ローリン

空飛ぶ魚

ローリン


 ローリンは一人きりだった。

 風はなく、しんと冴えた空気が森には満ちていた。森にはローリンの他に誰もいなかったが、ローリンとテーブルを取り囲む木々が、まるで生物のように息をひそめて佇んでいた。少しも葉を揺らす事なく、沈黙だけを生み出し続ける、静寂の森だった。

 ローリンは白のドレスを着て、真っ白な椅子に腰かけていた。テーブルの上にあるティーポットもカップも、淡く輝くような純白である。ティーポットはいつも暖かな紅茶でいっぱいだった。ローリンは空になったカップに紅茶をゆっくり注いでは、また時折口に運ぶのだった。

 ローリンのいる森の向こうには霧があった。ローリンから遠くなるにつれて木々の合間に白い影が浮かぶようになり、ある所からすっかりその先が見えなくなっていた。この森でローリン以外に動く唯一のものが霧だった。どこから現れてどこへ消えるのか全くわからないこの霧を、ローリンは恐れてなどいなかったし、それどころか、時間をかけて流れ、形を変え、漂い続ける霧を見ている事に楽しみを見出していた。ローリンは紅茶を飲みながら、ずっと霧を見ていた。

 ローリンが青年を見たのも、まさにその霧の中であった。

 それはローリンが、カップに紅茶が僅かしか残っていない事に気付いて、ポットに手を伸ばしたところであった。ポットの向こう、木々の向こうに、何かすばやく動くものを見た気がして、顔を上げたのだ。

 その時ローリンは、世界がそれとローリンだけになってしまったかのような感覚を覚えた。

 青年の横顔が、霧の中に浮かんでいた。体全体が見えたわけではない。肩から首、そして頭が、霧に包まれるようにして木と木の間をすっと動いた。

 青年がどんな顔をしているか、ローリンにはよく見る事ができた。青年は実に精悍な顔をしていた。少し長めの茶の髪に、すらりとした鼻、頬は痩せていて白く、無駄が無かった。表情は存在せず、ただ目だけが不思議な光をたたえて霧の向こうを見ていた。

 青年は何の表情も浮かべないまま、突然にうつむくと、霧に乗って森の向こうへと消えていった。

 ローリンは僅かな間、ポットに伸ばした手もそのままに、青年がいた場所を茫然と見つめ続けた。

もはやそこは虚空で、新たな霧が緩やかに立ち込め始めているにも関わらず、ローリンは青年がいなくなった事を認識できなかった。

 おいかけなきゃ。

 ローリンはポットから手を引っ込めると、急いで立ち上がった。目は青年の消えた方向をずっと見つめたままである。

 青年の消えた方角をローリンは知っていた。それは西の方角であった。

 ローリンの足は自然に西へ向いていた。ローリンはきれいなティーカップやポットの紅茶など忘れていた。脳裏に浮かぶのは先の青年の白い横顔だけであった。柔らかな草の上をローリンの白い靴が飛ぶように通り過ぎていく。青年の去った方向へ、西へ、ローリンは駈け出した。

 そうして、ローリンは青年に恋をした。 



 若い画家は酷く不愉快な心持であった。

 それは、彼のいる個展会場の人入りの良さのせいでもあり、絵を鑑賞してまわる人々がこぼす感嘆のため息のせいでもあった。しかし今、何より若い画家を不機嫌にさせていたのは、彼が対峙している一枚の絵であった。

 暗い色の森の中で少女が椅子に座っている絵。少女の前にはテーブルと、貴族が使いそうな上品なティーポットにカップ。皆まぶしいほどの白さで、森の暗さと対比するかのように描かれている。少女は真珠のような白のドレスを身にまとい、閉じかけた目でどこかを見ている。そして少女を囲うように立ちこめる霧。絵の下には金色の小さな板が飾られていて、一つだけ刻まれた言葉が照明を反射して鈍く光っていた。

『霧』

「なんて可憐な少女だこと!」

 若い画家の隣で婦人が耳に障る声で言った。彼女と一緒にいる男性が同意する気配が伝わってきたが、若い画家はそちらに微塵も意識を向けなかった。

「それにこの儚そうな表情といったら! なんて素敵なんでしょう」

「ああ、確かにこの繊細さなら、あの賞に選ばれたのも納得できるな。実にふさわしい絵だ!」

 男がもったいぶった声でそう言うのを聞いた時、若い画家の胸中でごうと何かが湧きあがった。

(ふん! 賞が何だ!)

 若い画家は心の中で呟くと絵から目を離し、会場出口へ向かって歩き出した。絵の前を去る際、あまりに勢いよく足を踏み出したため、隣の男女に危うくぶつかりかけたが、会釈すらせずに横を通り過ぎて行った。

「不作法者め! 待てよ、彼は確か……」

 男性の呟きはそれ以上若い画家の耳には届かなかった。だが画家はとっくに気付いていた。若い画家を見る周りの視線が、汚れた野良犬を見るようなものに変わっていたのだ。彼はますますむかむかしてきて大股で出口を目指す。そして戸を突き飛ばすように開けると、通りを往来する人々の波へ飛び込んだ。


 

 ローリンは西へと歩いていた。

 森の中には道が無いため、ローリンの靴ではとても歩きづらい。ごつごつした木の根を超えないといけない時もあれば、藪をかきわける時もある。草が生えていないむき出しの土の上も通ったが、ローリンの靴は白色のまま、きれいな光沢を放っていた。

