浮気

あべせい

浮気



「あなた、それ何?」

 外から帰ってきた夫の手に、小さなポリ袋が。赤い小さな魚が中で泳いでいる。

「これが鯉に見えるか」

「また、お父さんの病気が始まった」

 ちょうど二階から降りて来た中三の長女が、父親を揶揄する。

「どうしてもっと素直に会話できないかなァ。それでよく学校の先生、やってられるよ」

「ナッちゃん!」

 母の安芸が長女の奈津実をたしなめる。

「奈津実! おまえ、だれにものを言ってるンだ。おれは、父親だゾ。一家の主ダ!」

 父の冬二が顔を真っ赤にして、奈津実に詰め寄る。と、手にしていたポリ袋の金魚が飛び跳ねて、一匹床に落ちた。

「アッ、アオ、大丈夫か」

 冬二は床にしゃがみこむと、跳ねている金魚を手で掬い、やさしくそっとポリ袋に戻した。

「アオ!? この金魚が青なの? お母さん、お父さんの認知が始まっているよ」

「いいの。このひと、変わり者だから」

「そう言っても、赤い金魚に『青』って名前を付けることはないよ」

「おまえが生まれる前、もらってきた猫に『カラス』って名前を付けたひとだから」

「ヘェー、猫にカラスね。犬って付けるよりいいか」

「訳を聞いたら、真っ黒な猫だから、って」

「だったら、熊のほうが強そうでいいのに……」

 と、居間をうろうろしていた冬二が、イライラしながらどなる。

「オイ、この前使っていた水槽、どこにやった?」

「お父さんッ、しっかりしてよ。あれは、粗大ゴミに出したンじゃなかった?」

「そうよ、あなた。水漏れするから、って捨てたのよ」

「そうだったか。何か、ほかにないか」

「ビールの空き缶だったらあるわよ」

「酔っ払ったらどうする」

「それ以上、赤くはならないでしょ」

 すると、

「二人で夫婦漫才しているの。ベランダにあるじゃない。いってきま~す」

 長女はそう言って家を飛び出した。

「ベランダ?」

 冬二は居間を抜けてベランダの窓ガラスを開ける。

「水槽も金魚鉢もないぞ。あるのは、物干し竿だけだ……。安芸ッ! 来てくれ」

「なによ。奈津実がいなくなったら、途端に気安く呼ぶンだから……」

 安芸が化粧の手を休めて、ベランダが見えるところまで近寄る。

「安芸、隅にあるアレは何だ?」

「どれよ?」

 安芸は、ベランダに体を乗り出し、夫が指差しているほうを見た。

 そこには、埃をかぶった、ポリ袋に覆われたダンボール箱がある。

「あれ? あれは、あなたがフリーマーケットで買ってきたものじゃなかった? わたしはまだ一度も中を見ていないけれど……、何なの?」

 そのことばで、冬二の顔に緊張が走る。

「あれは……、そうだ、火鉢だ。昔、お客用に出した、手あぶりと呼ばれた小さな火鉢だ」

 冬二は青空を見て、ある日を思い出す。


 その日、冬二は、自宅からバスで5分ほど離れた広大な公園に出かけた。妻は友人と約束があるらしく、朝からいなかった。

 公園では、区の広報誌にあったように、フリーマーケットが開かれ、好天でもあり、大勢の人であふれていた。

 冬二の目的は、居酒屋で噂を聞いた、ある女性を見つけることだった。

「いい女らしいよ。年は三十半ば……」

「フリマで何を扱っているンだ?」

「だから、旦那が遺した品だよ。月に一回の開催だが、いつも出店しているとは限らないらしい……」

 隣のテーブルから聞こえてきた、これだけの会話に、冬二は心をときめかせた。

 彼には浮気の前科がある。いずれも、後味のよくない、一回こっきりの浮気だが、妻にバレていないことから、いつも機会をうかがっている。

 その女性はすぐに見つかった。フリーマーケットの隅に、畳一枚ほどのレジャーシートを敷き、その前で文庫本を読んでいた。

 冬二は女性と視線が合うようにしゃがんで、シート上の品物を無言で物色した。

 辞典や文学全集などの書籍類がシートの半分以上を占めていて、あとは時計、手帳、財布、喫煙具など、男が使う身の回りの品々が並ぶ。ただ、使い古したものはなく、いずれも真新しい品ばかりだ。商品として売れる物を選んで、並べているように感じられる。

