芥川
絵空こそら
芥川
「あれはなんですか?」
霜が降りた森の土を踏みしめて走る。草木も動物も寝静まった時間、女は私の腕の中で、初めて見る自然に目を奪われているようだった。
「真珠のように見えます。透き通っていて、綺麗だわ。ああ、零れてしまいます。……砕けてしまったわ」
「姫さま、あれは露というものです。草の上に自然とできる水ですよ」
「まあ、それでは、真珠ではないのね。とても美しい水ね。月の光を集めたかのように光っています」
ころころ、ころころ、と、葉が風に揺れる度、露が降る。駆ける度、背の低い草に纏わりついていた水の玉が弾ける。女は一心にその様子を見ている。
女の見る世界は美しいだろう。まるで幼児のように、真っ新な瞳をして。もっと美しい景色が、この世界にはある。見せてあげよう。私が連れて行こう。
やがて雷鳴が轟き、雨が降り出した。私は彼女を洞穴の中に隠し、表で番をした。
翌朝、女は姿を消していた。洞窟の中には数人の足跡が残されていた。
嗚呼。
身体から力が抜けた。膝から頽れる。
私は失敗したのだ。もはや今一度あの人に会うことも叶うまい。
握りしめた土に張り付いた霜が、ばりばりと音を立てて砕ける。朝日が当たり、それは湿り気を帯び始めた。
ーあれはなんですか?
彼女の声が蘇る。
ーとても美しい水ね。
朝日が当たると尚更綺麗なのですよ。もう共に眺めることもできないけれど。
手の甲に涙が落ちる。露も涙も、朝日と共に消えていく。私はそれらを、とても羨ましく思った。
「成ちゃん泣いとんの?」
洸の声で目が覚めた。
「なあ、なんで泣いとん?」
一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。眩しい。はためくカーテン。机。筆記用具。黒板。教室、だ。
「え、私泣いとんの?」
「うちが聞いとんのじゃ」
洸は苦笑した。早朝の教室には他に誰もいない。
「悲しい夢でも見とったんかな」
洸は私の目尻を人差し指で拭った。指の上にのった涙を朝日に透かす。
「やっぱり真珠みたいじゃの」
「え?」
なんちゃって。
洸はそう言って悪戯っぽく微笑んだ。
芥川 絵空こそら @hiidurutokorono
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