8.「誰かに心配されるのってくすぐったいですね」
グダグダになったルール決めの話は、結局「思いついたらその都度増やしていこう」ということで落ち着いた。
家族以外の誰かと一緒に暮らすことが初めてなのだ。そんな私が妙案を思いつくはずもなし。まぁ妥当だな、と思う。
翌日、千石は仕事へ行くための準備をしている私に向かって、「今日ちょっと外をブラついて来ますね」と告げた。
「うん。気をつけてね」
「?何に気をつけるんです?」
それは、ここには魔物もいないのに?という口振りだった。うん、魔物はいないけどね?つい2、3日前に取り囲まれたことを覚えてないの?それともイケメンにとっては、あれぐらいの騒ぎは日常茶飯なんですかねぇ?
「いや、まぁ色々と。特にこれってことがなくても言うんだよ。元気に帰って来てね、ってこと」
そう言った私の顔を千石はまじまじと見つめたかと思うと、その次の瞬間には「ぷっ」と吹き出した。はい?私なんも面白いこと言ってないけど?
怪訝な表情を浮かべた私に、千石は「ごめんなさい」と形式的な謝罪を述べる。
「いやー、なんか言われ慣れてない言葉すぎて……照れ隠しです」
えー、ほんとー?と怪しんでしまったのは、今までの千石への信用のなさのせいだ。こいつは思ってもないことを口にできるし、言わなくていいことを敢えて口にする奴なのだ。
だけど、「誰かに心配されるのってくすぐったいですね」と耳まで真っ赤にするんだもん。信じちゃうよ。
「そりゃあ心配するよ」
「まぁ、この世界に関して言えば、僕は赤ん坊みたいなもんですしね」
こんな偉そうで可愛げがない赤ちゃんがいてたまるかと思ったけれど。まだまだ引きそうもない彼の赤に免じて、それは言わないでおいた。
▼
いつもの時間に会社に着き、指紋認証式のセキュリティを通過する。今日もいつもと変わらない1日が始まる。なのに数日前と全く違う気持ちなのはどうしてなんだろう。……どうしてなんて、白々しいか。そんなの考えなくても分かる。
同じ毎日を受け入れながら、どこかで変化を望んでいた。実際に起こったことは、考えていたものより随分と大きな変化だったけれど。
だけど、家で待ってくれている人がいる。それだけで心が満たされていくのを感じる。子供が生まれたお父さんってこんな感じなのかな。って、それはさすがに違うか。もっとこう、男女的な……
「よ!おはよう!」
「わっ!」
「うおっ!ビビったぁ」
「ごめんごめん。米屋か、おはよ」
私の満たされている心を表す的確な言葉を探そうと、エレベーターを待ちながら真剣に考えていれば同期の米屋に声をかけられた。
油断していた中での背後からの声かけに飛び上がるように驚けば、私の声に米屋が驚く。同じようにエレベーターを待っている周りの人たちが、私たちをチラリと横目で見た。朝からうるさくして誠に申し訳ございません。
肩身が狭くなった私たちは、肩を寄せ合いこそこそと会話を始める。
「なんかいい事あった?」
「え?なんで?」
「いやぁ、なんとなく?」
どきりとした。いい事かどうかはハッキリと断言はできないが。心が満たされて、浮き足立っているのは事実なのだ。
ヘラヘラと明るいだけのように(かなり失礼)みえる米屋だが、観察眼が鋭く、些細なことにも気づき、心配りまでできる奴だ。だからこそ営業の成績が良く、エースと呼ばれているのだろう。
「なんもないよー、普通」
「そっか、外れたかー、オレの勘。彼氏でもできたのかと思ったよ」
「まっさかー!ないない。できたら米屋には言うし」
米屋とは同期の中でも一番仲が良かった。裏表のないさっぱりとした性格の米屋は、一緒にいて楽なのだ。最初は「2人って付き合ってるの?」と詮索してきていた人たちも、いつの頃からか「あの2人はまじでただの同期だよ」と結論づけたようだ。それほどまでに私たちの間には色気が微塵もない。だからこそ2人で飲みに行ったり、休日に遊んだりできるんだろうけど。
「……おう。期待してるわ」
「いや、期待はしないで。全くできる気配がないから。そういや米屋は?彼女とどうなの?」
「あぁ、別れた。だから、また飲みに行こうぜ!あと、観たい映画もあるんだよ」
「えっ!?早くない?もう別れたの?」
米屋は「うっせー」と悪態をつきながらも、居心地が悪そうに頭を掻いた。米屋ってば、モテるくせに長続きしないんだよなぁ。
私と米屋の中での暗黙の了解。それは、どちらかに恋人がいるときは2人では遊ばない、というものだった。いくらお互いに恋愛感情がないとはいえ、彼氏彼女からしたら異性の同僚と2人で遊びに行くのはいい気がしないだろう。
それはどちらから言い出したわけではなく、自然とそうなった。そういう倫理観の合致も、米屋といる楽さに地味に繋がっているのだと思う。
まぁ、この7、8年の間に私に彼氏がいたのなんて、ほんの1年ほどだけど。米屋とはえらい違いだ。入社当初辺りの米屋の元カノなんて、もう思い出せない。
「じゃあ、また暇な日にち連絡してよ!」
「おう!すぐ送るわ!」
米屋は爽やかな笑顔と共に手を振って、営業部のフロアへと駆けて行った。よし、私も頑張るか!
