【注釈】百姓・村「中世の百姓はどういう存在だったのか」②

◉前口上


 この話は架空戦記ですが、なるべく現実の歴史研究を準拠しています。

 但し、私自身が歴史研究をやった事が無く、本に書かれている事、ネットで調べた物を読んで、まとめているだけに過ぎないので誤っている可能性は多々あり得ます。

 あくまでこの「作品世界」の設定と考えていただければ幸いです。


 長い文ですし、ご面倒であれば読み飛ばして頂いて結構です。この話が少し特殊で今までの「常識」からすると少し違和感があると思い、一応、致命的な物のみ書いています。


「ん?おかしいな」「どう言う事?」と思った時に読んで頂ければ、有り難いです。


 最後に簡単な『まとめ』も用意してありますので、結果だけ知りたい方はそちらを御参考下さい。


 第二回は中世の「御百姓さん」がどういう存在だったのか?です。


 

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【注釈】百姓・村「中世の百姓はどういう存在だったのか」②


◉百姓について

【侍に従うだけではなかった戦国の「お百姓」】

 さて、惣村に住んでいた「御百姓さん」たちはどういう人たちだったのでしょうか?

 現代を生きる我々からすると、戦国当時の百姓たちは戦国大名や武士に作物を不当に略奪され*1、戦場に連れて行かれ酷使され、虐げられても文句も言えずに易々諾々いいだくだくと従うしかない弱い存在というイメージがあります。

 しかし1970年代に萌芽ほうがし、さまざまに形を変えつつも進展してきた研究によって、その姿は否定されつつあります。

 ここではその姿に注目していきたいと思います。



【百姓は自分たちをどういう者だと考えたか】

 中世の百姓たちは自分たちをどういう存在だと規定していたのでしょうか?


 近江国堅田(現在の滋賀県大津市堅田)の本福寺住持、明誓(一説によると自らを僧ではなく、百姓と考えていた節がある)が記したとされる『本福寺跡書』にはこうあります。

「諸国の百姓は主人を持たない者が多い。京の大殿屋おおとのやの衆(立派な屋敷に住んでいる人々=天皇家、公家)も主人を持たない。主人から与えられた飯で口を汚し、冷えた廊下を暖めるしか能のない連中(=宮仕えの者、ここでは武士を指す)では貴族から御相伴(接待)されることもない。主人を持たない百姓や町人は貴族の御相伴を受けることができる。なぜならば百姓は王孫(天皇の赤子せきし、天皇に直属する者)だからである。公家・公卿は百姓だからこそ御相伴をするのである。(そうであるというのに)侍どもは(なぜか)百姓をさげすむ(諸國ノ百姓ミナ主ヲ持タジゞゞトスルモノオヽクアリ。京ノオホトノヤノ衆モ主ヲモタズ。人ノ飯ヲ汚シ、冷板ヒヤイタヲ暖ムルモノハ、人ノ御相伴ヲセザルゾヤ。主ノナキ百姓マチ太郎ハ貴人ノ御末座ヘ参ル。百姓ハ王孫ノ故ナレバ也。公家・公卿ハ、百姓ヲバ御相伴ヲサセラルヽ。侍モノヽフハ百姓ヲバサゲシムルゾ)」

 ここで分かるのは百姓が自分たちを『主人を持たない自由な者』と規定し「百姓は王孫」と自らに誇りを持っている。逆に武士を宮仕えの自由がない者として、下に見ているのが分かります(『御百姓思想』)。


 これは明誓だけの思想だったのでしょうか?

 


【御百姓VS支配者層】

 前述の『本福寺跡書』で「百姓たちは貴族からの御相伴(接待)を受けていた」とありましたが、それはどういう時に受けていたのでしょうか?

 当時は季節の行事に必要な物や旬の物、地域の特産品などを荘園領主である貴族に届けた(公事と呼ばれる税)際、貴族(領主)は御返しにその届けた百姓たちをもてなさなければならない、という慣習(先例・道理、守るべきルール)がありました。その際、慣習では「その御返しは百姓たちの持ってきた物品と(できるだけ)同等の金額的価値のある御返しでなくてはならない」とされていました。

 この慣習は百姓たちにとって重要視され、例えば、あまりにも御返しの額をケチると訴訟を起こしたりしました。

 その他にも代官が勝手に作った不当な徴税や名主職(名田と呼ばれる管理地から領主に納める年貢を集める役を子孫に受け継ぐ権利。売買可)の不当な取り上げ、横領(百姓の土地を不当に召し上げる)、検断(警察権と裁判権)の不当な執行なども訴訟の対象になりました。