 森には相変わらず霧が立ち込めていた。手でつかめそうな程濃い霧は寂しげにさ迷う亡霊を思わせた。ローリンは霧の漂う森を一人、ひたすらに歩いていく。

 ただ黒い木々が現れるだけだった視野が、突然、明るくなった。ローリンは足を止めた。霧にかすんでいた森の向こうが急激に明るくなり始め、まぶしさが目を刺すようであった。ローリンはとうとう目を閉じた。

 再び目を開けた時、森の先がすっぱりと消えて、かわりに赤い街が広がっていた。

 足元の地面が、その少し先からは赤褐色のレンガ道に変わっていて、軽く左へと曲がりながら伸びている。通りを挟むようにして、何階建てかすぐにはわからないほど高い建物がどこか寂しげに建っている。レンガ造りだったり木造だったりと色々な建物があるが、共通するのはどれも似た赤褐色であるという事だった。夕日よりもなお暗い赤色。白くかすむ空を背景に、街全体がくすんだ夕焼けに沈んでいるようだった。

 ローリンは景色の変化に驚いたものの、むしろ喜びを感じた。青年を追ってここまで森を進んできたのだ。この街に青年がいるのかもしれないと考えると、それだけで胸がじんと暖かさに包まれた。

 ちりん。

 小さな音がローリンの耳に届いた。

 はっとしたローリンが耳をすますと、再び今の音を聞き取ることができた。何か金属質な物が落ちるような音だ。そして同時に、かすかだが人の笑い声も響いたような気がした。音ははるか前方、街の中を伸びる道の先から聞こえてくるようだった。

 ローリンは通りを足早に歩き始めた。こつこつという足音が反響して色々な所から聞こえる。森と違ってこの街にはどこかに生き物のいる気配があった。霧はもはや何処かへ消え去っていた。ローリンの頬をなでる空気は森のしっとりとしたものではなく、乾燥した街の空気になっていた。道にはかすかに塵がつもり、歩くたびに少しだけざりざりという音が混じる。

 ちりん、ちりんという不思議な音はローリンが道を進むにつれ確実に大きくなってきた。時折、人の愉快そうに笑う声がローリンの耳に届く。

 そして、ゆるやかな坂をのぼりきった時、ローリンはとうとう音の主を見つけた。

 すぐ目に入ったのは、連なる金色の山であった。大きく右にうねった道の端、一軒の民家風の建物の前に、たくさんの金色がローリンの膝の高さぐらいまで積み上げられている。それが小さな金貨の山であることにローリンは気付いた。山からこぼれた金貨も道の中央付近まで散在している。

 金貨の山に取り囲まれるようにして、一人の男が木箱を椅子にして座っていた。男は小さな丸眼鏡をかけていたので、彼がローリンの追う青年でないことは一目瞭然であった。眼鏡の男の隣にはいくつか木箱があり、その上に天秤のようなものが置かれている。緩やかに左右へ揺れる天秤。眼鏡の男が、両方の皿へ金貨を積み上げているのだ。

 ローリンは眼鏡の男へ静かに歩み寄った。青年を見かけなかったか、と尋ねる目的もあったが、一体彼は何をしているのかしら、という純粋な好奇心もまた、ローリンの中で膨らんでいたからだ。

 ほとんど眼鏡の男の正面までやってきたが、眼鏡の男は相変わらず金貨を動かしたり眺めたりを続けている。視界に入っているにも関わらずローリンに気付いていないようだった。

 そこでローリンは思い切って声をかけてみた。

「あの……」

 呼びかけに、眼鏡の男は気付かなかった。男は耳すらも金貨の音を聞き取る為だけに使っているようだった。

 もっと近づいて声をかけてみよう、とローリンが足を動かした時、金貨に靴があたって、僅かに音が生まれた。

 その途端、眼鏡の男はがばりと顔を上げた。

「何をしている! お前は誰だ、俺の金を奪いに来たのか!」

 眼鏡の男はローリンを睨みつけ、さながら侵入者を見つけた番犬のごとく叫んだ。あまりの剣幕にローリンはびっくりして数歩後ずさった。

「いいえ、違うの、私は……」

「じゃあ何だっていうんだ? 全く、どいつもこいつもそうだ。俺の金を見つけては、かすめ取ろうと近づいてくる。こびた笑いを顔に貼り付けたままな! 俺には通用しないという事を彼らは学ばないのか? ああ、きっとそうに違いない!」

 眼鏡の男は酷く忌々しげにまくしたてた。その間も天秤に金貨を乗せる手は止まらない。ローリンは眼鏡の男の言葉に冷たい印象を感じていたが、男のしている作業が一体何で、何のためであるのか気になっていた。

「何をしているの?」

「何だお前は! そんな事を聞いて何になるというんだ! 俺を余計な事で煩わせるんじゃない、俺は忙しいんだよ!」

 そんなことは当然だろう、という顔で眼鏡の男は言ったが、ローリンにはよく理解することが出来なかった。どうして彼は忙しいのだろう? ただ金貨を天秤に積んでは量り、また別の金貨を積み上げては量り、の繰り返しが、そんなに忙しくて、そして大切な事なのだろうか、とローリンは思った。

「それを量るのは、そんなに大切な事なの?」

「俺の命ぐらい大切な事だ。当たり前じゃないか! 君はどうしてそんなばかな質問をしてくるんだね! 考えろ!」

「それはどうして? 私には、解らないわ」

「そんなばかなことがあるものか!」

 信じられない、といった目で眼鏡の男はローリンを見た。彼は天秤に積んでいた金貨の一枚を取り上げると、宙にかざし、くるくると回す。金貨の細部まで余すところなく鑑賞しながら、眼鏡の男はにやりと笑みを浮かべる。ローリンに怒鳴りつけた時と打って変わってだらしのない笑みだ。

