2019年7月29日(月)


 昔、いつだったか横山よこやまが話してくれたことがある。

 彼女は幼い頃から物語を書くのが大好きで、中学に上がる頃にはいつか小説家か脚本家になって活躍したい、という明確な夢があったそうだ。

 だから彼女は演劇部に入った。俺たちの通っていた白石東中学校しろいしひがしちゅうがっこうにも文芸部があればよかったが、生憎あいにくそういった部活は前例がなかったために、それならせめて脚本を書ける演劇部にと考えたのがきっかけであったらしい。


 ところがそこで彼女は君と出会った。


 出会ってしまった、と言い換えてもいい。何故ならそう形容せざるを得ないくらい、君との出会いは衝撃的なものだったのだ。ただ脚本が書きたいという理由だけで、演劇の知識や心得なんててんでないまま入部を決めた彼女にとっては。


「神さまが降りてくる、って、たぶんああいうことを言うんだろうなあっていうのが、歩叶あゆかの演技を見たときの最初の感想。だって、直前まで〝はじめまして、よろしくね〟なんて、お互い緊張しながら喋ってた女の子が、舞台に上がった途端、別人になっちゃったんだもん。しかも入部見学の日に、先輩が即興で渡した脚本でだよ? こんな子がつい先月まで私と同じ小学六年生だったなんて信じられない、って……その瞬間、私、すっかり歩叶のファンになっちゃった」


 以来横山は君に演じてもらうための脚本を書き続け、一緒に白女はくじょへ進学したあとも、憧れていた文芸部への入部を取り止めて脚本家業を続けたほどだった。

 けれど演劇の「え」の字も分からない俺に言わせれば、横山の書き上げる脚本も相当なものだと思う。そうでなければ同じ中学の連中だって、彼女の脚本でシェイクスピアの『終わりよければすべてよし』のヒロインを演じた君に対して、あそこまで熱狂的な野次を飛ばしたりはしなかっただろう。


 惜しむらくは君が学校中の噂をさらうほどの名演を見せたその劇を、俺が鑑賞できなかったことだ。あれは中二の文化祭での出来事で、演劇部や吹奏楽部といった文化部の発表は見に行くも行かないも生徒の自由だったから、観劇や演奏会なんて高尚なものへの興味などまるで持ち合わせていなかった当時の俺は、のぞむら悪童どもとつるんで射的やらお化け屋敷やら食べ歩きやらといった、しょうもない遊びにばかり興じていたのだった。


 おかげで君を平城ひらき歩叶あゆかではなくロシリオン伯爵夫人に庇護された医者の娘ヘレナだと信じてやまなかった人々の噂を耳にしたのすら、中三の夏、君とキューブで初めて言葉を交わしたあの日のあとだというのだからお笑い草だ。

 それまで君に対しては「どこかミステリアスで大人びた雰囲気のクラスメイト」という程度の認識しかなかった俺にしてみれば、むしろ他の生徒たちが皆、君をそんな好奇の眼差しで眺めていたのだという事実の方がよほど衝撃的だった。


 しかしだからこそ、その発端となった劇をひと目見られなかったことがなおさら悔やまれる。中二の夏、横山はたった十四歳の日本の少女が、世界で最も有名なイギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの戯曲をリメイクするという大胆にして奇抜なアイディアの下、シェイクスピア作品屈指の問題作とも言われる『終わりよければすべてよし』を現代風にアレンジした喜劇を書いた。


 原作のあらすじとしては、若き伯爵バートラムに恋をしたヒロイン、ヘレナが、誰もが認める名医であった父の書きつけを頼りにフランス王の病を治し、褒美としてバートラムと結ばれることを望むというものだ。


 ところが王からヘレナと結婚するよう命じられたバートラムは、大人しく了承したふりをして即座に逃亡。逃げるついでにヘレナには「私がおまえを愛することなど一生ないし、妻とも認めない」という趣旨の手紙を残し、これに傷ついたヘレナは巡礼の旅に出ると言ってフランスを飛び出してしまう。


 けれどもこのときの手紙にバートラムが「おまえが私の家宝の指輪を手に入れ、私の子を産むことができたなら夫になってやる」という、嘲弄ちょうろうを込めた挑発文をしたためていたのが運の尽きであり物語の肝だ。