▼
めっちゃいい匂いがする……!今日は絶対カレーだ。
子供の頃のように家から漂う晩ご飯の匂いでメニューを想像する。昔もカレーの日は外したことがないのだ。まぁ、誰でもそうだと思うけど。
「ただいまー!今日はカレー?」
「おかえりなさい。匂いで分かりましたか?」
ただいまと言えば、おかえりと帰ってくる。一人暮らしをするまでは当たり前だったのに。久しぶりに経験するそれは、なんだかやっぱりこそばゆい。だけど嫌ではない。むしろ、幸せ。
「うん、分かった!お腹空いたよー!」
「もう食べれますよ。ご飯にしましょうか」
千石はそう言いながら、リビングのテーブルを拭くためにアルコールスプレーを手に持った。目を見張るほどのイケメンとアルコールスプレーの組み合わせは、違和感満載である。だけれど、その生活感溢れる姿を見て安心するのだ。千石が生きてること。ただ普通に暮らしていること。
「いただきます」
と2人同時に挨拶をし、カレーを口に含む。無意識に「おいしー」と口に出してしまうほど、味は完璧。市販のルー、しかも私が今まで使ってきたものと同じ種類のルーを使っているはずなのに、千石が作るカレーの方が段違いに美味しい。やっぱり人に作ってもらう料理って最高!ほんと、これだけのためにずっと居てほしいぐらいだわ。
「あ、そういえば今日出かけたんだよね?どうだった?」
口いっぱいに放り込んだカレーを全て飲み込んだ後、そう問いかければ、千石は「あぁ、まぁ、普通です」となんとも曖昧な返事をした。
普通ってなに?と思ったが、私が喋り始めるより早く「そうだ。忘れないうちに渡したいものがあるんです」と、千石の声が遮る。
「渡したいもの?」
カレーが口に入っていたので、手で口元を隠しながら千石の言葉をなぞる。それに頷いた千石は、「でも食事中じゃない方がいいので、これが終わったら」とその話を一方的に打ち切ってしまった。なんなの、めっちゃ気になるじゃん。
それから少しして食事を終えた私は、すでに終えていた千石に向かって「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「いえ、お口に合ったようで良かったです」
千石のその言葉にも、添えられた微笑みにも他意はないのだろう。だけど、私のあまりの食いっぷりに引いた?と少し不安になってしまう。なんか食い意地張ってる女って嫌な人多そうじゃん?
そんな私の不安を察したのか、それとも何の気なしなのか。恐らく後者だろうが。
「美味しそうに食べる女性って、可愛いですよね」
と千石は目を愛おしげに細めたのだ。……いや、愛おしげというのは自意識過剰な思い込みかもしれない。でもいつもより柔らかい声音に思考が引っ張られる。事実そう思っていても不思議ではないほどに柔らかく、甘い声だった。
なんと返事をしようか考えあぐねている私のことなど気にしていないのか。そもそもさっきの言葉は、ただの挨拶ぐらいの軽い気持ちで言ったものだったからか。とりあえず千石はすぐに話を変えた。
「そうだ、食事中に言ってた渡したいもの。今渡しますね」
「あ、あぁ……うん。」
なんだか拍子抜け。しかも話題が変わったことに寂しくなってるし、私。女の子のこと取っ替え引っ替えしてたぐらいおモテになる人の言うことは、真に受けちゃダメだな。私もサラッと流すぐらいになんないと。
自己防衛のための決意をした私に、千石は「はい、これ」と両手で持ったそれを丁寧に差し出した。
「え?なにこれ」
「少ないんですけど、とりあえず今あるお金です」
それは見れば分かる。さっきの、なにこれ?、はそんなことを聞いているのではないのだ。
「いや、千石がなんでこっちのお金持ってるの?」
なにこれ?の中身を噛み砕けば、千石は「話を聞いたらお礼にと貰いました」とサラリと告げる。
「え?ちょっと待って。これいくらあるの?」
「3万ですね」
さ、3万!?それってただ話を聞いただけで貰える金額なの!?え、なんの話したの?未来の予言でもしてあげたの!?
それともイケメンってだけでこんな好待遇なの?もうわけ分かんない。
「これじゃあ足りないと思いますけど。とりあえず」
「えぇ……なんなの、どんな話をどれぐらいの時間したら3万ももらえるのよ?」
「?特別な話なんてしてませんよ。ただ悩みを聞いただけです」
その悩みを打ち明けられた人とはどうやって知り合ったのか、どんな流れでそんな話になったのか、聞きたいことはまだまだあるけれど。とりあえず分かった。千石はやはり恐ろしい男だ。
この男は熱狂的な信者を作る能力に長けているのだ。それは漫画内でもそうだった。図らずとも支配者になってしまう。だって、ねぇ?それは漫画内だけにとどまらなかったわけだ。自分の死は大炎上に発展するわ、話を聞けば私の日給以上の額を稼いでくるわ……本人に自覚はないのかな?まぁ、あってもなくても恐ろしいことに変わりはないか。
「では、ありがたく。てか、税金どうしよう……」
この先もこうやって稼いでくるなら納税しなきゃいけない。でも千石には戸籍がないから無理だし……。
「……私の副業ってことにしとくか」
もうそれしか道はないだろう。決意をした私の呟きに、千石は「来年の住民税怖いですね」と恐ろしい言葉を被せてきた。リングの世界にも住民税の制度あったんだぁ。おもしろ。しかもこの世界と同じように前年給与によって今年の住民税が決まるっぽいな。
……!!そうだよ!あんまり稼がれたら、来年私が支払いで困るじゃん!
待って。そもそも千石っていつまでこの世界にいるんだろう。きっとずっといるなんてことないよね……。そう思った瞬間、息がしづらくなった。千石が私の前から消える瞬間を想像して、私は絶望したのだ。
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