 冬二は、商品から商品に目を転じる間に、ちらちらと女性を観察した。

 確かに美形だ。年は三十二か、三。長袖シャツにジーパンと、身なりは地味だが、軽く後ろで束ねた髪、切れ長の潤んだ瞳、薄く紅を引いた唇から、冬二は身震いするほどの色気を感じとった。

 これが未亡人か。冬二は、亡くなった彼女の夫が羨ましく思った。

「何か、お探しですか?」

 女性は、文庫本を脇に置いて、冬二を見た。

「おもしろい骨董品がないかと……」

 彼女の持ち物ならいざ知らず、知らない男の遺品は買いたくない。

「亡くなった夫が集めていた道具類なら、そちらに少しあります」

 女性は自ら、「未亡人」と明かした。

 彼女が指差すほうに、陶器や軸が数点あり、その中に直径30センチ弱の火鉢があった。

 紺の渦巻き模様が施してあり、それほど重くない。机のそばに置けば、手あぶりに使えるし、置き物にもなる。冬二はそう思って値段を尋ねた。

「夫は一万円で買ったのですが、一度も使っていません。半額ならお譲りできます」

 冬二は、フリーマーケットの品物にしては高いと思ったが、美女の相手ができたと思い、五千円を支払った。

「いつもこちらにお店を出しておられるのですか?」

「月に一度のフリマですが、夫の形見がなくなるまで続けようと思っています」

「お店のお名前は?」

「さより、といいます。これからも、ご贔屓にしてくださいませ」 

 彼女はそう言って、初めて笑顔を見せた。

 冬二は火鉢を手にぶら下げ、満足して自宅に帰った。あの公園に行けば、月に一度、あの未亡人に会える。

 しかし、冬二は自宅でいざ火鉢を使おうとして、はたと気が付いた。

 彼の住まいは、9階建てマンションの7階。炭火を起こすとなると、厄介だ。キャンプ用の炭を買ってきて、ガス火で火をつけなければならない。まして、火鉢の中はきれいに洗ってあり、灰はない。使うとなると、灰から揃える必要がある。

 仕方なく、置き物に使うかと考え、テレビの横に並べた。

 ところが、帰ってきた妻の安芸がそれを見つけるなり、叫ぶように言った。

「なに、ソレッ! わたしは前から言っているでしょ。他人の使った物は嫌いだって。だれが使ったのかわからないものを、わたしの見えるところに置かないで」

 その結果、未亡人の火鉢は、ダンボール箱に入れられ、ベランダの隅に置かれた。

 あれから二年になる。

 冬二はその翌月も、公園のフリーマーケットに行った。しかし、「さより」はいなかった。

 数日後、同じ居酒屋で、再び「さより」の噂を耳にした。

「フリマの未亡人。あれ、未亡人じゃなかった。ただの、いかず後家。男の持ち物を集めてきて、未亡人のふれこみで高く売る。それで、うまい商売をやっていて、こんど店を出すらしい」

 冬二はそれを機に、「さより」を追いかけることをやめた。

 