「これは俺の金貨だ。紛れも無く俺のものだ。これだけじゃない、ここにある金貨は皆俺のものだ。そして俺はこれを量る。俺の財産を量るんだ。これ以上の喜びがあるか! あるもんか!」

 眼鏡の男はもはやローリンに向けて話していなかった。掲げられた金貨に向けて、まるで賛美を送るかの如く、声を震わせて叫んでいた。

「他人なんか関係ない。どうして関係するんだ? 金にならないものは意味もないさ! これだけが信じられる、これだけが俺の幸せだ!」

 ローリンには眼鏡の男の言葉がどうしても解らなかった。聞こえるのに理解できないというのは不思議な感じだとローリンは思った。

 りいん、と、ベルの音が響いたのはその時だった。

 ローリンが音のした方――一本道の先――に急いで目を向けると、道が途中で無くなっていた。正確にいえば道と建物と、とにかく景色が一様に、白い霧で覆われていたのである。

 そして霧にまぎれて、すっ、と何かが動いた。ローリンの胸が急にどきどきと高鳴り始めた。

 霧の中に、青年の姿が現れたのだ。

 ローリンから見えるのは青年の頭から胸のあたりまでで、そこから先は霧に包まれて見えない。けれども見えるところに関しては、ローリンの位置からでもはっきりと見る事ができた。

 青年はどこかを見つめたまま、特に表情らしいものは浮かべていなかったが、どこか不安げに、怯えるように眉をひそめていた。

 眼鏡の男は霧に気付いていないらしい。気付いたとしてもろくに興味など持たないだろう。もはやローリンの存在すら忘れてしまった様子で、金貨と戯れることに没頭し続けている。

 ローリンは眼鏡の男を離れて、青年の去った方へ――西へと、駆け出した。



 若い画家は街中を早足で歩いていた。ひやりとした空気とは対照的に頭が燃え盛るように熱い。渇いた唇から感情が独り言となってこぼれおちる。ぶつぶつ呟きながら道を行く彼を人々はちらと見ては、何も見なかったかのようにふいと目をそらす。そんな人々の視線がますます彼をいらだたせた。

「全く……何だっていうんだ!」

 まるで目の前に敵兵でもいるがごとき険しい表情のまま、若い画家はただ目的地へと進んだ。途中で煙草の店を見つけて危うく一箱買いそうになったが、何とか踏みとどまって店を通り過ぎた。

 大通りを抜けて路地へ入ると、そこは既に夜のような暗さで、薄汚れた細道がいくつも交差しているが、若い画家は迷うことなくそのままの足取りで歩く。

 そして、目的の店を見つけた若い画家は、急いでそのドアへ飛び込んだ。店といっても、建物の壁に看板とドアがあるだけで、普通に歩いていれば絶対に気付かないような場所である。

 ドアベルが、りいん、と鳴って来客を知らせる。踏み込んだ店内には大きなカウンターと、机が無造作に並んでいた。重厚な色の木製カウンターの向こうで、おや、と声がした。

 店長である金貸しの男は帳簿を見ているところであったが、帳簿から視線を上げて眼鏡の位置を直した。

「なんだ君か。どうしたんだい、そんな勢いで入って来られちゃドアがふっとんじまうよ」

「そんなことはどうだっていいんだ! 言っていた通り借りに来たぞ!」

 若い画家は強い口調で言って、カウンターに歩み寄り、音を立ててひじをついた。金貸しはそんな画家の様子を見て苦笑した。

「まあ落ち着け。金は逃げないし、どこかへ飛んでいったりもしないからな。額は変わらないか?」

 金貸しの言葉に若い画家は一つ頷いた。金貸しは帳簿を抱えて、カウンター奥のドアに姿を消す。少しして戻ってきた金貸しは帳簿と反対の手に紙幣を掴んでいた。その紙幣を若い画家は受け取った。

「君は実に優秀な客だよ。いつも期日までに耳を揃えて返してくれるからな。それに比べて今朝来た奴といったら、もう二週間も延長しているくせに、さらにあと一週間待てと言いやがる。まあ私も悪魔ではないから待ってやるけれど、もしまた言い訳をこねた時には私にも考えがあるさ」

 にやりと笑いながらそう金貸しは言ったが、若い画家は金を数えているばかりで、黙り込んだままだった。いつもなら話に乗って軽快に雑談するところだが、そんな気分になる事がまったく出来そうになかった。できるなら金貸しには黙っていてほしかった。

 若い画家の借金に関しては金貸しの言う通りであった。若い画家は頻繁に金を借りるが、返し損ねた事は無かった。それもそうである。若い画家は必ず返せる確かな見込みを立ててから金を借りていたのだから。逆にいえば返せない時は絶対に借りる事はなかった。

「返すのはいつも通りか?」

「……ああ」

「おい、本当にどうしたんだい? 具合でも悪いのか? いつも以上に仏頂面だぞ。今夜一晩ずっとその顔で居てみろ、眉間にしわが残るぞ」

「いつも以上というのは余計だ」

 軽い調子で話しかけてくる金貸しに、若い画家はぶっきらぼうに答える。おっと失礼、と笑いながら言った金貸しは、ふと話題を変える。

「そういえば君、個展はどうだったかい? あのとびきり人気な、私達の友人の個展だよ。今日が最終日だったんじゃないか、行ってきたんだろう?」

 若い画家の中でまた激情がわきあがった。すぐに彼は口を開いて叫んでいた。

「はん! ろくなもんじゃないさ!」

 若い画家はカウンターに視線を落としたまま続けた。沸騰した感情によって既に理性は弾き飛ばされていた。

「大した絵じゃない! 審査員の目は何だ、ただのガラス玉か? どうしてあんなものが賞なんか……まるでわからないね! 審査員だけじゃない。客もだ。あんなぺらっぺらの絵のどこを見て喜んでいるんだろうな! 所詮、評判につられてきたに違いない。見る目なんかこれっぽっちも持ち合わせていないくせに! 格好つけの臆病者ばかりだ!」