 

 不作・飢饉の年の年貢減免要求には「荘家の一揆」と呼ばれる集団逃散(サボタージュ)を起こしたりしました。

 その他にも同じ領主の村同士の相論(揉め事)で相手に有利な裁定を下そうとする領主に年貢を納めるのをやめ、別の権威(有力武士、寺社)に事態の(自分たちの有利な)解決を条件に、年貢を納め先を勝手に変えたり、最終手段として代官を暗殺しようとしたり、武装蜂起して代官を追放したりしています。


 その他にも、当時は作中でもある様に、濫妨狼藉(掠奪)が頻繁ひんぱんに行われました。

 村が掠奪された時、もし百姓らの「領主である武士への依存度」が強ければ、「オラが殿様」を頼りにし、掠奪した相手を「村のかたき」として一生恨み、敵対しそうなものですが、実際にはそうはなっていません。

 むしろ村を襲った相手方に着き、それまでの領主を捨てる事も少なくありませんでした。

いずれの御方たりといえども、ただ強き方へしたがい申すべき也(〈百姓衆は〉どこの誰だろうと強い方に味方する)」「大百姓以下は、草のなびき、時分を見計らう物にて候(百姓衆は草が風になびく様に、強い方になびく物だ)」と当時の文書にもあります。

 一見、弱々しく見えますがそうではありません。「誰でもいいが、村をしっかり守ってくれる者こそがわれわれの領主だ」(畠山亮氏『中世後期村落に於ける領主についての一考察』)と言う意味であり、領主である武士と言えど村を守れない、「村の存続」に役に立たない存在は無用。使えない用心棒は排除する、という意味です。

 こうした考え方は領主(公家・武士)を主人と考えていては出てきません。百姓衆からすれば、あくまで村が主であり、武士だろうが公家だろうが「村を存続させるために利用する物」でしかありませんでした。

 そしてこうした考え方は中世百姓世界の広く一般に浸透していた、と考えられています。


 百姓たちは村を存続させることを第一に考え、領主に村の存続の保護のための機能を求め、それに対する“対価”として年貢を納めました。村の存続の役に立たない、ましてや害悪になる領主は村にとって排除の対象でした。村の存続に都合の良い領主を得るために交渉したり、脅したり、逃散したり、実力行使に出たりしました。


 これらは近畿・西国に多く、東国に少ない傾向はありましたが、全国的な現象で一部地域のみの事ではありませんでした。

 そこに“おびえ、易々諾々いいだくだくと支配者に従う百姓”の姿はありません。百姓たちは支配者層に怯えることなく、たくましく生きていました。


 年貢・公事(税金)は払っていましたが、領主(公家)・武士(代官)に払う年貢を「訴訟など村の緊急事態の際に味方をしてもらうための維持費(現代でいう“村の存続”の為のサブスクリプション代金)」などと考えていました(蔵持重裕氏著『中世 村の歴史語り』より。一部表現を追加)。

「自分たちは支配されているのだから年貢を払って当然の身分だ」などという卑屈さとは無縁の存在でした。



【民衆の力の源泉】

 そんな百姓たちを支配者層(貴族・武士・寺社)はどう見ていたのでしょうか?

 分国法や大名の法令には百姓たちに対象にするものも含まれる為、大名権力や武士たちが百姓を自分たちの“被支配民”であると考えていたことは確実です。公家も代々、治めてきた荘園の百姓を歴史的な経緯からしても当然、自分たちの被支配民として見ていたと考えられます。

 また『本福寺跡書』では「公家の御相伴(接待)を受けられるのは百姓だけ」と語っていましたが、実際には当時は「守護在京制」により多くの武士が京都に集まっており、公家と武家の距離が近く、頻繁ひんぱんに御相伴し合っていたと考えられます。その状況を百姓たちが全く知らなかったとは考えにくいです。


 それなのにどうして百姓たちはあれほど強烈な“御百姓思想”を持つに至ったのでしょうか?