 やがてイタリアのフィレンツェで失踪したはずのバートラムの消息を掴んだヘレナは、彼から熱烈な求愛を受けて困っていた現地の女性ダイアナと共謀し、バートラムが訪ねてきた夜に暗闇の中で入れ替わる。

 そうとは知らないバートラムは、相手をダイアナだと思い込んだままヘレナとむつい、ついでに指輪も盗まれるという顛末てんまつだ。あとは観客もお察しのとおり。


 フランス王の前に連れ出され、上述の事実を暴露されたバートラムはもはや言い逃れることあたわなくなり、自らが手紙に残してしまった一文によって今度こそヘレナを妻とすることになった。かくてヒロインの恋は叶えられ、終わりよければすべてよし、めでたしめでたし、というのが作品の筋書きだ。横山はこの物語を日本在住の、しかもおフランスなどといういかにも高貴な国とはまったく無縁の田舎で暮らす中学生でも親しめるよう、舞台も登場人物もすべてをジャパナイズした。


 すなわち舞台を現代日本へ、登場人物も日本人へ置き換えたというわけだ。

 おまけに原作でも問題だらけの登場人物たちをさらに救いようのない問題児へと仕立て上げ、喜劇としての笑いどころと馬鹿馬鹿しさをふんだんに盛り込みながらも、バートラムがヘレナの策略に屈するラストを「当人たちの身から出たさび」という、なんとも皮肉の効いたテーマでくくった。良い行いも悪い行いも、最後はすべて自分に返ってくるという寓話的ぐうわてきなメッセージを込めて。


 そんな現代日本版『終わりよければすべてよし』で、ヘレナこと内野辺うちのへレナを演じたのが他でもない、君だ。


 横山はレナを大富豪の御曹司おんぞうし路市ろしリオンに恋い焦がれるあまり、


「リオン様は本当は私のことを愛しているのに、恥ずかしくて言い出せないだけ。だから私たちは事実上、結婚を約束したも同然なの」


 というちょっと危ない妄想に取り憑かれたストーカー少女として描き、対するリオンは彼女を恐れて逃げ回りながらも、行く先々で金をバラまき女を口説く、どうしようもないナンパ野郎という設定にした。

 もちろん結末は原作どおりで、最後にはリオンの両親とリオンに泣かされた女たちを味方につけたレナが、彼との婚約を勝ち取って物語は幕を閉じる。


 ところがこの劇中で、あまりに不穏かつ過激な言動を繰り返すレナの異常性を君があまりにも見事に演じ切ってしまったがために、劇を見ていた観客たちは「あれが平城歩叶という女の本性だ、それこそがあんな怪演を可能にしたのだ」と心底から思い込んだ。つまり君の演技には、観客をある種の催眠にかけるほどの真実味と迫力と魔法が宿っていたということだ。


 君にとってはまったく災難な魔法だったかもしれないが、けれども俺はそんな才能を持って生まれたことをもっと誇っていいと思う。何しろ噂を知った俺が中学最後の文化祭、興味本位で観に行った舞台の上の君は本当に輝いていて、一瞬も目を逸らしたくないと願うほどきれいだったから。ひょっとしたら俺が君に明確に恋をしたのは、まさにあのときだったのかもしれない。だからこそ意外だった。


 高校二年の夏休み、ふたりで涼みに行った大河原おおがわらの映画館で君がぽつりと、


「自信がない」


 と漏らしたことが。


「え? 自信がないって……なんで? むしろ歩叶が一番得意そうな役どころじゃない? 我が子との数年ぶりの再会にむせく母親なんて」

「確かに今回の役も、泣きの演技は私が一番得意だからって理由で選ばれたんだけど……自信がないのはそこじゃないの。杏奈あんなは物語の最後にほんの少ししか登場しないから、その少しの出番の中で、彼女がどういう人でどういう状態で、だけどどれだけ真留子まるこを愛しているかっていうのを表現しなきゃいけないでしょ? それがすごく難しいな、って……」

「そういうのって、ナレーションとか台詞で説明すればいいんじゃないの?」

「全部を言葉で説明すると尺が長くなっちゃうし、何より情緒に欠けるでしょ? そもそも今回の脚本はコンクールの制限時間ギリギリの長さで、これ以上台詞は増やせない。むしろ削らなきゃってリコが頭を抱えてるくらい」

「あー、そっか、制限時間とかもあるのか……じゃあ確かに、何でも台詞で説明ってわけにもいかないね。だけど、こう……まったく演劇を知らない俺が言うのも何だけど、そういうのもやっぱり、歩叶なら得意そうに見えるけどなあ」

