いずみ荘

汐咲アクメ

第1話 父と子

 いずみ荘。

 三日前からいよいよ取り壊しの工事が始まったアパート。築15年という老朽化とともに刻まれてきた歴史が、ただの過去になっていく。


 いずみ荘という名前を聞くこともなくなって久しい私は、懐かしいというか、やっと・・・というべきか、とにかく惜しむ気持ちと清々する気持ちとが混在している。と、かっこつけた言い方をしたが、ただ単純に心の整理がついていないだけなのだが。


 そこで私は考えた。いずみ荘の15年・・・厳密にいうと、実際に使用されていたのは10年で、その後の5年間は空き家ならぬ空きアパートだったのだから10年の歴史(その5年間はとある事情で建物を使用できない状況になってしまい、さらに取り壊しさえできず、さらにさらに私自身が日本にいなかったこともあり、いずみ荘はほったらかしだった)をここに書き出していこうと。それで心の整理がつくかはわからないが、それでも気を紛らわすことぐらいはできるだろう。


 あ、そうだった。これは最初に書いておくべきだった。なにせ私にとっては大前提の事実なものだから、書くのをすっかり忘れていた。誰が読むかはわからないし、私以外読まないかもしれないが、もしものときを考えて読み手を意識して書いてみよう。それに誰かのために書いていると思うと、自然と筆に・・・というのは時代錯誤だな。タイピングする指に力が入るというものだ。とはいえキーボードを壊さないように加減せねばな。おっと、また関係ないことを書いて忘れそうだった。すまない。なぜ私がいずみ荘の事情にここまで詳しいかというと、私自身がこのアパートの大家だったからだ。3階建て、全9部屋のいずみ荘で一階の角部屋に住んでいた。


 さて、ここからようやく本題に入るわけだが、日本の田舎のいちアパートに、わざわざここに書くほどの面白いナウでヤングなネタが詰まっているのかどうか、疑っている者もいるだろう。だが安心してくれ。私が思うに、この無限の白紙を埋めるのに事欠くことはないだろう。なにせいずみ荘は通称「怪奇の泉」と呼ばれていたり、いなかったりしたのだからな。


 とりあえず一番最初に思い出したものから順に書いていこう。まずは103号室に住んでいた父子にについてだ。引っ越してきた時から母親はおらず、60歳近い父親と、15歳の娘さんの二人だけだった。私は男でさらに一人っ子だったから、娘と父というのがどういった関係なのかを知らないが、その親子はよく週末二人で出かけているのを見かけたし、とても仲がいいようだった。男はマザコン、女はファザコン・・・なのだろうか?いや、わからん。とにかく仲が良く、平和な親子だという印象を受けた。あくまで受けた、だけだ。


 そんな親子に事件が起きたのは彼らが住み始めて半年が過ぎたころだった。


1.父と子


「娘が男になってしまったんですっ!」


 世にも珍しい60代女性霊媒師の、心の底からのあきれ顔が、そこにはあった。


 日本のどこにでもある田舎に、どこにでもはない霊能事務所があった。とはいえ胡散臭い類のものではなく、経営する60代の女性霊媒師は元神職の方で、現在はお祓いを中心とした霊能関係の仕事で生計を立てている。高い数珠や壺はもちろん売りつけず、ただ60にもなって新しい職場で新しい資格を取って・・・とやるよりはまだマシだということで始めたまっとうな仕事だった。儲かりもしないが困窮もしない。スポーツ選手などもそうだが、特殊な仕事に就いた人間のセカンドライフなど、たかが知れたものだ。


 そんな彼女の今回の依頼というのは、とある父子家庭からのもので、娘に悪霊が取り憑いたから払ってくれというものだった。・・・で、やってきて開口一番のセリフがアレである。


「あの・・・すみませんが、おっしゃっておられることがいまいち・・・」


「あ、ああ、突然すみません、こちらこそ・・・」


 ・・・倒置法。


「それがですね・・・娘に男の悪霊が取り憑いたようで、ある日突然娘が、自分は男だと言い出したんです。そのうえ・・・前の娘とは思えないほど反抗的になりまして、今じゃ口もきいてくれません。近づこうとしただけで「触るな!」と一喝されてしまいました・・・」


「・・・」


「どうにか・・・なりませんか・・・?」


 バカなのか?この父親は?

