名探しカルー

空飛ぶ魚

名探しカルー

 その青年と出会ったのは、森の中だった。

 木々の合間に開けた場所があり、そこを埋め尽くすようにして咲いている花々。花の色と森の緑が混ざり合う風景を、キャンバスに向かって描いていたローレは、近づいてくる足音に気づかなかった。

「その花は何?」

 びっくりしてローレが振り返ると、少し離れた所から、見知らない青年が立っていた。大きな鞄を一つだけ提げた、旅人のような身なり。ローレと同じ十代後半といったところだろうか。好奇心の強そうな真っ黒の瞳をこちらに向けている。

「あ、えっと、え?」

 いきなり尋ねられて、ローレは気が動転してしまい、言葉が出てこない。その間に青年がざくざくと地面を踏んで、ローレのすぐそばまで来て、キャンバスと景色を交互に指差して言った。

「この花だよ。だってほら、あっちの花と色が全然違うじゃないか。これは何ていう花?」

 景色に広がるのは、白い花畑。それに対して、キャンバスにローレが描いている花々は、赤や黄色や紫など、あらゆる色で溢れかえり、景色とは全く異なっているのだ。

「ち、違ってもいいじゃない」

 ローレが答えると、青年はごく自然に頷いた。

「うん。それは良いんだけど、俺は名前が知りたいの。違ってるのは別に構やしない、けどじゃあ、きみが描いてるのは何だろうな、って気になった」

「名前……名前とかは、特に……。私が描きたくて、今思いついたものをそのまま描いているから……」

「そうかー。でも綺麗だな。ホントに見た事があるみたいだ。これ好きだなー」

 青年が絵を覗きこみながら、そんな事を言うので、再びローレはびっくりしてしまった。褒めてもらった喜びを感じたのはその後である。

「あ、そうそう、俺、道訊くつもりだったんだ。綺麗な絵だからつい忘れてた」

「道? じゃあ、旅人なの……?」

「そうだよ。街はどっちか知ってる?」

「それなら、あっちの方を……」

 立ち上がったローレは街へ続く道を教えた。その街はローレの住む街であり、この場所は森の少し入り組んだところにあるため、人気があまり無いのである。

「ありがと、助かる」

「いえ。私こそ……絵をほめてくれて、ありがとう」

 言い慣れていないせいで、たどたどしくなってしまうのがもどかしい。ローレはとにかく気持ちを伝えようとして、そう言ったが、青年の一言でその気持ちは凍りついた。

「きみ、名前は何?」

 沈黙が訪れた。風が素知らぬ顔で吹き抜けていき、ややあって青年が首をかしげる。

「どうした?」

「……早く、行った方が良いんじゃないですか? 日が暮れたら、暗くなってしまいますよ、この辺りは……」

「そうかな。じゃ、そうするよ。ありがとね」

 青年は何も気付かなかったそぶりで、鼻歌を歌いながら歩き出したが、突然何かひらめいたような顔でローレを振り返った。

「そうか、人にものを訊く時は、まず自分が言わないといけないんだったな。ごめんよ」

「え……?」

「俺の名前はねえ、」

 きょとんとしているローレの前に、青年は右腕を差し出した。細い手首には金色の腕輪がついていて、そこに細かく模様と、文字が刻まれている。

 その文字―――青年の名前を見て、ローレははっと息を呑んだ。

「〈愚か者〉……っていうんだ」

 愚か者カルーは、何気ない調子でそう言った。



 名前とは、神から与えられる賜物である。

 万物の名は唯一絶対の〈神〉によってつけられたとされ、人間もまた、個人の名を神から授かる。幼い頃は名を持たずに過ごし、七歳を数える年に神殿で、神の決定した名を神官を通じて教えられる儀式を行う。その時、名を示す腕輪が作られ、以降それを常に身につけて生きていく事になる。

 これがこの国の掟である。

 名前はその個人を表すものであり、高貴な名を持つ者はそれだけで評価されて、人からの尊敬を集め、良い仕事につける。

 その逆の場合も存在する。卑しい名前を与えられた者は見下され、嫌われ、排除を受ける。名は絶対であり、人物を表すものだからである。

 素晴らしい名前を持ち、成功した者達が胸を張って歩く街には、その陰でひっそりと生きる沢山の人々がいる。



 街は今、開催の近づくアートコンテストの準備で浮き立っている。このコンテストは年に一度行われ、沢山の人が集まる重要な行事である。

 大きなギャラリーはすべてコンテスト用に作品を準備し、通りは綺麗に飾り付けられ、大広場では屋外展示の準備が進められる。今年はどのような作品が並ぶのだろうかと、人々は期待してコンテストを待っているのだ。