「さより」で買った火鉢に水を入れ、金魚と一緒に買ったカルキ抜き剤を混ぜ、数時間後に琉金三匹を泳がせた。

 帰ってきた長女の奈津実が、愉快そうに、

「お父さん、いいじゃない。カワイイッ! アオも元気だね」

 安芸も、つられたのか、

「いいわね」

 しかし、

「ちょっと小さくない。これじゃ、酸素が足りなくなってしまう。わたし、ポンプを買ってくる」

 奈津実はそう言うなり飛び出した。

「このマンションはペット禁止だから。奈津実は犬が飼える家に住みたいと言っているンだけど、どう思う?」

 安芸は、金魚の動きを目で追っている夫にそう言った。

 そのとき冬二は、さよりを思い出していた。

 あの若い未亡人はどうしているのだろう。もう一度、会ってみたい。

「いまさらだけど、この金魚、どこで買ったの?」

「金魚屋に決まっているだろう」

「そんなお店、近くにあった?」

「奈津実が行っているだろッ」

 冬二は答えたものの、娘は水槽用ホンプをどこに買いに行ったのか、ふと疑問に思った。

 冬二は、その金魚を、車を10分ほど走らせたホームセンターで買った。自宅周辺で金魚を扱っている店といえば、ホームセンターしかない。

 しかし、奈津実がそこまで行くには、自転車で往復一時間以上かかってしまう。それに、父親の心の中は覗かれたくない。

「そうか。熱帯魚店だわ。あそこなら、あるものね」

 安芸は、妙に納得して、冬二の「金魚屋」を、それ以上追及しなかった。

 ゴルフからの帰途、冬二がホームセンターに寄ったのは、金魚を買うためではない。ドライブレコーダーでも物色するか、という半ば、昼食時までの時間つぶしだった。

 店内をぶらついていると、ペットコーナーで水槽を掃除している若い女性店員を見かけ、立ち止まった。

 若くて、元気がよく、彼好みのマスクをしている。

 冬二はしばらく彼女の動作に見とれるように、その場に立ち尽くした。

「なにか、お探しですか?」

 どれほど時間がたったのか。気が付いた彼女が振り返り、冬二に声をかけた。

「金魚でも、飼おうかなと思って」

 それをきっかけに、冬二は彼女に近寄った。彼女も水槽洗いを中断すると、

「こちらです」

 と言い、金魚の水槽が並ぶ棚に案内した。

「気に入った金魚が見つかりましたら、声をかけてください」

 冬二は彼女の胸の名札をすでに見ていた。

「樫木さん」

 下の名前は「愛美」だったが、読み方もわからないし、いきなり下の名前で呼びかけては、気味悪がられる。

「エッ?」

 行きかけた愛美が振り返った。

「お勧めの金魚があれば教えてください」

 そんなやりとりがあって手に入れた三匹の琉金だった。

「何か、いい名前ないですか?」

「エッ」

「樫木さん、好きな色は何ですか?」

「ブルーが好きです」

「青ですね。青はいい、よし、アオにするか。アオ1アオ2アオ3……」 

 最後は冬二の独り言になった。

 愛美は、ペットコーナーを任せられているが、いつ異動になるかわからないという。入店してまだ数ヶ月。ホームセンターに勤めたのは初めてだった。 

 冬二は彼女の電話番号が知りたかったが、初対面でそこまでは聞き出せない。

 彼女ほどの美形なら、すてきな恋人がいるだろう。冬二がどうこうできる相手ではない。彼には、まだその程度の理性はあるが、好みの若い女性を見つけると、話しかけずにはいられない、困った性癖があった。

 ホームセンターに行けば、また彼女に会える。そこに、娘の奈津実は介在して欲しくない。  

 奈津実が帰ってきたのは、冬二が妻との二人きりの昼食を終えてしばらくたってからだった。

「奈津実、どこまで行ってきたの? お昼は食べてきたの?」

「お父さんが金魚を買ったホームセンターよ。疲れた」

 奈津実は、母が食卓に出したスパゲティを食べる前に、買ってきたポンプを取り出し、ホースを付け金魚鉢に入れた。

「うれしそうね」

 安芸も奈津実につられて、金魚鉢を覗く。

「早く食べろ。ポンプだけなら、近くの熱帯魚屋にあるだろう」

 冬二は、娘が三十分近くも自転車を走らせ、ホームセンターまで行った理由に関心が起きた。

「だって、あのホームセンターはいろんなものが揃っているでしょ。ついでにほかのものも見たかったから」

「そうよね。わたしも、行きたいわ」

 安芸がシンクの前で洗い物をしながら応じる。

「お父さん」

 奈津実が、食卓に身を乗り出し、声を低くして父に呼びかける。

「うン?」

「アユミさん、言ってたよ」

「アユミ!? なんだ?」

「若くてきれいな店員さんよ。苗字は『樫木』さん……」

「愛美」は「あゆみ」と読むのか。冬二はなんでもないようなふりをして、娘を見つめる。

「お父さん、わたしのこと、お忘れになったのかしら、って」

「エッ」

 冬二はハッとした。顔に出たのだろう。

「やっぱりね。いろいろ話をしたのに、お父さんは覚えている風がなかった、って……」

 娘は、キッチンの安芸を盗み見ながら、こっそり話を続ける。

 冬二は中学の教師だ。電車で三駅離れた中学に通勤している。彼女が教え子としても不思議ではない。これまでも、道で「先生!」と声をかけられたことは何度かある。

 担任したクラスの生徒の顔は覚えているはずだ。冬二は23才で教師になり、一貫して国語を教えている。

 妻の安芸も中学の教師をしていた。二人は冬二が二度目の学校で出会った。

 しかし、愛美に記憶はなかった。担任でなければ、忘れていて当然だ。

「おまえ、父さんのことをしゃべったのか?」

 冬二は愛美の情報が欲しくて、娘をなじるように言った。

「だって、『さきほどこちらで琉金3匹を買った父がポンプを買い忘れたンです』と言ったンだもの。そのほうが早いでしょ。そうしたら、ポンプのほかに水槽をいろいろ勧めてくれたよ。いま、在庫整理で、売れ残りを安くしている、って」

