水底
我が家の庭の栗の木の傍には直径1m程の小さな池があった。
過去形なのは、今はもう埋め立てて無くなってしまったからだ。幼い頃の私は、小さな魚や水草などが揺らめくのを池の縁から眺めていたものだ。
些細な物音にも怯える子供で、侵入防止と言って窓枠の桟に画鋲を並べてみたり、何かに足を引っ張られるのではないかと夏でも足までお気に入りの毛布ですっぽり覆って寝ていた。
ある日、池の縁に立っていると、何かに引っ張られるように水の中に落ちた。子供の脛までの水深しか無い筈の池は急に深くなり、頭まで水に覆われた私は、ぼんやり上を見上げていた。
―こっち…
―こっち…
その時初めてすうの声を聞いたかもしれない。
碧い水底から見る黄色の陽の光は小さく美しく複雑に揺らめいて、私はそれを掴もうと腕を伸ばした。
時間にすれば数秒の事だったかもしれないが、気付いた時には伸ばした手を父に掴まれずぶ濡れのまま抱き締められていた。
水を飲む事も無く溺れた自覚も無かった私はきょとんとしていたという。池はその後すぐ埋め立てられてしまった記憶がある。
両親にはしばらく水辺には近付かないように言い含められた。
私は池があった場所に置いてある父の遺した一抱えもある大きな鉢を眺めていた。水面には小さな蓮の葉と花が浮かび、中で赤い金魚がヒラヒラ泳いでいる。
じっと見詰めていると、水底が碧く揺らめいて水深を増したような気がした。
―れんこん…
―きんぴら…
すうが夕飯のリクエストをしているらしい。蓮を見ていたからだろうか。
私は縁側から家の中に戻り、買物メモに『蓮根』『人参』と書き記した。
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