2023年8月3日(木)


 七月三十日、しめやかに葬儀が営まれ、俺たちは祖母に別れを告げた。

 告別式には市外で暮らす親族や祖母と交流のあった友人知人なんかも集まって、そこそこ盛大な見送りができたんじゃないかと思う。母方の祖父は俺が小学生の頃に亡くなっているから、今頃ふたりは浄土で再会したりしているのかな、なんて柄にもない感傷にふけりながら、俺はひとり、ゆいに借りた自転車の上で八月の風を浴びていた。白石しろいし盆地の底に広がる故郷の夏は、仙台よりずっと蒸し暑い。


 五体がいつ熱中症を訴え出してもおかしくない陽射しの下、俺は何故これほどの熱気の中へわざわざ出てきてしまったのだろうと若干の後悔を抱きながら、信号待ちの間に自転車のカゴへ手を突っ込んだ。そうして掴み取った天然水のペットボトルに口をつけながら、まあ、暇だったんだからしょうがないじゃないか、と直前の自問へ回答する。祖母は七月の末に亡くなったので、初盆は来年なのだけれども、一応お盆までは白石に残るつもりで俺は夏休みのバイトを休んでいた。


 おかげで実家にいてもやることがない。日中のこの時間帯は特に興味を引かれるテレビ番組もやっていないし、両親は今日から仕事。さらにこんなときの心の友であるゲーム機は仙台アパートに置いてきてしまい、読書にもネットサーフィンにも飽きた。

 とにかくそういう紆余曲折があって、俺は朝から塾の夏期講習へ出かけたゆいの自転車を借り、二年ぶりに帰ってきた故郷を巡ってみることにしたわけだ。


 もちろんモールやら映画館やら、市内に暇を潰せそうな施設があれば当然そちらへ行くのだが、残念ながらどちらも隣町の大河原おおがわらまで行かなければありつけない。

 バイパス沿いに出ればギリギリ、ボウリング場やカラオケといった娯楽施設はあるものの、ああいう場所はひとりで行ったところで楽しくない、というのが大多数の日本人が抱く共通認識だろう。


 かと言って地元の友人とは、二年も帰らずにいるうちにすっかり疎遠になってしまったし、大学の友人はみな仙台に残っていたり、銘々の実家へ帰っていたり。そんなわけで他に何の妙案も思いつかなかった俺は現在、二年前に卒業した母校──県立白石高等学校を目指して自転車のペダルをこいでいた。


 白石高校こと通称「白高はっこう」は、白石市のシンボルである白石城の麓に佇む歴史の古い男子校だ。天守閣のある益岡ますおか公園を挟んだ北側には、白高ののごとく存在する白石女子高等学校──こちらも「白女はくじょ」の略称で呼ばれる──もあり、この二校は仙南の二大進学校として今も勇名をせていた。


 まあ、とは言え久々に母校を訪ねるからと言って特別何かをするつもりはない。

 ただ、二年町を離れている間に何か変わったことはないか、ちょっと様子を見てくるだけだ。校内まで入ってしまうと、今は他校で教鞭を執っている父の元同僚なんかと出会して、うっかり決まりの悪い思いをすることになりかねないからあくまで周りを散策するだけ。


 ついでにせっかく白高まで足を伸ばすのなら、すぐ隣の公園にそびえる白石城も拝んでくるかと思案しながら、俺は白石駅前の道を商店街方向へ曲がり、市役所の脇を通りすぎて、敢えて白女の前を通るルートで母校を目指した。


 何故ならそこは、生前の歩叶あゆかが通っていた学校だから。


「……」


 プールサイドと隣り合う老舗しにせの醤油屋の醸造所から、うっすらと醤油の香りが漂う白女の校門。俺はその前に自転車を止めて、思わずじっと五十年以上の歴史ある校舎を見上げた。──何も変わっていない。当たり前かもしれないけれど。


「……いや、さすがに変わったか。俺の方が」


 と自転車のハンドルを握ったままひとりごち、陽炎かげろうを生むアスファルトへ視線を落とした。白女は校門のすぐ隣、目の前の道路に面した場所にプールがあって、さらにプールと醸造所の間に古いプレハブ造りの部室棟が建っている。

 そこは弱小文化部用の部室棟で、部員数の少ない文芸部や写真部、郷土研究部といった部が部室をあてがわれているのだった。

 そして同じ並びに、歩叶のいた演劇部の部室もある。


 耳を澄ませばプールサイドから聞こえてくる女子高生たちの笑い声。

 どうやら夏休みの間も練習のある水泳部や、文化祭の準備に明け暮れる文化部の部員たちが賑やかに青春を謳歌しているようだ。

 思えば高校時代の夏休みにも俺はこうして白女の前に自転車を乗りつけ、プールサイドから歩叶が顔を覗かせるのを待っていた。今でも目を細めれば、プールの水面が反射する光にまぎれて、金網越しに手を振る歩叶の幻が見える気がする。