 そのコンテストの申込場所にもなっている、立派なギャラリーの建物。その中、カウンターの向こう側から、担当の男はローレに言った。

「何度も言わせるな、無理だ。もう帰ってくれたまえ」

 ぶっきらぼうな物言いで、ローレの方を見もせずに男は、何か書類を書くのに忙しそうである。ローレは引き下がらずに、カウンターへ身を乗り出すようにして言う。

「お願いします! どうしても出たいんです! 会場の隅の方で充分ですから、どうかお願いします!」

「……君、自分の立場をよく考えてみなさい」

 男がうんざりした顔を上げて、人差し指をローレに突き出した。

「いい加減に解らんかね。相応しくないのだよ。このコンテストには。そんな不吉な名前にスペースを貸すとな、ろくでもない事ばかり起きるんだ。解ったらさっさと出て行ってくれ」

 男が書類に戻る。カウンターの奥の方で、職員が二人、時々こちらを見ながら何か小声で喋っている。意地が悪そうにくつくつと笑う姿を見て、ローレは急に熱が冷めたように恥ずかしくなり、顔を伏せて早足で出て行った。

 空は輝くような晴天であるが、ローレは下を向いて、自分の影を追うようにして道を歩いていく。人々のざわめきで大通りはいっぱいで、その中を通る自分だけが異質なものに思えて、路地へと道を曲がった、その時である。