 若い画家は一気にまくしたてた。店内には彼と金貸し以外に誰もいなかったが、他に客がいても彼は同じように言葉を吐き出していただろう。それぐらいに彼は抑えが利かなくなっていた。

「まあ、そう酷く言ってやるなよ。そういう君はどうなんだい? 何か良いものは描けたか? 小銭じゃなくて大金にありつけそうな会心の作は出来たのかね?」

 金貸しは若い画家が答えないのを見て、なるほどそうかと笑った。

「いやいや、失敬。そういう時もあるものだと知っているさ。ただ君があまりにも調子良く言うものだからね。もしやと期待したのさ。私も君には期待しているんだからね。おっと私がこんな事を言っちゃいけないか。君が大儲けしてしまったら、こうやって私の元へ来てくれなくなるものなあ!」

 またも金貸しは腹を抱えて笑った。若い画家は腕をカウンターの上で組んだまま、かぶりを振った。

「とにかく俺はあんな絵は認めないさ。あいつもあいつだ。ちょっと有名な賞に選ばれたぐらいで、鼻を高くして……」

「ん? 会えなかったのか?」

「ちょうど新聞局の取材で出られない、だとさ。はん!」

 若い画家は元気を取り戻してそう言った。眼鏡を指で押し上げながら金貸しも同意する。

「そういうもんだな。彼はまだ若い。もちろん君もだがな。それで浮かれて舞い上がって、すぐに谷底まっさかさま、なんてことにならなきゃいいけどな。、まあ、その時は私のところに来てくれれば万事解決さ!」

「ああ、そうかもな。じゃ、今日の所はこれで終いだ」

 若い画家は急に金貸しとの会話を続けるのが大変な作業であるように感じられた。これ以上話を続けられる気がしなくなったため、カウンターを離れる事にした。

「おい煙草はどうしたんだ? いつも吸っていくじゃないか?」

「やめたんだ。製作の邪魔になるからな」

 若い画家の言葉に金貸しは驚かされたようであった。

 扉へ向かう間に、彼は壁に絵がかけられているのに気付いた。見覚えがないという事は最近飾られたのだろうか。

 通りの一角に金貨がこれでもかと山積みにされ、それに囲まれるようにして男が座っている絵だ。男の隣には天秤があり、左右の皿にこれもまた金貨が乗せられていて、右に傾いでいる。男は片手に金貨を掴み、片手で天秤に触れようとしている。とても愉快そうな顔をした男だ。表情だけではない。全身からうきうきとした感情に溢れていた。絵全体としてみれば、稚拙な点も見受けられるが、まあまあの技量をもった絵描きが描いたのだと若い画家は判断した。途端に胸やけのような嫌悪感が彼を襲った。

「ああ、それはつい最近飾ったんだよ。一昨日だったかな?」

 カウンターから金貸しの男が言った。嬉しそうな声だった。

「客から金の代わりに頂いたのさ。本当はそんなつもりでは無かったんだが、一目で気に入ったから、特例で認めてやったんだ。良い絵だろう、商売のツキも上がりそうじゃないか、なあ?」

 金貸しはそう言ったけれど、若い画家にはこの絵の良さを理解することが出来なかったし、わかりたいとも思わなかった。何より、今の彼は絵と呼ばれるもの全てを憎悪していた。絵など見たくもないのに、目についた途端しっかりと眺めてしまうのは、画家の性分として仕方の無い事だ。

「確かにツキはあがりそうだな」

 それだけ呟いて若い画家は店を後にした。



 西へ歩いていたローリンは、再び景色が霧と光に包まれるのを見た。白が晴れた先には、広大な青が広がっていた。

 海であった。見渡す限りに青色が溢れていた。ローリンは海のそばの崖に立っていた。崖はなだらかに登りながら、前方に続いていて、そして一番高い所に大きな建物がそびえていた。

 白に塗られた塔のようなそれは、灯台であった。

 なんて広大な場所なのだろう、ローリンは目の前に広がる景色に圧倒された。そしてすぐ、彼女は青年を探すため、灯台を目指して歩き始める。一歩一歩進むたびにやわらかい緑の草はらがローリンの靴を受け止める。歩きながら周囲をきょろきょろと見るが、人や動物の姿は見られない。

 けれど、ローリンは灯台に近づくにつれ、建物のそばに何かがいることに気付いた。薄い茶色をした塊のように見えたが、よく見ればそれは猫であった。

最後の坂を登って灯台の下までたどり着くと、そのそばにはやはり茶色の猫がいた。丸くなって地面から海を見つめている猫。ローリンには何の関心も持ってないようであったし、気付いてすらいないのかもしれなかった。

 ローリンもまた、関心は灯台へと向いていた。思ったよりもずっと灯台は大きかった。ローリンの背丈の何倍も高い。はるか上の方に手すりと足場が見える事から、どこからか上に行く方法があるらしい。