 

 まず、当時の百姓と村が本質的に領主や代官を必要としていなかった、という事情があります。

 前述のように当時の村は「惣村」として自治を行っていました。

 この自治は制度として完成度が高かったようで

「自分の家宰殺しちゃった謹慎ついでに自分の所領の問題解決してやろうと意気揚々と村にやってきた麿。しかし村人は自分たちで全て解決してしまってやる事があんまり無かったぜ\(^o^)/」みたいな人もいたりします(『政基公旅引付』)。



【「家職意識」】

 御百姓思想が生まれた二つめの理由として、おそらく「家職意識」があったのではないか?と考えられます。

 「家職」とは家によって世襲された家業、職能を指します。武士の子は基本的に武士になりますし、百姓の子は原則として百姓になります。

 実際には百姓が武士になったり、武士が百姓になることは結構よくあった様ですが、日本国憲法(法的に保障された訳ではないが明治以降、ほぼ職業選択の自由があったと言えるかも知れない)によって「職業選択の自由」が保障されるまで原則として日本社会はこういう仕組みになっていました。

 現代から考えると決められたレールの上を走るのは真っ平だと盗んだバイクで走り出したくなる様な制度ですが、これは社会の意識下での分断を生み出しました。

「家職」という制度の元で何代も何代も一つの職に専門的に専業する事で、他の業界の道徳(善悪の判断基準)・習い(慣習)・価値観が理解できなくても生きていける様になります。

 隣り合うパン屋と家電屋がお互いの仕事をそれぞれが理解できない様に「支配者(貴族・武士)の社会」と「百姓の社会」は分断される事になりました。

 それでも百姓たちにも「他の社会の道徳・習い・価値観が分からない」という事は分かるので、彼らは殊更ことさらに「筋目(大元の支配者である天皇との関係、その所領を管理するに至った由緒ゆいしょ)」と「慣習(先例・ルール)」と「道理(道徳など人としてこうあるべきだという社会に通底する善悪の判断基準)」を大事にする事になります。

「他の社会の事が分からない」からこそ、否定しにくい価値観を用いて、それを他の社会の属性人にも適用し(ある意味では押し付け)ようと試みたのだと考えられます。

 

 また「家職」という制度は他にも武士には「武家の習ひ」、公家には「公家の習ひ」という百姓たちの「筋目」や「慣習」と同様の物が、他の身分にも発生していました。

 武家は特に「武家の習ひ」を大事にし、その中で職業軍人としての誇りを命をして表現していました。

 そうした光景を見ていた百姓たちも「農業のプロフェッショナルとしての百姓」というプライドを積み上げて、「惣村」という手段を得て、それを表現し始めたのだと考えられます。


 こうして「支配者として命令を聞かせようとする公家・武士」に対して「事あるごとに口答えし、気に入らなければ実力で支配権を否定しようとする百姓」という図が生まれます。いくら力を持った領主でも惣村という当時の「最小政治単位」の支持無しでは支配が安定しませんでした。



【なぜその抵抗は排除されなかったのか?】

 前述した様に武士や代官には百姓たちを「被支配民」として見る考えはあったと思われます。

 では、なぜ百姓たちの抵抗は排除されなかったのでしょうか?


 日本という国は“米”というものを実に非常に大切にしています。一説によると米は適温と水が豊富に用意できる環境さえあれば、1ヘクタールあたりの養える人口が最も多い作物であるそうです。高温多湿で降水量が多く、諸外国に比べれば水が手に入りやすい日本の環境にあったチート作物と言えます。

 この日本における「米を大事にする思想傾向」は戦前の『稲作単一文化論』の影響を考慮しなければなりませんが、「米」という文化が日本文化における“単一のファクター”ではなくても、重要なファクターの一つであった事は否定しようの無い事実では無いか?と考えます。

 明治維新までおよそ2800年間ほど日本人は稲作(うるち米)全振りの産業構造で生きてきました。麦や野菜などの他の作物、漆やからむし(麻布の原料)などの商品作物はあくまで稲作ができない土地や期間で作っていました。

 司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』のあとがきで「米と絹のほかに主要産業のないこの百姓国家」と呼んだ状況です。これと決めたらそれに真っ直ぐに融通の効かないほど真面目。日本人の気質は昔から実に日本人的だったと言えます。

 

 つまり、近世以前の日本は社会の財産の基本が米で成り立っていました。公家・武士は所領から得た米を売って銭に変えて、色々な物品を手に入れていました。それは日本が明治維新まで『生産階級が諸外国に比べても特に農業従事者に偏った社会構造』をしていた事を意味します。

