わたしの悪役令嬢

鐘木リサ

第1話 初夏の午後のこと

花の香りが高くたちのぼる、ある初夏の日の午後のことでした。ハリエット・クラレントンは庭園の東屋でひとり、物思いにふけっていました。


ハリエットは15歳の少女です。豊かなブルネットの髪に青い瞳、赤い唇をした可愛らしいこの少女は、14代続くクラレントン伯爵家のひとり娘です。つい先日、春の学期

を終え、夏の社交界がはじまる前に屋敷に戻ってきていたのでした。


夏の社交界は、夏至の夜の夜会からはじまります。

この夜会を仕切り、会場となる場所を提供するのはクラレントン家の役目でした。彼らの屋敷には、この時期に満開を迎える見事な薔薇園もありましたし、湖の近くにあって、蒸し暑い夜でも涼やかな空気と水音で人々をなごませることもできたからです。


クラレントン家の娘たちは代々、この夜会で社交界にお披露目をすることになっていました。そして今年は、ハリエットのお披露目が予定されていました。


夜会が今夜に差し迫った今日、ハリエットは最後の衣装合わせを終えると、すぐにこの東屋に向かったのでした。

ハリエットの心は、きらびやかな夜会に出席できる喜びでも、今夜のためにこしらえた雪のような夜会服を見にまとう嬉しさでもなく、あるひとりの青年が今夜、夜会を訪れるか、その一点に注がれていました。


それが始まったのは、去年の夏のことでした。避暑で訪れた古城で、ハリエットは彼に出会いました。古城は彼の一族、ボールドウィン伯爵家の持ち物で、この家はクラレントン家とは遠縁にありました。


到着してはじめてお呼ばれしたサンルームでのお茶会のことを、ハリエットはよく覚えていました。特に、天井から降り注ぐやわらかな日差しのもと、ハリエットたちを出迎えた長身の青年、アーサー・ボールドウィンのことを。


お辞儀から顔を上げて、彼を一眼見た途端、ハリエットの心はひとつの大きな海に囚われたようになりました。居心地がよく、どこまでも広く深く、それでいてどこまで行っても抜け出せない海−。


ハリエットは、自分の心がここまで広がってしまったことに驚き、恐れ、それでいてふしぎと−良い風に吹かれたときのような、清々しさのようなものを感じたのでした。そして、もうすっかり、元の心持ちを忘れてしまったのでした。


物思いが増えたのは、それからのことでした。


あの夏から二度、彼と顔を合わせる機会がありましたが、いずれも挨拶を交わしただけで、ハリエットが思うようなやりとりはできていないのでした。


(社交界に出たらもっとお会いできるかしら。今夜の夜会にはいらっしゃるそうだけれど……。)


ハリエットはかすかにため息をつくと、スカートの隠しポケットから一通の手紙を取り出しました。それはボールドウィン家からの夜会への返事でした。


厚手の薄みどり色の紙に、黒々としたインクでなめらかに記された「ぜひご招待にあずかります」という文字を、ハリエットはもう何度指先でなぞったでしょうか

招待状をこっそり持ち出したのはまだ見つかっていないようでしたが、今夜の夜会がはじまる前には戻しておかねばなりません。それまでにもう一度だけ、とハリエットは指先でその文をなぞりました。


思い続けた人に今夜会えるかもしれないと思うと、胸はいやおうなく高鳴り、苦しいほどでした。せめて、この急く心を薔薇の香りで慰めたい−。ハリエットは、東屋の中にも蔓を這わせている一輪を引き寄せると、そっと顔を近づけました。


ふと、足音がしました。

振り返ると、メイドのクレアが銀のサルヴァー(お盆)を掲げて立っていました。


「お手紙でございます」


サルヴァーの上には手紙が一通、置かれていました。ハリエットはそれを見ると、急になにか、ひどく胸騒ぎがして、落ち着かないような気持ちになりました。


それは、普通の手紙ではありませんでした。まず、分量がとても多いようでした。そのためよくある封筒ではなく、正方形の薄い絹に包まれた上から、細いリボンでひとつにまとめられていました。薄い絹は、元々は古いハンカチのようでした。


クレアに促されるまま、ハリエットはリボンを解き−それは存外にきつく結ばれていました−中から分厚い紙の束を取り出しました。束の上には、古い何かの紙の切れ端が乗っており、「我が孫娘へ G・クラレントン」となだらかな美しい字で記されていました。


Gはグレース、ハリエットのおばあさまの名前です。


「大奥さまより言付かっておりました。夏の夜会の前に、お嬢様に差し上げるようにと」 


クレアは、クラレントン家で一番古株のメイドです。おばあさまが娘の時分に雇われた彼女は、おばあさまがもっとも信頼をおいた使用人のひとりでした。


「おばあさまが?」


ハリエットは不思議に思いました。

おばあさまは先月、兼ねてからの病のため天に召され、残されたものの整理などは一通り終わったと聞いていたからです。ハリエットも形見として、おばあさまの使っていた小さなライティング・ビューローと文房具一式、古いけれど上等なレースなどが入った衣装箪笥、真珠の指輪などをいただいたのでした。


「大奥さまは、お手紙のことも、お嬢様にお渡しすることも、他の方々には秘密にするようにと仰せでしたので」


日が東屋に入る頃にはお迎えに参ります、と言い、クレアは下がってしまいました。ハリエットはひとり取り残され、両の手の中に納められた紙の束をしばらく見つめていました。





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