「そういうのって?」

「つまり、感情の演技……っていうの? 歩叶の演技って、見てるだけで何を考えてるのかとか、どういう気持ちなのかとか、すごく伝わってくるからさ。だったら出番が少ないって言っても、歩叶なら案外楽勝なんじゃないかなって」

「それがそうもいかないのだよ、優星ゆうせいくん」

「え?」

「私が今までやったことのある役って、どれも自分と同じくらいの年の女の子ばっかりでしょ。だからある程度等身大というか……十六歳の私の感性でも理解できるし、共感できる部分が大きかったんだよね。おかげでうまく役に入り込めたわけだけど、今回の役は子持ちのお母さんじゃない」

「……確かに、そう言われると急に年齢が上がったな」

「うん……だけど『母をたずねて三千里』は、真留子と杏奈の親子愛が物語の軸なわけで。そう考えると、杏奈の母親としての演技に説得力がなくちゃ物語として完成しない。ただでさえふたりの再会は、劇の最後を飾る一番の見せ場だしね……」


 と、最後はため息混じりにそう言って、まだ照明が明るい上映前のシアターで、君は罪もない真っ白なスクリーンを睨みながらぼすりと席へ沈み込んだ。

 そうしてねたように口もとをとがらせ、空腹を突き刺すバターの香りをふんだんにまとったポップコーンを口へと運ぶ。


 照明が明るいとは言っても窓がなく、言わば巨大な密室であるシアターで、君の潤んだ唇が膨れ上がったコーンの成れの果てをそっと甘く挟むたび、劣情の塊たる俺のみじめな心臓はぎくりと場違いな音を立てた。君が秋の高校演劇コンクールに向けて苦悩する隣で、まったく不埒な男だったと今は反省しているが。


 そう、あれは俺が見事に弓道の県大会で敗退し、君がそんな俺の落胆を慰めるために誘ってくれた席だったはずだ。しかし運動部員には決まって総体出場という目標があるように、文化部員にだって浴するべき栄誉がある。


 それが演劇部員の君にとっては、毎年十月に開催される演劇コンクールへの出場だった。君は親友の横山とふたりで、高校在学中に必ず一度は全国大会へ出ようと意気込んでいたから、きっと大層真剣だったのだろうと思う。


 そしてあの夏横山が書き上げ、コンクール用の脚本として採用されたのが『母をたずねて三千里』だった。これはひと昔前『フランダースの犬』や『ロミオの青い空』といった作品と共に、名作アニメシリーズとして有名になった海外の児童文学だ。と言っても横山が手がけた脚本であるからには、当然原作の内容をそっくりそのまま拝借しただけのものであるはずはない。


 原作はイタリアで暮らす十三歳の少年マルコが、アルゼンチンへ出稼ぎに行ったまま行方知らずとなった母を探して海を渡り、言葉も通じぬ異国を放浪する、という筋書きだが、例によって横山はこのイタリアの少年マルコを日本の少女真留子に置き換え、物語を練り直した。ついでに母親のアンナも日本人ということにして、またも観客が親しみやすいようにとの配慮と脚色を加えたわけだ。


 もっとも中学時代に歩叶の件があったためか『終わりよければすべてよし』のときのような過激なアレンジは鳴りを潜めて、内容はほとんど忠実に原作をなぞっていた、と思う。思う、というのは、君の話から興味を持って原作を購読し、なおかつ実際の舞台をコンクール会場まで観に行った身としての感想だ。


 ただ横山の脚本は原作よりもさらに苛烈に真留子を責め立て、たった十三歳の少女がひとりで立ち向かうにはあまりにむごく容赦のない困難を次々とけしかけた。

 この点は横山いわく、原作の筋書きはいささか児童文学らしいご都合主義が過ぎるので、高校生がるには内容が幼すぎると判断してのことらしい。


 けれどもそんな横山女史の工夫が功を奏して、立ちはだかる数多あまたの苦難を乗り越えた真留子が、母親との再会を叶えるラストは涙なしでは見られなかった。あの日映画館でぶうたれていた君には想像もできなかっただろうが、あれからほんの二ヶ月の練習で、君はコンクールの歴史に残るほどの名演を実現するに至るのだから。