 バタンと扉の開く大きな音、続けざまに慌ただしい物音が聞こえて、はっとローレは顔を上げた。

 地面に誰かが倒れ込むのが見えた。路地の先にある建物の扉が開いている。そして激しい怒号が耳に突き刺さる。

「今すぐここから失せろ! けがらわしい!」

 物凄い勢いで扉が閉められ、路地は一度にしんとする。倒れていた男は何やら文句を言いながら立ちあがって、かばんと服をはたく。

 ローレはまさかと思った。その男は、つい数日前、森で道を尋ねてきた青年だったからである。

 名前は、そう―――〈愚か者カルー〉。

「あー、いてえなあ、もう。何だよー」

 カルーはふと、立ちすくんでいるローレの視線に気づいた。

「あ! この前の!」

 カルーがぱっと嬉しそうに笑うのと同時に、ローレは回れ右をして急いで大通りへ歩き出す。

「おい、待てよ! ちょっときみ!」

「触らないで!」

 追ってきたカルーが腕を掴もうとするのを振り払った。目を丸くするカルーを睨み付ける。

「〈愚か者〉なんかに触られたら汚れるわ! 近づかないでよ、気持ちの悪い!」

「ごめんよ。でも、お礼ぐらい言わせてよ」

 歩き出したローレの後ろを、まるでこちらの言う事を無視して、カルーは喋りながらついてくる。

「この前はありがとう、おかげですぐ着いたよ。でも、きみには失礼だけれど、ここの人、無愛想だなあ。どこでも大体そうだけど、特にさ。優しかったのはきみぐらいだなあ」

「ついてこないでって、言ってるでしょう」

 やってくる行商の荷車を避けながら、ローレはぽつりと言った。けれどやはり、カルーはローレの言葉を聞いていなかった。

「そういや、この前の綺麗な絵、出来た? あの、花がいっぱい咲いているやつ」

 冬の豪雨にさらされたように、一度に身体の芯が冷たく麻痺した。ローレは歩き方を一瞬忘れて、危うく人にぶつかる所であった。

「花なんて……」

「ん?」

「花なんて、咲いてないわよ」

 道の端で、ローレは足を止めてカルーを振り返る。

「私の名前、言っていなかったわね。ローレ。〈咲かない花ローレ〉よ。……もう、いいでしょ。どこかに行って頂戴」

 落ちついた声でローレは言った。街のざわめきがずっと遠くに感じられる。目の前の青年は、ローレの目を見つめ返して、人懐っこく笑った。

「良い響きの名前だねえ! そうだ、ローレの描いた絵、もう一回見せてよ!」



 森の緑に囲まれた沢山の花々。繊細だが力強く描かれていて、色彩のバランスが上手い具合に取れている。

 部屋に置かれた絵はどれも、多彩な色の花に溢れている。空の下の花畑は黄金色。絵の中の花瓶に咲く小さな赤い花。湖に浮かんでいるのは緑の丸い葉と薄紅色の花弁である。

「綺麗な花だなー。花が好きなんだな」

 ローレの家に招かれたカルーは、絵を一枚一枚覗きこんで、楽しげにしている。家は一室が生活用、もう一室が小さなアトリエ。ローレは椅子に座って、カルーを眺める。

「両親が花屋だったのもあって、好きなの」

「それでも、こんなに色んな花は見ないよね。全然見た事のない花ばかりだ」

「ええ、だって、見て描いていないもの。ほとんどが空想よ。私が描きたい花を考えて、描いているだけ」

「本当? そう言えばこの前も、そうだったしなあ。凄いなあー。本当にあるみたいだ」

 カルーは小さいサイズの絵を手にとって、顔を近づけたり遠ざけたりしている。

「……咲かないのよ。本当には。そこにある全部、絵の中でしか咲けない、悲しい花達なのよ」

 ローレの方をカルーが振り向く。

「わかるでしょう? 〈咲かない花〉に過ぎない私には、所詮そんな事しか出来ないの」

「こんなに綺麗に咲けてるのに?」

「ええ。誰にも認めてもらえない花達。……誤解しているのかもしれないけれど、私は絵描きでも何でも無いのよ。今回のコンテストだって、参加すらさせてもらえない……」

「コンテスト、そうか、あれはコンテストなんだ! 街中、何だか浮き足立ってるなあ、と思っていたんだよ、うん。きみも出ればいいのに」

「出たかったわよ!」

 ローレの剣幕に、カルーがびっくりして目を丸くしている。ローレは気まずさを紛らわそうと椅子に座り直す。

「ご、ごめんなさい。……私は参加出来ないの」

「どうして?」

「名前よ。私の名前……」

 ローレは小さな声で言った。

「何度も何度も参加を申し込みに行ったのよ。さっき貴方に会う前も、そのために街へ出ていたの。それでも駄目……名前がふさわしくないから。〈咲かない花ローレ〉なんて、コンテストの展示を飾るにはふさわしくないんだわ……。今年こそは出られるかと思ったのに、やっぱり、駄目だった。どんなに満足行く絵が描けても、誰にも見てもらえないのよ」

 コンテストにローレは一度も出た事が無い。数年前に参加を断られてから、毎年申込をしているが、それでも結果は変わらないのだった。

 コンテストにふさわしくない、ローレの名。それさえ変われば、それさえ無ければと、願わずにはいられないのである。

 ローレは座り込んでいる男に尋ねた。

「ねえ、貴方は……その名前で、どうやって生きているの?」

「何とかね。この街に来てからも、どこの宿にも泊めてもらえないし……全くあのおじさんは! きみも見ただろ、俺の名前を聞いた途端、突き飛ばして追い出しにかかってきたよ。さすがにびっくりだー。殺されるかと思ったな」

 ついさっき、カルーが転がり出てきた建物は宿屋だったらしい。カルーの話し方は、まるで誰かから聞いた面白い話を喋っているようで、怒りや怯えといった感情はどこにも見当たらない。ローレにはそれが信じられない。

 カルーが受けた事は紛れもない辱めである。自分ならばきっと、すぐに感情をあらわにする性格だから、激怒して詰め寄るか、怯えきって誰にもその話をする事ができないかのどちらかだろう。

「貴方は……どこでも、そうなの?」

「時と場合だけどね。もっと酷い事ならいくらでもあるけど、俺だっていつも道端で寝てる訳じゃないんだよ。大抵、どこかに親切な宿があって、そこで働く代わりに泊まったりするんだ」

 あまり清潔とは言え無さそうな、薄汚れた服。伸びた黒い髪。男にしては貧弱な、細い手足と身体。そんな〈愚か者〉にとって、この程度の事は日常の些細な一部に過ぎないのだろうか。カルーの落ち着きぶりから、かえってそう思わされたローレは、少しの間だけ自らの不遇を忘れていた。