 この上から見れば、あの人が見えるかしら。

 ローリンはそう思って灯台に登ろうと決めた。そして灯台の周りを歩いて、上がる術を探す。

 その方法はすぐに見つかった。灯台の壁に四角い入口があって、その中に階段があったのだ。

 ただ、階段には、女性が静かに座っていた。

 女性は一人ではなかった。女性の膝には猫がいた。白と黒のぶち模様だ。女性もまた、長い黒髪に白のワンピースを着ていた。

 ぼうとどこかを見ていた女性が、視線を動かして、ローリンを見た。ローリンは言った。

「こんにちは。何をしているの?」

 女性はすっと唇を開いた。

「海を見ているのよ」

 どうやら女性の場所からは、海と地平線が見えているようだった。

「あなたは誰なの?」

「私は灯台守よ。ずっとここにいて、夜になったら明かりをつけるの。夜を待っているのよ」

「夜を? 夜は来るの?」

「きっと来るわ。必ず私に会いに来る」

 灯台守はそう信じて疑わない様子だった。それがローリンにはとても凄い事のように思えた。ローリンは青年の事を思い出した。

「私と逆なのね。私は会いに行くところなの」

「誰に?」

「あの人。霧と一緒に来て、霧と一緒に西へ行ってしまうのよ。ずうっと追いかけてきたけれど、まだ追いつけないの」

「どうして追っているのかしら」

「追わないといけない気がしたから。どうしてだか胸がどきどきして、足が勝手に動いたのよ。だからここまで来たの」

 灯台守はふっと微笑した。自然で柔和な笑みだった。

「そう、あなたは恋をしているのね」

 ローリンは何故だかどきりとした。妙にむずがゆいような感覚だった。灯台守が自分の座っている隣のスペースを示して、座りなさいな、と言ったので、ローリンは灯台守に並んで腰を下ろす。コンクリートがひやりと冷たかった。

 思った通り、階段からは青い景色が四角く切り取られて見えていた。濃いブルーの海と、空はかすみがかった水色。耳を澄ませば、海の音が灯台の中に反響して聞こえる。波頭が崖に跳ね返り、また寄せる繰り返しの音。それ以外には何も聞こえない。

「ここはとても静かね」

「ええ、とっても」

 ローリンは景色を眺め、灯台守は猫を優しくなでていた。二人はしばらく黙っていた。

「私も恋みたいなものなのかもね」

 唐突に灯台守が言った。

「夜のこと?」

「そうよ。夜を待ち続けているのよ。夜は私の恋人なのよ」

 灯台守は景色を見たまま当然のように言うが、それはローリンにとって少し理解の難しい事であった。

「どうして待っているの? 待っているのは、怖くないの? 会いに行かないの?」

「いいえ。ちっとも怖くないわ。それどころか、楽しい事なのよ。今、何をしているんだろう。何を見て、何を思って、何を願って、何を悩んで……そんなことを考えていると、とても幸せな気持ちになれるの。想像してみるのよ。彼の気持ちや、まなざしや、抱えている悩みまで、全部考えてみるの。恋をしている人なら、誰でも簡単にできるはずよ」

 今度の言葉はローリンを驚かせた。青年の事を想像してみるなんてことを思いつきすらしなかったからだ。けれど、それは灯台守の言う通り楽しいことであるように思えた。

 早速ローリンは青年の事を考えた。まず青年の姿を忠実に思い出して頭の中に描いた。まず横顔を思い浮かべ、引き結んだ口元を描き、何かを思いつめているような目を思い出して―――。

 そこでローリンは初めて、青年が何かに思い悩んでいるような、ふさぎこんだ表情である事に気付いたのだった。何を悩んでいるのだろう? どうして険しい顔をしているのだろう? と、一気にたくさんの疑問が心の中に溢れかえった。

 それと同時にローリンは、青年を助けたいと思った。どこかが痛いのなら看病したいと思った。悩みがあるならば訊きたいと思った。出来るなら一緒に解決したいと思った。ローリンは灯台守に告げた。

「あの人、とても悲しそうな顔をしているの。助けてあげたい。どうすればいい?」

 灯台守ならばその方法がわかると思った。灯台守はローリンをじっと見つめた。

「そう思えるなら、きっとできるわ。追いかけなさい。追いかけて、そしてその人と会って」

「けれどどこに行ったかわからないわ。西に行ったのだと思うけれど……そう、この灯台の上から探させてほしいの」

 灯台守はそれを聞くとにっこりほほ笑んだ。膝の猫を抱きかかえると、階段を一つずつ登り始め、ローリンにも着いてくるように言った。ローリンはすぐに灯台守に続いた。らせん状の階段をぐるぐると上がっていく。かつんかつんと足音が反響する。

 そして出口が見えた。が、一面に広がる青の景色は、すぐに白へとかき消えた。

 霧であった。先が全く見えなくなるほど濃密な霧。同時にローリンはあっと声を上げた。

 霧の中を青年が通り過ぎたのだ。歩く程度の早さであったが、ローリンには一瞬のように感じた。青年はやはり表情を変えず、睨むような目つきでどこかを見つめたままの横顔であった。少しだけ急いでいるような気配があった。

「待って!」

 灯台守を追い抜いてローリンは駆け出す。靴が脱げないできる限りの早さで階段を登りきると、そのまま白い霧の中へと飛び込んだ。

 飛び込む瞬間、後ろで、ナア、と猫が鳴いたのが聞こえた。



 ガラスの向こうに灯台があった。崖の上に立つ白い塔は静かな海を見下ろしている。他は緑一色の芝生で、そこに何か茶色の点が見えたが、ショーウィンドウのそばを通り抜けただけの若い画家には何なのか判別する事が出来なかった。