 されどその幻が両目をつんざき、あまりに痛んでたまらないからと顔を覆って逃げ出した、三年前の俺はもういなかった。


 逃げて逃げて逃げ続けて、俺はようやく逃げ切れたのかもしれない。


 やっぱり歩叶のことが好きだった、という、過ちの果ての呪いから。



          *



 そこから益岡公園の外周をぐるりと回り、俺は母校である白高の前の坂道へ自転車を停めた。気づけばこの辺りにも新しいスーパーマーケットができたりして、昔に比べればだいぶ賑やかになったものだと思う。けれども開発されゆく周辺の市街地とは裏腹に、母校は今の校舎が建てられた五十年前の風格を保ったまま。

 学校の敷地は公園から溢れ出た緑に囲まれ、尋常ならざる音量のせみの合唱を従えた木々の葉が、歩道を飲み込むほどの木陰を生み出していた。


 そうしてちょっとした小山の様相を呈している斜面の麓で自転車を下り、カゴに入れておいた盗難防止用のチェーンをかけて目の前の坂道を仰ぎ見る。

 久々に訪れてみると、ずいぶん急だったんだなと今更ながらに感心するその坂の上に母校はあって、登ってゆくと緑に埋もれかかった石段が見えてきた。

 俺はそれに足をかけ、蝉時雨せみしぐれを浴びながら登り出してみる。


 するとほどなく、麓からでは繁茂はんもする草木に隠れて見えない校舎が姿を現した。

 相変わらず肝試しをするにはもってこいのロケーションだなと苦笑しながら、俺は数十年の風雪を感じさせるすすけた外壁に視線をわせる。

 平地に建てられた白女とは違い、俺の母校がどうにも薄暗い印象なのは、やはりあたりを森に囲まれてしまっているせいだろう。しかし部活動で賑わっていた白女と同じく、白高の校舎にも遠くから生徒の笑い声が響いている。


 大学では何のサークルにも所属せず、もっぱらアパートとキャンパスの往復ばかりを繰り返すうちにすっかり忘れてしまっていたが、高校時代には俺も夏休み中の自主練のために足繁あししげく弓道場へ通っていた。

 そんな当時の勤勉さを自讃しながら、校舎の外側を回り込むように歩き出す。

 白高の敷地は益岡公園と直結しているので、白石城へ行くにはここを通り道にした方が話が早いのだ。もともと制服のない学校だから、ボーダー柄のノースリーブに無地の半袖ジャケットという格好の自分がうまく生徒に溶け込んでいることを祈りながら、古さびた校舎の裏手に回り、その先に設けられた遊歩道を目指した。


 しかし来客用の出入口がある正面とは打って変わって、校舎のこちら側は校内の廊下に面しているからベランダも何もなく、眺めてみたところで味気ない。

 されど窓から校内の様子を見つめていると、やはり在りし日の記憶が幻として立ち上ってくるかのようで、俺は忘れかけていたなつかしさを思い出した。

 一週間前、駅に着いたときや実家に帰ったときには、思ったほどの感慨は湧かないものだなと拍子抜けしていたのに。十代のほとんどを過ごした学校という空間には、それだけ色濃く当時のにおいや残留思念が凝縮されているということだろう。


 ともあれ、母校も二年前から変わっていないようで安心した。そう思いながら、俺は益岡公園内へ至る遊歩道へ入り、白石城を目指した。高校の敷地を出るとすぐに公園内で一番の桜の名所とうたわれる広場に出る。もちろん八月の今は満開の桜を拝めるべくもないのだが、夏休み中の子どもを連れた母親や、観光客とおぼしい老夫婦などの姿がちらほらと見受けられ、広場は穏やかな活気に包まれていた。


「おお。やっぱ天守閣があると違うな……」


 なんて思わず独白しながら、陽光を照り返す真っ白な漆喰しっくいの壁にスマホのカメラを向けてみる。白石城なんて地元の人間は正直見飽きていて、今更珍しくも何ともないのだが、二年ぶりに訪れてみると意外にも視界に映えるものだった。

 仙台の城跡である青葉城址あおばじょうしには天守閣が存在しないから、あれを見たあとだとなおさらそう感じるのかもしれない。


 それから俺は、四百円の見学料を払って天守閣の展望台へ登ったり、土産屋を兼ねた歴史探訪ミュージアムに寄ってみたりと、ひと通り公園内を散策した。

 おかげですっかり汗だくになった体を効きの悪い土産屋の冷房で冷ましながら、たまらず買ったごま風味のソフトクリームを頬張る。そうして座敷型の食事スペースでしばし体を休めつつ、スマホを眺めてじっと考え、やがて決心した。

 実を言うとこの公園内にはもう一ヶ所、二年前の俺が嫌って近づかなくなった場所がある。けれどもついにそこへ行ってみよう、という気になった。


 歩叶を失った傷は本当に癒えたのか、自分に問いかけるために。

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