「……うん、やっぱり、ローレはコンテストに出るべきだって。俺、絶対そう思う。だってこんな綺麗な花、なかなか描けるもんじゃないぜ」

 人からどう思われているかなんて気にもしない様子で、カルーは唐突に言った。ローレはゆっくり首を横に振る。

「無理なのよ。一般の参加は今日が締切。コンテストは来週……。優れた名前、美しい名前の人が沢山、名に合う綺麗な絵を出すの。私の名前じゃ、とても……」

「ローレは絵描きじゃないの? 俺は勝手にそう思ってたけれどさ」

「これはただの趣味。工場で働いてるけれど、所長の手違いで材料が届いてないから、今日は臨時でお休み。〈咲かない花〉の絵なんて、嫌がって誰も買ってくれないわ」

「へえ……」

 カルーは上の空である。絵から目を離して、何やらぼんやりしている。

「それなら、勝手に参加しようよ」

「……えっ?」

 唐突にカルーは言い出した。

「俺の見間違いじゃなかったら、街の色んなところに、コンテスト用の展示スペースみたいなものがあったと思うんだけど、沢山あるんだから、」

「まさか一つ借りようなんて言わないでしょうね」

「あ、先に言うなよ!」

「……な、なんて馬鹿な事を言ってるの!」

 カルーの言い出した事が、あまりに型破りな事であったので、ローレは絶句したのちにそう言った。

「そんな事をしたら、処罰されてしまうわ! それに、第一どうやって置くのよ。あんな目立つ場所に」

「うん、そうだな、やっぱりねえ。じゃあ、今ローレが言った事、俺がクリア出来るんだったら、……そうしたい?」

「何言って……」

「ごめん、言い方が悪かった。えっと、俺は、出来るか出来ないかとか、したら駄目かとか訊いてるんじゃ無い。ローレが、参加したいかどうか……それ、それだけが問題なんだよな、うん」

「私が……?」

 カルーがこちらを見ている。彼の周りには、たくさんの絵。その中に、どうしてもコンテストに出したいと願った、ひとつの絵がある。

 先程、ローレを追い返した受付係の男を思い出す。

 名前が壁ならば、名前さえ無いならば。

 例え自分は花開けなくとも、この花を咲かす事が出来るとしたら。

 ローレはじっと絵を見つめて、言った。

「……参加したい。私の絵を……皆の前に、咲かせてやりたいの」

 〈愚か者〉は、にっと笑って頷いた。



 コンテスト前日の夜。

 欠けた大理石のような月が見下ろす広場。木製の白い展示ボードには青ビロードの覆いがされていて、中央の噴水を取り囲むように並んでいる。ビロードの下には一般参加の絵が飾られているので、あとは早朝、高名な画家の作品がていねいに飾られるだけであった。

 広場を警備する男は、静かな空気の中で眠気と戦っていたが、ふと、ガタガタというおかしな物音に気付いて、椅子から飛び上がらんばかりにぎょっとした。

「おい! 誰かいるのか!」

 叫んでから、椅子の傍に置いていたランプを取り上げ、近くの展示ボードを見やる。

 すると、月光の降り注ぐ闇に紛れて、うごめく人影があった。ビロードの覆いをずらして、その下にある絵に何か悪戯をしているようだ。

「何者だ!」

 人影がぎくりと反応する。そして次の瞬間、大慌てその場から逃げ出したのである。

 いや、逃げ出したのではない。人影は右でも左でもない、警備の男目がけて、物凄い速さで駆けてきたからである。

 衝突。人影からの体当たりを食らい、警備の男は足をもつれさせて背中から地面へ落下。男が衝撃で呻いているうちに、人影は辺りを見回して、広場の奥の方へと俊敏に走り出す。

「おい! 誰かいるぞ! コソ泥だ! 捕まえろ!」

 ありったけの大声を張り上げる。にわかに広場に響き渡るたくさんの足音。広場を警備しているのは一人だけではない、何人もの男達が、物音と声を聞いて駆け出していた。

「そっちだ! そっちに行った!」

「くそっ、何だ!」

「捕まえろ!」

 ばたばたと靴を鳴らして、警備の男達は侵入者を追っていく。侵入者は捕まらない。そのまま、展示ボードが続いている大通りの方へ逃げていく。警備の男達を引き連れて。

 広場から騒音が消えて、しかし静寂の戻る前に、小さな靴音が広場の片隅に生まれる。そして、もう一つの人影がれんが造りの広場を横切り、つい今しがた別の人影があさっていた場所とは全く違う展示ボードに近づく。