 若い画家は再び大通りにいた。連なる店に挟まれた大きな道路で、めまぐるしく動き回る人々。その中には杖をついた老人もいれば、まだ若い画家の腰ほどの背しかない子どももいる。生命力に満ち満ちた晴れやかな顔をしている人も、葬式の帰り道のように顔をゆがめている人も、皆さまざまな思いの片鱗を表情としながら歩いている。若い画家もその一人であったが、今の彼には目的地は無かった。ただふらふらと、背中を丸めて歩き続けるいるだけだった。

 大通りは川へとさしかかり、人々は幅の広い橋を渡っていったが、若い画家は橋の手前で右へ曲がり、川沿いの道へ踏み込んだ。時刻は夕方といってよい頃になっていて、傾いた日が最後の光を川の水面へ落とし、川もまたその光を人々へと投げかけていた。

 若い画家は川べりの柵へふらりと近寄ると、それにもたれかかり、ぼう然と景色を眺めた。右手でポケットを探る。だが、ポケットに入れていた煙草は、一昨日、道端のゴミ箱に投げ込んでしまった事を思い出して、仕方なく右手を柵の上へと戻した。

 先程までの激しい感情はどこへ行ってしまったのだろう、と若い画家はふと思った。金貸しの元へ行くまであれほどまでに煮えくりかえっていたはらわたが、今はすっかり熱も冷めて沈黙している。怒りを込めて握りしめていた拳も、だらりと力なく柵にもたれさせているだけだ。ごうごうと吹き荒れていた嵐が一瞬でおさまってしまったようだった。若い画家はそんな自分の変化に気付きながらも、理由を深く考える気は起こらなかった。もはや若い画家には遥かな虚無しか残されていなかった。

「はん。……なんだっていうんだ」

 若い画家は吐き捨てるように呟いた。目を閉じると、あの絵―――白い少女と霧の、忌々しい絵が、脳裏に浮かび上がった。

 まるで生きているような少女だ、と称賛する気は若い画家には無かった。そんな絵ならある程度技術のある者にならいくらだって作れるのである。

 だがあの絵の少女は、確かにそこに息づいているようであったが、それだけでは言い表せない何かを持っていた。不透明な霧に囲まれた少女の姿は鮮烈であった。そしてあの少し伏せられた目。自分の手か、ティーカップか、はたまた絵の外にある何かを見ているのか、ひどく曖昧な視線。彼女は何を見ているのか、あるいは何も見えておらず、ただ思考の海に沈んでいるだけなのか。若い画家が少女の顔をより鮮明に思い出している時、突然、少女が顔を上げて若い画家の方をはっきりと見つめた。

 彼はどきりとして目を開けた。水面は相変わらずオレンジ色に光っていた。ため息をついて若い画家は手で顔をぬぐった。

 勝てるはずがない。あんな絵を自分は描けない。

 もはや言葉で隠す事など出来なかった。目をそむけ続けてきた現実が大きく口を開けて若い画家を飲み込んだ。そこには一片の光もない暗闇ばかりが広がっていた。

 若い画家は再び目を閉じて、いっそこの川に身を投げてしまおうかと考えた。だが、単に自暴自棄になっているだけだと解っていたので、そんな事は到底できなかった。軽く頭を振って、どうにか立ち直るすべを考えようとしたが、衝撃のあまり思考がぼんやりとして到底考えられそうになかった。

「おい、君は……」

 後ろから誰かの声が若い画家の耳に入った。雑踏から浮かび上がるように聞こえたその声は、彼にはよく聞き覚えのあるものであった。

 若い画家が振り向くよりも早く、彼の肩をぽんと誰かの手が叩いた。

「やっぱり君だ! 良かった、会いたかったんだよ」

 若い画家は気力を振り絞って横を見た。

 嬉しそうな顔の友人が、隣には立っていた。

 それは絵を見ているような心地であった。街中に佇む友人の絵と、それを見つめる自分の絵。それほどまでに友人との遭遇は現実味が無かった。突然現れた友人に対して何と言えば良いか、若い画家にはまるで見当がつかなかった。

「久しぶりだな、元気にしていたか?」

「……ああ、そうだな」

 どうしてよりによって今、こいつと会ってしまったんだろう。若い画家は偶然を呪いながら適当に返事をした。驚きから醒めた途端、あの高ぶった感情がじわじわと彼のもとへ戻りつつあった。喉元まで罵詈雑言の類がこみあげてきたが、彼は友人に隠れて拳を強く握り、耐え忍んだ。ここで友人にぶちまけてしまえば、それは若い画家の完全なる負けを意味するのだ。自分の手で敗北に陥る前に、このまま黙って立ち去ろう、と彼は決意した。

 友人をちらと見て、すぐ反対側へ体を向けた若い画家に、

「待てよ、頼みがあるんだ」

 友人は慌てて声をかけた。若い画家は一瞬だけ迷ったが、結局足を止めた。振り返ると友人は、まっすぐに若い画家を見つめて、

「今日はせっかく来てくれたのに、会えなくて本当に悪かった。だから……今からもう一度来てくれないか。もう個展は終わっているが、鍵は僕が持っているから中に入れるんだ」