「百姓たち」を敵に回すことは、公家にとっても武士にとっても生活が破綻する自殺行為でありました。


 百姓たちは自分たちの存続が脅かされる事態に陥ると団結して山にこもるなど逃散(集団サボタージュ)を行いました。それを脅すにしろ、一人二人殺されても戻らない決意を固められたら、公家・武士には手が出せません。

 当時の百姓たちは『クミの村』という盟約を結んだ村がありましたから、一度敵対すると膨大な百姓が敵に回ります。

 百姓が弱いとは言え村人を全て殺してしまえば、農作業をする人がいなくなった広大な耕作放棄地が出来上がるだけです。


 鎌倉末期から天候不順による餓死が相次ぎ、室町時代に入り、短い回復期を経て、三代義満の晩年期に小氷河期になった為、さらに例年のように飢饉が発生し、どこの農村の定員も足らなくなる事態に至って「反抗的な百姓を全て見せしめにし、他から人手を連れてくる」という「出来れば取りたくない最終手段」はそもそも出来ませんでした。

 完全に労働者(百姓)の圧倒的な売り手市場となっていて、百姓を全滅させてしまえば、自分たちの生活も破産するだけでした。


 そのため、武士でも公家でも百姓や村の存続に心を砕きました。村の存続を危機にさらせば、有力者でも簡単に進退問題に発展しました。

 例として北条氏康は領国の飢饉への対策を一年もの間放置し、領国中の百姓を敵に回して(『国中諸郡退転』。領国全域の百姓が団結して集団サボタージュに入った)、四十五才で隠居する羽目になりました。

 また対立する武士と武士の境界の村は「半手はんで」と言って、それぞれの大名に半分ずつ年貢を納め、どちらの大名家にも所属するという態度を取りました(戦になった時の略奪を防ぐため)が、大名はこれをやめさせる事もできませんでした。

 武田信虎が子の晴信(信玄)に追放された原因も通説のように「信虎が悪行をしていたから」という理由ではなく、当時起きた飢饉(氏康が隠居する羽目になった飢饉と同じ飢饉)に信虎が有効な手を打てず、武田家自体が百姓からの支持を失い家の存続自体が危ぶまれ、追放せざるを得なかったと最近の研究では言われています。


 百姓たちの支持を失えば、公家・武家の生活基盤、軍事力を支える米・銭などの資材を得る手段は簡単に崩壊しました。

 公家・武家は百姓たちを敵に回す訳にはいかなかったのです。



【百姓の力の限界、もしくはその方向性】

 中世において、百姓は最も人数の多い階層でした。

 その百姓が公家・武家を恐れず、しかも自治を行い力を持っていたのだとしたら、戦国時代という時代に百姓が“時代を代表する様な活躍(戦国大名・武将の様な)”をして、後世に語られる逸話を数々残してもおかしくありません。

 しかし、戦国時代に百姓そのものがクローズアップされた事績としては、「百姓の持ちたる国」と言われた加賀一向一揆くらいしか著名ではありません。

 自立の意思を持ち、力も持っていた百姓たちは何故、後世の我々にも知られる事績を残せなかったのでしょうか?



 その理由の一つには百姓という階層が一枚岩ではあり得なかったから、という事があります。

 当時の百姓が“クミの村”と呼ばれる日々の生産から村の自衛など軍事にまで及ぶ同盟を広く結んでいた事は既に述べましたが、それと同時に同じ規模の敵対する“クミの村”が存在しました。



 何度も言う様に中世は飢饉が続く時代でありましたので、“飢饉時など、いざという事態に掠奪して良い敵対する村集団”は“村の存続に必要な存在”ですらありました。


 “滅亡するか否かの武力衝突を避けるため、話し合い・訴訟によってもめ事を解決しようとし、そのルールが適用される範囲を広げる為に、同じ有力武士(大名)の傘下に集い、なるべく地域社会を一つの勢力でまとめようとした”武士と違い、“大きなクミの村で地域社会を統一する”という願望が百姓たちにはありませんでした。 


 そんな事をして周囲が全て『味方』になり、“掠奪しても良い村”がなくなれば、一つの大きな飢饉で村が滅びるからです(武士の“地域統一思考”はこの百姓たちの“戦(掠奪)をしたがる性向”を抑え込むためのもの。だから武士間の取り決めは守護法、分国法から大名の法、国人一揆の法まで『“百姓たちが衝突しそうなトラブル”を未然に防ぐ、もしくはその争いを領主同士の争いに発展させないようにする』条文が多い)。