「……やっぱり私、真留子の方が演りたかったなあ」

「でも真留子って主役だろ? それはそれで責任重大じゃない?」

「でも、杏奈よりは真留子の気持ちの方が分かるもの。何と引き換えにしても愛する人に会いたいって気持ちで、どんなに人に笑われようが、傷つけられようが諦めずに旅を続けるって、誰にでもできることじゃないけど共感はできるでしょ?」

「まあ……確かに、応援はしたくなるかな」

「だけど母親が何年も会えなかった娘と再会したときの気持ちなんて……少なくとも私には想像できない。それでなくとも杏奈は真留子と再会するまで、完全に生きる気力を失くして病気の治療を拒んでた……つまり日本に帰ることも家族と再会することも諦めて、さっさと死のうとしてたんだから」

「うーん。そう言われると、確かに杏奈は真留子ほど我が子に会いたいとは思ってなかったってことになるのかな。日本に帰りたいって気持ちがまったくなかったわけじゃないとは思うけど、その気持ちもかすむくらい、人生がどうでもよくなってたとか?」

「うん……そうかも。これは台本には出てこない設定だけど、リコが言うには、杏奈は〝出稼ぎ〟と称して海外に身売りされていった明治・大正時代の女の人たちをモデルにしたらしいから」

「うわ。そう聞くとなんかめちゃくちゃ生々しいな……けど、だったらいっそ母親の気持ちじゃなくて、余命わずかな病人の気持ちとして考えてみるとか?」

「……病人の気持ち?」

「うん。だって杏奈は、病気で今にも死にそうだってときに真留子と再会するんだろ? 誰の助けも借りられない異国の地で、もう無理だ、今度こそ死ぬしかないって生きるのを諦めかけてたところに、もう会えないと思ってた真留子が駆けつけてくれるわけで……だったらその真留子を〝娘〟じゃなくて、こう……たとえば、シンデレラにとっての魔法使いみたいな、奇跡を起こしてくれる存在? 的な感じで解釈すれば、子を想う母親の気持ちよりは想像しやすいかなー、とか……」

「……」

「は、はは……いや、ごめん。マジで演劇のことなんてなんも分かんないくせに、適当なこと言って──」

「──ううん。それだよ、優星くん」

「へ?」

「確かにそういう解釈なら私でも演れるかも。というか、演れる。きっと部にいる誰よりもうまく」


 刹那、くわえていたストローをぱっと放して体を起こした君の瞳は、直前までたいてんの宿敵のごとくスクリーンを睨んでいたのが嘘のように瞬いていた。

 そこには明るい公算と期待とが燦然さんぜんと輝き、一種の興奮を帯びて俺を映していたのを覚えている。おまけに頬は上気し声は弾んで、今すぐにでも舞台へ飛んでいって演じてみたいという勢いに見えた。そんな気勢にされた俺が呆気に取られている間に、君は我も忘れた様子で俺の手を取り、こう言ったのだ。


「優星くん、ありがとう。おかげで次のコンクールはすごくいい劇ができそう!」

「え、あ、う、うん……? だとしたら、よかった」

「ちなみにひとつ質問があるんだけど、いいかな?」

「あ、ああ。俺に答えられることなら」

「あのね。もしも優星くんが真留子なら、杏奈わたしを探しに来てくれる?」

「え?」

「つまり、私が遠い海の向こうの、言葉も通じない外国で迷子になってたら……優星くんは、たったひとりでも助けに来てくれる?」


 そう尋ねてきた君の眼差しは、やっぱり真剣で熱を帯びていて、されど映り込んだ俺を飾っていた虹彩の瞬きは何故だかすうっと消えていた。

 代わりにそこに見えたのは、すがるような、哀願のような、祈りのような何か。

 だから俺は答えざるを得なかった──いや、答えなんてものは考えるまでもなく決まっていた。少なくとも、あの日の俺の中では。


「ああ、もちろん。約束するよ。必ず君を迎えにいくって」


 そう答えた瞬間、君の瞳から溢れたきらめきの名前を俺は今も知らないままだ。だけどひとつだけ確かに言えるのは、俺はとんでもない大嘘つきだったってこと。

 何しろあれから半年ののち、俺は迷子の君を見捨てて逃げて、二度と探しに行かなかったんだから。そんな俺の罪を罰するように、そのときブーッと映画館が叫びを上げて、君ごとすべてを塗り潰す暗闇の緞帳どんちょうが下りてくる。

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