第8話 蒲田にて(7)
フィルターマスクを外し服の埃を軽く落とすと、
ドアが開けられる前に、怜は深呼吸をした。
父に売り飛ばされるのは初めてじゃない。もう正直どうでもいいと思っていた。自分の権力や支配欲以外に興味のない男は、使える道具をすべて使う。悪いのは、あの時死ななかった自分なのだ。
問題は木島という男だった。突如として怜の前に現れた男。彼は高遠の差し出した最低の条件を、怜の意志を無視して承諾した。怜にも人権があるとはついぞ思っていないような態度だ。だが冷たいやり方とは裏腹に、木島は弱っている怜を犯そうとはしなかった。
そして──
あの時、木島は怜の名前を呼んだ。愛おしそうに。懐かしそうに。あれは確かに夢だったと思うけれど、もしかしたら、夢ではなかったのかもしれない。確信はない。あの人によく似た声だった。
しかも自分の体が、彼を拒絶しなかった。彼の匂いに包まれて安心して眠り、泣きたいほどあの人の存在を感じた自分の体が、怜には信じられなかった。
木島はあの人じゃない。それは確かだ。年齢が遥かに上だし、話し方も言葉遣いも違う。声だって、あの人はもう少し高く艶があった。
それに何より、怜は自分が撃った銃弾が彼に食い込む光景を見ている。膝を突き、倒れ込む彼を。哀しみに満ちた最後の眼差しは、銃口の向こうからいつも怜を追い詰めている。
混乱した頭のまま、怜は目の前のドアが開くのを見た。木島が顔を出す。
「ようこそ」
怜を迎え入れた木島は、今日もスーツ姿だった。落ち着いた雰囲気の木島には、スーツがよく似合う。この埃っぽい汚染周辺地域に来ていながら、スーツにもワイシャツにも汚れはなかった。
「おつかれ。風呂に入るかい?」
怜が部屋に入るなり、木島は労わるように言った。怜の選択肢をすべて塞いだくせに、まるで怜が自分で友人を訪ねてきたような対応だった。
「そう……ですね。入ります」
エレベーターは整備されておらず、8階まで階段で上るのは疲れる。汗と粉塵が体にまとわりついて気持ちが悪かった。
木島はジャケットを脱ぎ、ネクタイを引き抜いてからバスルームに入っていった。蛇口をひねる音。お湯が注がれる低い水音が響き始める。
部屋の真ん中に突っ立ったまま、怜は辺りを見渡していた。広い部屋だ。右の壁に頭をつけてダブルベッドが置かれ、その横には、ベッドに背中を向けて座る形で、大きな執務デスクがあった。ダブルベッドから目を逸らし、部屋の左側を見る。ダイニングテーブルの上には、小さな文庫本が無造作に置かれていた。怜は本の表紙を見下ろした。
後ろで、木島がバスルームを出てくる気配がする。
「……何を読んでいたんですか」
「あぁ、ハイデッガーだ」
怜には、それが著者の名前なのか、それとも本のタイトルなのかさえわからなかった。
難しい本。
あの人も、いつも本を読んでいた。最後に抱かれた夜も、サイドテーブルには読みかけの本が置かれていた。四つん這いで彼に貫かれながら、怜は本を眺めていた。かすむ意識の向こうにタイトルはおぼろだ。覚えておけばよかった。
怜が覚えているのは、体の奥で感じる彼の熱と、うなじに跡を残す彼の唇だった。
お湯の音がする。自分はどうしてここに立っているんだろう。
「風呂に入っておいで。あぁ、そこにある袋を持って行って、脱いだ服を入れてこちらに出してくれ。洗濯機に入れてくるから。銃などの武器は……悪いが金庫に入れさせてくれ。帰る時に返そう」
木島はどうして、自分をここへ来させたのだろう? 妙に面倒見のいい男は、ワイシャツの腕をまくると、入口横の流しに置いてあったマグカップとスポンジを手に取りながら、怜に笑いかけていた。
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