彼女は、私と泊まっていた場所とはまた別のホテルで一泊して以降、どこへ行ったのか手がかりの見つからないままだ。

 彼女は今も、あの美しい渦に包まれているのだろうか。私にはわからない。


〈終〉

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