「どうしてだ?」

 若い画家は即座に言い返していた。

「お前と話す事なんて……何も無いぞ」

「僕があるんだよ。なあ、頼む」

 友人の言葉は若い画家の予想を完全に裏切っていた。まさかこんなに懇願されるとは全く思っていなかったのだ。その事が逆に彼を困惑させた。

 仕方なく若い画家は、行くぞ、と手で合図をして、個展への道を戻り始めた。友人は安堵したように表情を和らげると若い画家の後を追った。



 街はすっかり夕暮れとなり、個展会場の窓からは赤い影が射しこんで、床の一部を照らし出しているが、部屋の全体を明るくするには至らず、若い画家と友人はかすかな闇の中で絵と向かい合っていた。

「なんでこれが賞を取れたのか、正直僕にはわからないんだ」

 友人がふいにそう呟いたが、隣の若い画家が露骨に嫌そうな顔をしたのを見て急いで続けた。

「本当なんだよ。自慢するつもりは塵ほども無い。それに……君には、わかるかい?」

 不意打ちの質問。若い画家には何のことかわからなかった。

「何がだ? はっきり言えよ」

「だからそう怒った言い方をするなって」

「していない。お前がひねくれた質問をするせいだろ」

「そうか。やっぱりそうなんだな」

 またしても意味の解らない事を言う友人。若い画家は少なからずいらだっていた。何が言いたいのかずばりと言ってほしかった。それとも、よほど彼に言いづらい事なのだろうか。

「さっきから何が言いたいんだ、お前は。今さら何を気遣っているんだ。そんなものは要らない」

「違うんだ。見覚えがないか」

「……何だって?」

「この子に、見覚えは無いのか」

 友人の言葉は冗談とは思えないほど真面目なものだった。若い画家はまだよく友人の意図が解らないながらも、改めて『霧』を眺める。

 椅子に座り、どこかを見つめる少女。その顔を隅々まで見たが、にじみ出るような不思議な空気を感じただけで、見覚えなどというものはどこにも見受けられなかった。こんな少女は見た事がない。

「いや。知らない」

「そうか……」

 顔を伏せる友人。その表情はうかがえないが、何か悩んでいるようだった。話を切り出すのを待ったが、とうとう若い画家の我慢は限界に達した。

「何なんだ一体! この子がどうかしたのか!」

 絵を指して怒鳴ったが、友人はすぐには反応しなかった。黙ったままうつむいていたが、やがて顔を上げると、

「これは、僕が描いたものではないんだ」

「……じゃあ、誰が?」

「君だよ」

 友人の声が、夕暮れの室内に大きく響いた。

「この子は君が描いたんだ」

 若い画家は絵を見る。見覚えの無い少女。自分が描いたという少女。言葉に詰まる。何と言えばいいのか。

「……何を言っているんだ、そんな馬鹿な……」

「元は、と言った方が正確なんだけどな。逃げた言い方をして済まない。君が描いた少女をこの絵に出してみたんだ。真似どころかそっくりそのままのコピーさ。すぐに気付くと思っていたんだ。けれど何も言ってこないじゃないか。どうしたのかと思ったよ」

 どこか自虐的に、淡々と語る友人の言葉が、若い画家には信じられなかった。

 自分があの少女を描いたって?

「いつの話だ? 本当に俺は覚えていないぞ」

「だろうな、ずっと昔の話だ。俺達で最初に賞を狙った時。君はああでもないこうでもない、とやたら大量に描いていたじゃないか、それは覚えてるだろう?」

「ああ、それなら……あの頃は、描きたいものがたくさんあったからな」

 何年前の事だろうか。毎日ひたすら描いては、これも違うと捨てていた日々。当時はまだ売れる絵を描いていなかったから、厳しい生活だったが、とにかく描く事だけ出来れば良かった。その時既に友人とは絵描き仲間であった。

「その絵の一枚だよ。君が描いている最中に覗き込んだら、この子がいたんだよ。その時は背景は何もなかったな。真っ白のキャンバスにこの子だけがいたんだ。僕は本当に感動した。今でもはっきりと覚えてる。だから、賞に何を描くか迷ったから……思い出してね。記憶を頼りに描いてみたんだよ。そうしたら」

 そこで友人はゆっくりと頭を振った。

「こんな事になってしまった」

「現物は? 俺はその絵をどうしたんだ?」

 若い画家の心臓は急激に鼓動を早めていた。彼は友人の返事に期待したが、

「ほしかったけれど、君は処分するといって断固として渡そうとしなかったじゃないか。もう存在しない。本当に残念だけれど。僕には何と言っていいかわからなかったよ」

 友人の寂しげな言葉で、すぐに現実へと立ち返った。

「本当に俺が、こんな絵を……」

 もう一度、若い画家は『霧』の少女に目を向ける。どう頑張って思い出そうとしても、このような少女を描いた記憶を掘り起こすことはできなかった。もちろん若い画家と友人とでは描き方が違うので、いくら同じに描こうとしても多少の差は出るだろう。

 見たかった。一体自分がどんな風に描いたのか。その時の絵を取り戻して、一目でいいから鑑賞したかった。けれどそれはもう叶わない願いなのである。それでも、若い画家が描いた少女は、友人の心を捉え、そして今へと繋がったのだ。

友人は少しためらった後、更にこう言った。

「……君には、怒る権利がある。君の絵を僕は黙って写した。確かにそのまま模写したわけじゃないけれど、結局は同じ事だ。それで賞を取ったりして……卑怯者だよ、僕は」

「そんなのは……どうでもいいんだ」

 友人に答えた若い画家は、言った後で自分の言葉に驚いた。あれほどまでに怒り、嫉妬し、妬んでいたのに。その感情が完全に消えたとは言い切れなかった。けれど、そんなものはもはや重要な事では無くなっていた。