 人影は四角い影を引き連れていた。四角の影はビロードの向こう、コンテストのために作られた空間へと吸い込まれていって、そうして人影はビロードを注意深く下ろす。

「一体何処に消えやがったんだ、あれは……」

「本当だ。路地の方も探した方が良いぞ」

「俺ァ一つひっぱたいてやったぜ……あいにく顔は見えなかったがな」

「おい、それは俺だ、俺を殴ったんだ! この野郎、間違えやがって! ……」

 闇の向こうから声とランプの光が帰ってくる。広場の人影はビロードを整え終わると、そうっと壁づたいに歩いて、そして路地の方へと消える。

 同時に、広場のれんがに細長く伸びていた女性の影もまた、紺色の暗がりの中に紛れていった。



 今年のコンテストは、いつもと少し違っていた。

 話題の中心となっているのは、有名な画家の新作ではない。一般参加で見出された新たな才能でもない。

 突如として現れた、題名も作者もわからない絵の話でもちきりになっているのである。

 その絵は、広場の隅にいつの間にか飾られていた。一般参加の絵の隙間、本来なら飾りの花が掛かっているところに、まるで代理でもするように、花の絵が飾られているのだ。

 それは見事な色彩に溢れた絵であった。人々の誰も知らない花であるが、あらゆる花畑の色を一度に集めたような、うっかりすると陳腐になりそうだが、そこを上手く統制した色合い。人々の前で、絵の中の名も無い花は自由に咲き誇っていた。

 しかしそんな絵も、参加作品としては無効である、と、運営者達が撤去のために駆けつけてきた。

「この絵を描いたのは、一体どなたなの?」

 絵が下ろされようとした時、そう言ったのは一人の老齢に差し掛かった女性である。コンテストにも参加している、高名な画家の〈美しき紫絵具シャルメリー〉である。紫の帽子を手でおさえて、彼女は群衆に問いかけた。

「一体誰が描いたのか、誰か解る人はいないの? 私はこの絵が気に入ったわ。凡人に埋もれさせるにはいかない、素晴らしい才能よ。さあ、この絵の作者がいるのなら、今すぐここで出ていらっしゃい」

 シャルメリーの言葉も、絵と同様すぐに人々の間に広まった。だが、絵の作者は結局、見つかる事は無かった。申し出てくる者なら多数いたが、どの人物もすぐ偽物であると見破られたのである。



「きみ、行ってきなよ!」

 広場の中央、噴水に座っているカルーは、隣にいるローレへ言った。二人の場所からは、未だ飾られているローレの絵と、そこに集まる人々が見え、シャルメリーの声もはっきりと聞こえた。

「良いのよ。これで」

「そうかな? 俺は行くべきだと思うな。だって今行けば、きみが凄い絵を描くって、証明になるじゃないか!」

「……こんな名前じゃ無かったらね、飛んでいくところよ。それに、変に目立ってしまうと、両親にも迷惑がかかるわ……」

 そう呟きながらも、ローレは穏やかな顔をしている。

「こうやってたくさんの人に、名前なんか抜きで見てもらえるなんて、これ以上の幸せは無いわ。本当にありがとう」

「うん、いやー、夜に逃げ回るのは簡単だね。楽しかったなー」

 カルーは笑っていたが、何やら立ち上がると、

「俺、もうちょっと色々見てくるよー。綺麗な絵がたくさんあって面白いや」

 カルーが口笛を吹きながら、人の流れに紛れこんでいくのを見届けた後、ローレはそのまま自らの絵の方を眺めていた。絵の前から人の姿が無くなる事はなく、あらゆる人々が、作者のわからない絵をじっと見つめる。それを見ているだけで、ローレは嬉しかった。

「お嬢さん、少々宜しいかな?」

 呼びかけられた方を見ると、ローレから少し離れた所に座っていた男性がこちらを向いている。品のある身なり。白いひげを生やして、杖に手をついている。

「何でしょうか?」

「君は、あの絵を描いた作者じゃないのかね?」

 ローレは、何も言えないまま急いで顔を背けると、立ち上がった。

「……名前なら、なんとでもなる。……君は絵を描きたいか?」

 広場のざわめきの中、老人の静かな声はローレにだけ届いた。立ちつくしていた彼女は、ゆっくりと噴水の方を振り返った。

 


 コンテストが終わって数日後、ローレの元に突然、カルーが訪ねてきた。もうこの街を出るのだという。最後に挨拶に来た彼を送って、ローレは街を出た先の森まで行く事にした。

「貴方はどこに行こうとしているの?」

 初めてカルーと会った黄色い花畑は、僅かに緑色がまじっているが、それでもまだ元気な印象を与える黄色いじゅうたんは健在である。ここに寄りたいというのはローレが言い出した事である。