 

 二つには百姓たち自身の性向にあります。

殊更ことさらに「筋目(大元の支配者である天皇との関係、その所領を管理するに至った由緒ゆいしょ)」と「慣習(先例・ルール)」と「道理(道徳など人としてこうあるべきだという社会に通底する善悪の判断基準)」を大事にする』と前述しましたが、その性向は百姓たち自身をも縛りました。

 村と村の武力衝突が起こった際、それぞれのクミの村が援軍に駆けつけると書きましたが、もし援軍先の村に明らかに非がある場合、もしくは非があると判断された場合は援軍が集まりません。


 “菅浦文書(国宝)”に残る菅浦・大浦戦争において、菅浦・大浦両村の領主、日野裏松家の神裁(湯起請ゆぎしょう)で大浦勝訴が決まった時、大浦側は領主日野裏松家の菅浦追討軍に加わりました。菅浦側もクミの各村に援軍の要請をし、抗戦しようとしましたが、一つも来ず、降伏する羽目になりました。

 百姓たちが団結する為には大義名分、言い換えれば“地域的「正当性観念」(自分たちの方が正しいと思える理由)”とも言うべき物が必要でした。

 これはスケールの大きな“クミの村”の話だけではなく、スケールの小さな、例えば“惣村内の百姓たちが団結”する為にも同じ様に必要でした。


 “地域に拡大し、一面支配する訳にはいかないが、掠奪のために争い続けなければならない”百姓たちにとって、その正当性を確保する為に、「領主としての公家・武家」はむしろ必要な存在でした。

 百姓たちが『自分たちに都合の悪い代官を追放する事がある』と前述しましたが、その後、必ずと言って良いほど、新たな代官を上位権力に要求しています。百姓が百姓たちだけで存在する事は、中世において難しい事でした。



 この二つの理由から百姓たちの勢力は本質的に拡大を否定する性格を持っていました。

 飢饉うち続く中世において、百姓たちは生き残る為に精一杯だったのです*2。



【まとめ】


 ①中世の百姓たちは自分たちに誇りを持ち、村の存続のためならば、相手が武士だろうが貴族だろうが恐れる事なく対処した。その対処は交渉から脅迫、逃散、暗殺、武装蜂起まで手段を選ばなかった。

 ②公家・武士の支配者層は百姓たちに掟(法)を下したり、脅したり、罰を与えたりして対処したが、百姓たちが最終的に折れなかった場合には自分たちの方が折れざるを得なかった。また、百姓たちの支持を得られる様に村の存続には格別の配慮をした。

 ③中世当時、領主(公家・武家)の支配は百姓たちにとって、必要だった。その仕組みそのものを壊す試みはほとんど行われなかった。


 歴史的、法的権力や武力に基づいて守護、地頭、荘園領主や荘官は村を支配しようと時に高圧的に、時に脅迫して、村人たちが年貢を納め、支配に従順に従うようにと試みたと考えられます。

 それは我々の従来のイメージと異なりません。

 しかし、それに被支配民である百姓たちが唯々諾々いいだくだくと従っていた、というイメージはどうやら間違っているようです。

 百姓たちは支配者層を向こうに回して一歩も引かず、むしろ支配者層を自分たちの都合の良いように利用しようとすらしました。

 しかし、その力は村にとって都合の悪い領主個人を否定する事はあっても、「領主(武士・公家)の支配」という仕組みそのものを否定する方向には向かいませんでした。


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◉解説

*1【現代を生きる我々からすると、戦国当時の百姓たちは戦国大名や武士に作物を不当に略奪され、】

 前回見た様に、実際に積極的な戦(略奪)の主体になったのはむしろ百姓・村で、大名・武士は後始末や面子の問題で、それに巻き込まれた側といえます。

 それまでの日本史上に見られなかった『戦国大名』『家中・洞中(いわゆる織田家、武田家などの〜家)』という権力の仕組みが、戦国時代に大きくクローズアップされ、数々の逸話を現代に残すほど時代を代表する存在になるのは、その時代に必要とされ、大きな力と責任が集まった(多くの人々の生存・存続に責任を持たされた)、その証といえます。