 かつて自分の描いた少女に、彼は心惹かれていたのだ。

「本当に俺が描いたんだな?」

「嘘を言ってどうするんだよ。素晴らしい絵だった。それなのに君は……どうして忘れてしまっているんだい?」

 若い画家は答えられなかった。

「そうだ、実にもったいない。君はあんなにも素晴らしい子を置き去りにしていたんだよ」

「……描けると、思うか? 今の俺に、もう一度描けると思うか?」

 少女を凝視していた若い画家は、隣に立つ友人へ顔を向けた。友人もまた彼を見つめていた。友人は力強く頷いた。

「呼んでいるよ。きっとね」

 その目に偽りの色は無かった。

 若い画家は何も言わなかった。友人と絵に背を向けて、出口へと急いだ。振り返る事は無かったが、背中が一つの決意を示すようにぴんと伸ばされていた。

 ドアが閉まる音。静寂に満たされる室内。友人は『霧』を眺めて、独り言をつぶやく。

「変わらないな、全く」



 ローリンは西へと歩いていた。

 灯台を出てからというものの、景色は目まぐるしく変わっていった。陽光の届かぬ深い深い崖の底に出たかと思えば、白く辺りがかすんで、そして霧が晴れるとどこかの家の一室に入りこんでいた事もあった。部屋のドアを出ると再び霧が立ち込めて、白の中を歩くうちにいつしか雲の上に立っていたりもした。舞踏会の最中に立ち入ってしまったときには、くるくると踊る人々に惑わされ、どちらが西なのかわからなくなってしまった。しかし、窓の外に一瞬、霧と共に青年の顔が見えた気がして、青年を見失わずに舞踏会を出る事ができた。そう、青年が現れるのはほんの瞬きの間ほどになっていたのだ。それでもローリンは、青年の横顔を見つめ、心を高鳴らせては、景色から景色へと渡り歩いた。

 ローリンは、見るたびに青年の表情が少しずつ変わっている事に気付いた。本当に微細な変化だったが、ローリンははっきりとそれを捉えていた。青年の顔に潜んでいた影が、徐々に濃さを増していたのだ。さして表情を読み取れなかった顔には、今や悲愴な雰囲気がありありと現れていて、目は更に深い悲しみに塗りつぶされていた。何か大きなものに心を蝕まれているかのようだった。初めて彼を見たときにローリンは、不思議な、例えようのない違和感を感じたが、その正体がようやく解った。

 そして変化はローリンの方にも起こっていた。灯台を出てからずっとローリンは考えていた。どうして彼はあんな表情をしているのだろうか? それは好奇心や興味をはるかに超越していた。彼を理解したいと心の底から願うようになっていた。彼女は彼に恋をしていたからである。

 景色を渡り歩くうちに、とうとう、ローリンは霧の中から出られなくなった。周囲全てが真っ白で、それは空も地も区別なく、完全な白の空間であった。ただ地面は存在していて、靴音だけを鳴らしながらローリンは西へと歩いた。

 ローリンはこの世界を知っていた。この白い世界の事を彼女ははっきりと覚えていた。青年のすぐそばまで来ているとローリンは確信した。

 そしてローリンは、青年の気配を間近に感じて、立ち止まった。



 若い画家は一人きりだった。

 人が二、三人も入れば窮屈に感じてしまう小さなアトリエで、一人きりで座っていた。窓は夜の黒々とした空と、明るい街の一部を切り取っている。近くのテーブルにランプが置かれているが、その光だけでは空間全体を明るくすることはできず、部屋には闇と光が混在していた。

 若い画家はキャンバスと向かい合っていた。何も書かれていないキャンバスが、明かりに照らされてぼんやりと存在していた。若い画家の手にはパレットと数本の筆があり、パレットにはいくらかの絵具が出されていた。

 画家は筆を握ったまま、ただ、キャンバスを見つめていた。外からかすかに通りの喧騒が聞こえる。けれども画家の意識の一切はキャンバスに注がれていた。いや、意識すらしていないのかもしれない。画家は一途に、ただ無心で、筆を片手にキャンバスを見つめていた。

 そして画家は、筆を持った腕を持ち上げた。それから画家は一瞬たりとも腕を止める事は無かった。絵具を混ぜ、色を調節し、キャンバスへと筆を近づけ、そして滑らせた。筆を変え、また色を生み出し、キャンバスに乗せる。そんな動作を幾度も幾度も繰り返した。止まる事なく、休む事もなく、一心に、彼は絵を描いていた。薄暗い部屋の中でキャンバスに向かい続けた。それはさながら舞いのようでもあった。画家の目には、キャンバスとパレットが映っているのと同時に、一つの意志が満ちていた。そう、彼は描かなければならなかった。彼は失ったものをどうしても取り戻したかった。そのための手段は描く事しか無かったのだ。

 キャンバスに絵が生まれつつあった。画家は何かに示されるようにしてひたすら描き続けた。彼は半ば我を忘れていた。外のざわめきなどもはや聞こえていなかった。筆を操り、繊細に、緻密に、色を重ねていった。

 そうして彼の手は唐突に動きを止めた。

 筆を持ったまま、キャンバスを見つめていた。

 真っ白のキャンバスに描かれた姿。揺らめいているような白のドレス。ふわりとした栗色の髪。

 それはローリンであった。

 ローリンが、白い霧の中に立って、画家を見つめていた。画家もローリンの緑の目から目を離す事が出来なかった。二人はそこにいて、彼らの間にもはや隔たりは無かった。

 再会の時であった。彼らは別れ、そしてまた出会ったのだ。


<終>

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ローリン 空飛ぶ魚 @Soratobu_fish

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