第6話 女神
出発してから二日目の夜。今夜の野営地は湖畔だった。そよ風に起こされた漣が、湖面に落ちた月の光を細かく砕く。幻想的な光景に、光来は暫し見惚れた。
「なに、ぼぉっとしてるのよ」
リムの声に我に返った。
「美しい眺めだと思ってさ」
湖畔での野営は、如何にもキャンプしてますという雰囲気で、光来は昨夜より自然の中に身を委ねる開放感を楽しんでいた。人生を味わい深くする貴重な経験をしているんだなと素直に感動できる。
「そんなことより、スープのおかわりをちょうだい」
「情緒がないなぁ……」
再び三人になった光来たち一行は、焚き火を囲み食事を摂っていた。
メニューは昨日とさほど変わらない。調理したのは光来だが、シオンにも少しだけ手伝ってもらった。
限られた材料で工夫するのは難しく、もう少し調味料が欲しいところだ。バリィに言ったことが事実なら、光来が作ったサンドイッチにも火薬の匂いが含まれているはずだが、リムとシオンは文句を言わず食べている。
「バリィさん、今頃どうしてるかな」
光来の呟きに、二人は顔を上げた。
「なに? 心配なの?」
リムが訊いてくる。その口調は明らかに不愉快さを孕んでおり、彼女はそれを隠そうともしない。
「まあ、悪い人ではなかったから……。なあ、大人になって働くのって、そんなに大変なのかな」
光来の問い掛けに、二人は少し間を空けた。
「そりゃ、生きているなら、色々な不平不満も出るでしょうけど、昨夜の彼は冷静さを欠いていた。思い詰めていたものが噴き出した感じだったね」
リムの答えを黙って聞いていると、シオンが割り込んできた。
「ワタシのお爺ちゃんは、疲れたなんてなんて漏らしたことないけど……」
光来はワイズの豪快な振る舞いを頭に浮かべた。あのタフな老人と比べられては、バリィが気の毒と思えなくもない。
「ワイズさんは、ずっとガンスミスをしてたんだ?」
光来は、銃の整備士に興味があったので尋ねてみた。
「ええ。今は食べていける分しか依頼を受けないけど、昔は名人の呼び声を恣にしてた。かなり高名な人からも仕事が舞い込んできたものよ」
感情をあまり表に出さないシオンだが、祖父の活躍を語る口調には熱が感じられた。
この娘は、絶対にワイズさんのもとに帰さなきゃな。光来は密かに思う。
「さて、シオン。ちょっと行きましょうか」
リムが言いながら、目配せした。それだけで伝わったようで、シオンは頷いて立ち上がった。
「なに? どこに行くの?」
光来は少し慌てた。いくら美しい湖畔とはいえ、一人で残されるには寂し過ぎる場所だ。
「すぐそこよ。一時間も掛からないから、おとなしく待ってなさい」
リムとシオンは野営地から離れようとする。すぐそこなどと曖昧な言い方だけで行こうとするので、思わず光来も立ち上がった。
「すぐそこって? 俺も行くよ」
シオンが振り返って光来を見る。睨むといった方が近い。
「だめ。待ってて」
正面から拒否されては、しつこくするわけにはいかなかった。
不満を顕にする光来を残して、二人は茂みの中に消えてしまった。
光来は、一人で踊る炎の前に座っていた。スマートフォンを操作し、保存してあった録画データの映像を眺める。月の光と星の光、焚き火の灯り。大自然が与える光の恩恵の中、スマートフォンの人工的な明かりはきつい程に映えた。
いつシオンたちが戻ってくるか分からないので、湖を背にしていた。
「………………」
なんとも落ち着かなかった。考えてみれば、こっちに飛ばされてから、常に誰かしらが近くにいた。
スマートフォンをしまい、夜空を見上げた。吸い込まれそうな無限の空間は、美しさと共に怖さも含んでいる。暗黒であるにも関わらず夜の海面のような絶望を感じないのは、煌めく星々の存在のおかげだ。
リムとシオンはまだ帰ってこない。リムは一時間も掛からないと言っていた。二人が消えて、まだ二十分くらいしか経っていないが、知らぬ間に再び違う世界に飛ばされているのではないかと、急に不安になった。
立ち上がると、波打ち際と焚き火の間を二回往復した。
「小枝でも拾っとこうかな」
わざと声に出し、二人が消えていった茂みに向かって歩き出した。
草が擦れて立つが耳障りだった。小枝を拾うと言っておきながら、木々が密集する場所は早々に回避し、波打ち際まで戻った。湖の縁に沿って歩くと、意外と複雑な形をしていることに気付いた。
五分も歩いただろうか、振り返ってみると、暗がりの中に一点だけ赤々と燃え盛る炎が見えた。頼りなく揺らめく炎は、どことなく儚げだ。
これ以上離れるのはまずいな……。
そう思いながら、近くに人の気配があることに気付いた。
ダーダー、バリィと、立て続けに襲われた経験が鋭い爪となって警戒心を引っ掻いた。同時に、二人の安否を思い心がざわめき警鐘を鳴らす。
ルシフェルを抜いた。気配が発せられる方へ、音を立てないように近づいた。先程は嫌がった茂みや木々が、今度は身を隠す盾となってくれた。
声が聞こえた。リムの声だ。その調子に緊張感はなく、敵に遭遇した状況ではなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろす。
安心したら、警戒と入れ替わりに疑問がもたげた。
結局、あいつらはなにをしてるんだ?
他人のスマートフォンのサイト閲覧履歴を盗み見るような背徳を抱きながら、用心して覗いた。
「っ!」
光来の目に飛び込んできたのは、一糸纏わぬリムとシオンだった。まったく予想していなかったら光景に、一瞬、呼吸が止まった。
美しい。真っ先に光来の心を支配した感想だった。全身に絡み付いた水滴が月明かりを反射し、まるで二人の裸体から光が放たれているみたいだった。
同世代の女の子の裸を目の当たりにしながら、邪な欲望よりも美しさに心を奪われる体験は、光来に衝撃を与えた。
女神、妖精、天使。美を対象とした、知っている表現を次々と並べても、今の二人の美しさを表しきれる自信がなかった。見惚れながらも、絵画や彫刻で裸婦がモデルにされた作品が多いのも納得できる、などとぼんやり考えた。
二人はなにか会話をしているが、内容は聞き取れなかった。数秒後、ようやく今の状況は非常にまずいと思い至り、光来は来た時以上に音を立てないよう注意し、野営地まで戻った。
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