「俺? 俺……ああ! そうだ、忘れてた!」

 カルーはさほど変わっていない外見で、荷物だけ少し増えていた。カルーはローレを振り返って言った。

「ローレは、『名前を変えられる場所』の事を知っているかい?」

「……名前を……?」

「ありゃ、それじゃ知らないかー。いや、俺はそこを目指して旅してるんだ。色々聞いて回りながらね」

 カルーは花畑に一歩踏み行って、花を摘もうとしゃがみこむ。その背中にローレの視線が落ちる。

「どういう事……? そんな場所があるっていうの?」

「それがねえ、あるらしいんだ。俺もとぎれとぎれにしか知らないんだけど。俺はそこへ行って、名前を変えるんだ。カッコいいやつに変えてやる」

 カルーが花を掴んだ右手を上げる。手首の腕輪が、〈愚か者〉の文字が陽光を跳ね返して光る。

「俺の親も兄貴も、凄く立派な名前を持った、凄く立派な人なんだ。父さんなんて市議会議員だぜ。兄貴も今ごろは、法律家になれてるかな。けれどさ、俺はこんなだから、家を出た方が気楽だったんだー」

「それで……名前を変える旅に?」

「そうそう。こんな嫌な名前、早く変えてしまうんだ。俺はずっと、本当の俺の名前を探しているんだよ。……俺の名前、どこにあるのかなあ」

「……ごめんなさいね。カルー」

 ローレが言った。カルーは少し驚いたような顔でローレを見る。彼女はカルーの後ろに座り、悲しげに笑いながら続ける。

「名前を変えるチャンスなら、すぐ身近にあるものよ。……私、名前を変える事にしたの。ローレをやめる事にしたの」

「……俺にもわかるように説明してよ」

「私は、絵描きになるの。別の街に行って、この名前を隠して、新しい名前で……。黙っていてごめんなさいね。コンテストの時、私を名前じゃなく能力で評価してくれる人と会ったの。ごめんなさいね、詳しい事は言えないのだけど、その人に助けてもらって……腕輪も、うってつけの名前のものがあったわ。世の中って深いのね。裏側に回ってみれば、何だって出来るものね……」

 カルーの痩せた背中は何も答えずに、花を摘み続けている。

「……教えてあげる。私は、ローリアになるの。〈満開の花ロ―リア〉よ。本当に素敵な名前。……でも、どうしてこんなに寂しいのかしら……素晴らしい名前で生きていけるのに、何で……。ねえ、カルー。どこかで私の絵を見たら、私を……ローレを思い出してくれないかしら? 〈咲かない花ローレ〉は、立派に咲いたんだって思って欲しいの……」

「……あの絵は、一度見たら忘れられないからなあ」

 その言い方が、何だか困ったように聞こえたので、ローレはつい微笑んでしまった。

「でもなあ、俺は思うんだよ。ローレって、とてもきれいな名前じゃないかってさ!」

「きれい、かしら……」

「そうだよ、前にも言ったじゃんか。響きがさ、歌みたいだと思わない? 俺はこの響き、好きだけどなあ」

 そしてカルーは、摘んだ花々を風にそよがせながら、歌を口ずさみ始める。

「♪ローレ・ローレ・道の彼方・どこで咲いているのだろ……」

 それは、しょっちゅうカルーが鼻歌で歌っているメロディとよく似ていた。即興で歌詞を作って、音に乗せているのだ。カルーの自由な歌声は、ローレの耳と花畑の上の空へ、緩やかに広がっていった。

「♪ローレ・ローレ・空色と赤レンガ・どんな色で咲くのだろ……ローレ・ローレ……」



「あなた、とてもその歌が好きなのね」

 話しかけられて、ローリアは我に返った。馬車はがたりがたりと揺れながら、隣の街へと乗客を運ぶ。ローリアの向かいに座る老齢の女性が、穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見ている。

 ローリアはずっと、小さく鼻歌を歌っていたのだ。うるさかったかと思い、謝る。

「あ、すみません……」

「謝る事は無いのよ、とっても美しいメロディね。流行りの曲なの?」

「えっと……、人が歌っているのを聞いて、良いなあと思って、覚えちゃったんです。……旅人さん、なんですけれど」

 名前を言いそうになるのをごまかしながら、ローリアがそう話すと、女性は、まあ、と呟いた。そしてローリアに笑いかけた。

「それは素敵な旅人さんね。きっと、素敵な名前の方なのでしょうね」

 女性の言葉を聞いて、ローリアは思わず、ふふっと笑ってしまった。

「ええ、とてもきれいな響きの、名前なんです」


〈終〉

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