 ・・・倒置法。


 見たところ自分と同じ60歳前後のようだし、この世代によくありがちな傾向なのかもしれない、と自分の年齢に嫌気が差すのだが・・・。


「とりあえずその娘さんにお会いしないことには何とも言い難いです。今娘さんはどちらに?」


「娘は自分の部屋にいます。もともとインドアな子ではあったんですが、最近はずっと引きこもって食事もまともに取らないんです」


「それは・・・お父様としてはご心配でしょう」


「ああ!わかってくれますか!わかってくださるんですね!」


 軽く首を縦に振り、その悪霊の元へ向かった。


 扉をノックすると、意外や意外。簡単に開いた。鍵がかかっているわけではないので、無視されても開けることはできるのだが、自分からすんなり開けてくれるとは驚きだ。


「あ?ばあさんかよ・・・ま、いいか。入れよ」


 ・・・帰りたかった。


「ここのアパート壁薄いからなー。ぜーんぶ聞こえてたぜ?あんたらの会話」


「だからですか。私がお父さんじゃないとわかっていたから素直にドアを開けたんですね」


「なんだ?ンなこと気にしてたのか?こまけーことが気になるばあさんだなー。余計ふけるぜ?」


 ・・・帰りたい。


「・・・で?払うのか?俺を」


「あなたの出方次第です。・・・差し出がましいようですが、やはりお父さんときちんと話し合われてはいかがです?」


「話し合いなんて・・・まだそんな・・・」


「きちんと話せばわかってくださいますよ」


「・・・」


「だって以前までは仲のいい親子だったのでしょう?」


「・・・!」


 詭弁だった。・・・帰りたかった。心底。

 私はあくまで霊を相手にするのが仕事なのであって、親子関係の修復など専門外だ。そんな犬も食わないどころか、霊も憑かない話に首を突っ込みたくはない。それにあの父親のことだ。きっとわかってはくれないだろう。女として生まれたのに男として生きることを。まさか娘も、信頼していた父親に勇気を出してカミングアウトして悪霊被害者扱いされるとは思いもしなかっただろう。挙句に霊媒師まで呼ばれる始末。反抗的になって当然。年齢が上がるにしたがって新しい生き方や価値観を受け入れられなくなるのは必然だとして、それを否定するのは別の話だ。私だっていわゆるLGBTに対して深い理解や知識があるわけでもない。だが、だからといってそれを理由に迫害したり否定したり、ましてや悪霊に取り憑かれたなどというはずがない。

 埃を被った価値観は有害だ。


「とはいえ私も仕事で来ています。前金ももらってしまいましたし、何もせず帰るわけにはいきません。お祓いの儀式はします。・・・儀式だけ、ですが」


「・・・儀式だけ?」


「はい。それが終わったら私は去ります。そしたらあなたは以前のように女性として生活しなさい。あと数年の辛抱です。自立して親元を離れれば、あとはあなたの自由に生きていいのですから。もし待てないのなら、やはりもう一度きちんと話し合ってください。私が言えるのはこれくらいです」


「・・・そう。・・・わかったわ」


「そうですか。では儀式の準備をしますから、その間にシャワーを浴びて体を清めてきて下さ・・・」


「ねぇ」


「はい?」


「あなた霊能力あるんでしょ?ならさ、私、あと何年生きる?」


「残念ですが、そのような力は私にはありません」


「そう・・・ですか」


 その後は淡々と無意味な儀式を執り行った。

 別に・・・父親に言ってやってもよかった。娘さんは悪霊になど取り憑かれていない。もっと真剣に向き合ってやれ、と。しかしそうしなかった。というよりできなかった。

「ああ!わかってくれますか!わかってくださるんですね!」

 フラッシュバックするあのセリフ。何も言わず首だけ少し縦に振ったのには理由がある。

 怖かった。・・・あの剣幕が、あの声色が、あの表情が、あの語気が。あらゆる要素が異常で、有無を言わさない感じがあった。誰かに似ていた。思い出せないが、似たような異常な男に私は会ったことがあった。そのときの恐怖を蘇らせるようなあの父親が恐ろしかった。あれが今俗にいう毒親というやつなのだろう。しかしこの言い方には以前から違和感があった。毒というのは使い方によっては薬になるものだが、あの父親を見る限り、ただ有害なだけで薬になるとは到底思えない。ただの酷い親。毒親ならぬ酷親。


「記念に一枚、どうですか?」


 年季の入ったカメラを持って酷親が言ってきた。娘が助かったお祝いに一枚、ということらしい。

 ・・・帰りたかった。というか、写真をとったら即座に帰った。


「おばちゃん、この写真、捨てんのかい?」


 歳に似合わない軽口と明るい性格が特徴の彼は、この事務所唯一の従業員である。


「他人のごみ箱漁るんじゃないよ。それは縁起が悪いんだ。さっさと捨てるに限る」


 即座に帰ったと前述したが、厳密にいうと一度引き止められ、撮った写真を押し付けられてしまった。ご丁寧にどうもだちくしょーめ。


「ま、たしかにこんな心霊写真、やっぱ縁起悪いですしねー」


「そうそう、だからそのままゴミ箱に・・・ちょっと待ちな。今あんたなんて言った?」


「やっぱ縁起悪いなーって・・・」


「そうじゃないよ!その前さ!心霊写真って言わなかったかい?!」


「ええ、そうですけど・・・だから捨ててあったんでしょう?」


 彼は元神職であるだけの私と違い、幼少期から霊感があったらしい。両親不明で施設育ちの彼は、神が与えたはた迷惑な力のせいで周りに溶け込めず、大人になって施設を出たのちも職を転々としていた。