*2【飢饉うち続く中世において、百姓たちは生き残る為に精一杯だったのです】

 自立し、公家・武家との社会とも対等に渡り合える潜在力を“村の成り立ち”、つまり、自分たちの生存の為に使いました。領主を認めたのもその方が村の存続に役に立つからです。


 逆を言えば、百姓たちが領主の存在そのものを否定したままにした「加賀一向一揆」や「山城国一揆」は“それを超える理由”があった事になります。

「信仰心」や「団結心」が“領主を持っていた方が生き残りやすいという理性”を上回ったのか、何かの判断ミスの結果なのか、理想や計画があったが、それを実現できなかったのか、それとも“百姓の国”という看板は偽りで、内実は本願寺や国人一揆が領主に取って代わっただけなのか、無学で本作の資料読みで手一杯の私には分かりませんが、非常に興味深い事例といえます。



【参考文献一覧】(順不同)

◉藤木久志氏「戦国の村を行く」朝日新書

              (1997、2021)

 それまで無かった「村人から見た戦国時代」と言う観点を生み出し、一つの転換点を作った歴史研究の名著「村シリーズ」の一冊。

 様々な研究者の著作の中でも言及されることの多い影響力の大きいシリーズです。


◉藤木久志氏「戦国の作法」講談社学術文庫

            (1998年、2008年)

 村に残る風習や文献から中世戦国の作法(=物事の決定の考え方)を読み解く一冊。

 百姓と領主の関係や村が他の組織と対立した時の解決法など、現在の研究の基礎となった非常に大事な一冊です。


◉水本邦彦氏「村〜百姓達の近世」岩波新書

                  (2015)

 中世から近世(豊臣政権から江戸時代)にかけての村の情景、収入、仕事のやり方、村掟、支配者との関係、年中行事、村人の価値観などが分かります。とても興味深い本です。


◉黒田基樹氏「戦国大名の危機管理」

      角川ソフィア文庫(2005、2017)

 「戦国大名の危機管理」とありますが、軍事的な事は余り出てきません。それがこの当時の「危機管理」の本質をよく表しています。

 この本は情報量が多く、初心者の私には読むのが大変でしたが、とても様々な情報を知ることができました。平山優先生の「戦国大名と國衆」と共にこの物語のベースとなった一冊です。


◉ 黒田基樹氏著 「百姓から見た戦国大名」

      (ちくま新書 2006年・2020年)

「百姓に必要とされた戦国大名権力」という視点で展開される戦国大名論です。黒田基樹先生の今までの主張がまとまっている入門書としてもお勧めの本です…………相変わらず情報量は多いですが。


◉伊藤俊一氏 『荘園』

          中公新書(2021年)

 分かるようで分からない『荘園』というシステムをその発生から終焉まで懇切丁寧に説明している一冊。非常に情報量の多い一冊である上、その他の本を読んだ後、この本を読むと体系的な理解ができて非常に助かりました。

 荘園というと平安期独自のシステムと考えがちですが、武士の『御恩と奉公』も実は荘園システムの亜種(詳しくは本書で)なので、平安期から室町末期(≒中世)までを通貫つうかんする「平清盛や足利尊氏といった著名人から全く無名の領主まで、その当時の人々がどう働き、どう食を得たのか」というテーマを時代時代の政治環境、時代背景などと共に解説しています。必携の一冊です。


◉ 蔵持重裕氏著 『中世 村の歴史語り』

           吉川弘文館(2002年)

 鎌倉末期から150年の永きに渡り争い続けた「菅浦」と「大浦」の二つの村落。菅浦に残された「置書」を元に当時の村の人々が何を求め、どう言う手段でそれを成そうとしたかを丁寧に解説する中世村落史が分かる必携の書です。


◉司馬遼太郎氏著 『坂の上の雲』


【参考サイトさま】  

◉史学社史学雑誌 金子哲氏  

『本福寺跡書』における価値構造

◉ 畠山亮氏

『中世後期村落に於ける領主についての一考察』 

◉説話屋   『権力者に恐れられた百姓たち』 

◉東北大学 永井隆之氏 

『中世後期の百姓思想と地域社会』 

◉京都大学デジタルアーカイブ 『本福寺跡書』

◉京都大学史学研究会 佐野静代氏

『中近世における水辺の「コモンズ」と村落・荘郷・宮座 〜琵琶湖の「供祭エリ」と河海の「無縁性」をめぐって』

◉関東農政局農村振興部設計課

       『なぜ日本は水田を求めたのか』


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