「なにが・・・映ってるっていうのよ?」


「いえ、この女の子の方にですね、濃く禍々しい煙が纏わりついてるんですよ。何の霊なんだろ・・・これ」


「ちょっと出てくるわ」


「もしかしてこの写真の人のとこですか?できればやめておいた方がいいですよ。一回会ってるのにおばちゃんになんの害もないことがすでに奇跡みたいな、そのレベルのやつですよ。これ」


「仕方ないわよ。霊関係のことだったなら話は別だから」


 とはいえ直に会うことは危険という彼の助言は正しいと思う。私には彼のような霊感はないけれど、これでも霊能関係の仕事は長くやってきた。相手の力量を見誤るような真似はしない。私が元々務めていた神社に行こう。あそこにあったはずだ。心霊写真を燃やすための特別な火。正確には写真だけでなく霊が取り憑いていると思われる物を燃やして霊を払う火。決して絶えさせることなく燃えている火で、祈祷を捧げた釜戸で作られている。これを使って写真を燃やす。そうすれば写っている霊も燃え尽きる。


 やることが決まれば後は簡単で、「お久しぶりです」なんて挨拶を数人と交わしたのちに事情を説明し、写真を燃やしてもらった。お祓いの代金として今回の依頼料を持ってきていたが、昔のよしみで今回はタダにしてもらった。


 焦って神社まで走ったせいかお腹がすいた。時間も時間だし、帰ったら彼を連れて蕎麦でも食べに行こう。近所にうまいところができたんだ。出汁がいいらしい。できれば麺にもこだわってほしいが。


「帰ったよ。この後一緒に蕎麦でも・・・ってあんた!どうしたんだい?!」


 床にゲロを吐いて倒れこんだ彼が・・・こちらを虚ろな目で見ていた。


「おばちゃんがいない間に・・・その写真の人が来て・・・おばちゃんに話があるって・・・「娘が元に戻らない」って。留守だって言って帰したんですけど、ちょっと霊圧がきつくて・・・倒れちゃいました・・・」


「ちょっと待ちなよ!その物言いだと来たのは父親の方じゃないか!でも憑かれていたのは娘だよ!なんで・・・」


「・・・生霊です」


 もう夜だったが、彼を病院まで届けた後、その足でいずみ荘へ向かった。霊媒師ではなく、一人の女として・・・。

 郵便受けを開き、中の様子を伺う。


 パシャ・・・パシャ・・・パシャ・・・


「ひー、ふー、ひー、ふー・・・」


 年季の入ったカメラ・・・見下ろす父親、笑って・・・息も絶え絶えでボロボロの・・・裸の娘。

 ・・・帰りたかった。


「前に俺がお前の中に作ってやった男の子さあ・・・堕ろしたんだろ?だから取り憑かれたりすんだよ・・・でも大丈夫だ。もう一回あの霊媒師を呼んで、今度はもっと強めに払ってもらうからなー・・・そしたらもう一回・・・赤ちゃんあげるからああああ・・・」


パシャ・・・パシャ・・・パシャ・・・


「ひー、ふー、ひー、ふー・・・」


 ・・・思い出した。あの父親に似た人間と会ったことがあった。それは・・・。


「私の父だ・・・」


 ・・・帰った。


 翌日、私は彼のもとにお見舞いに行った。


「おばちゃん、最近の病院食って進化してんのな。薄味化と思ったらそうでもねーの。フツーに美味しんだって、これが!」


「食いながら喋るんじゃないよ!汚いわねー・・・ほんっと私たちの父さんそっくりだわ」



 書き終えたところで一息入れよう。これはあくまで聞いた話に私が編集を加えて、できるだけわかりやすく文章化したものだから、事実とは差異があるかもね。モノローグなんかは私の解釈が入ってるから特に。

 この親子は少ししてから引っ越していったのを覚えてる。なんか実家に帰る、みたいなことを言っていたようないなかったような・・・なにせ何年も前だし、記憶も曖昧だ。娘は・・・なんていうか・・・子供らしい発想といえばそうだけど・・・自分が性同一性障害だということにすれば父親の性欲から逃げられると思ったのかな?

男になれば女として見られないと。でも結果としてそうはならず、父親の生霊が娘に取り憑く始末・・・余計に歪ませちゃったわけね。

 あ、そうそう。それ以来その霊媒師が来た覚えはないんだよ。最初に来たときは挨拶したから顔は覚えてたんだけど、結局あれ以来見てないなー。噂では事務所をたたんで引っ越したらしいけど、その後のことまでは知らない。だって私は探偵でもなく刑事でもなく、ましてや霊媒師でもなく、ただの大家だから。


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