「余計なことをしゃべらなかっただろうな」

「樫木さんのほうから言ったンだよ。昔、国語を教えてもらった、って。すてきな先生で、一度コーヒーをご馳走になったことがあるって。本当?」

 待て待てッ。中学教師が教え子の女子生徒とコーヒーを飲んだ!? それを忘れた、ってかッ。冬二は、頭をフル回転させた。

 教師になりたての頃、中三の女子生徒から慕われ、調子にのっていた時期がある。中学校の前にファミレスがあり、帰宅前に早い夕食をとっていたら、四、五人の女子生徒がやってきて、部活の帰りなのだろう、隣のテーブルに腰かけたことがあった。

 冬二はつい、彼女らの部活の名前を尋ね、飲み物とケーキをご馳走した。あのときあのなかに、愛美もいたのだろうか。

「忘れたな。飲んだとしても、二人きりじゃない」

「当たり前でしょ。二十歳そこそこの教師と中三の女子が二人で喫茶店にいたら、やばいよ」

 奈津実はそう言うと、ケラケラと笑った。

「何の話をしているの。お父さんは、昔は生徒に人気があったのよ。特に女子には、ね」

 安芸がシンクからやってきて、奈津実の使った食器を片付ける。

「どうして?」 

 と奈津実。

「やさしかったの。やたら親切で……。でしょ、あなた」

 安芸は、どこまで夫の心を見抜いているのか、じっと冬二の瞳を見つめた。

 写真がある。冬二は、いても立ってもいられなくなり、立ち上がった。

「昼寝してくる」

 すると、奈津実が階段を上る冬二に、

「愛美さんが、またお会いしたい、ってよ」

「奈津実、愛美さんって、どこのひと?」

「お母さん、お父さんって、いまも生徒にモテてんの?」

「もう、ダメダメ……」

 冬二は階段を上りながら、「ダメなものか、いや……」とつぶやいた。


 冬二は、教師として赴任した中学校の卒業アルバムを毎年、大切に保管している。すべてだ。

 十数年ほど前までのアルバムには、卒業する生徒の写真以外に、住所と自宅の電話番号が巻末に記載されている。

 冬二は自室に入ると、クローゼットの奥からダンボール箱をとりだし、厚みの異なるアルバム19冊の背表紙を見た。

 愛美の年齢から考えれば、最初の五、六冊を見ていけばいい。冬二は、懐かしさも手伝い、教師一年目の卒業アルバムから見ることにした。

 最初の中学校には五年間勤務した。いま、その中学に勤務しており、一昨年12年ぶりに戻った。

 毎年クラス担任するわけではない。進学相談が必要な三年生のクラスを初めて受け持ったのは、教師四年目だった。しかし、一年目から三年生にも国語は教えた。だから、記憶にある生徒の顔がアルバムを繰るたびにちらほらと現れる。

 顔写真の下には、その生徒の氏名が記されている。

 「愛美」を探す。姓の「樫木」は、旧姓から変わっていることが考えられるから、無視する。

 と、いたッ!

「愛美」ではない。「沙代李」だ。「さより」と読める。写真の顔に、フリーマーケットで見た女性の面影が濃くある。

 冬二の思いは、「さより」に飛んだ。氏名は「多田沙代李」。

 巻末を開く。3年2組「多田沙代李」のあとに、住所と電話番号が載っている。しかし、教室での記憶はないから、教えたことがないのだろう。これだけの美形だ。記憶に残っていないはずがない……。

「お父さん」

 奈津実がいつの間にか、後ろにいた。

「愛美さん、姓は変わってないよ。これよ。この年に卒業したと言っていたもの」

 奈津実は、内心うろたえている冬二にかまわず、ダンボールから11年前のアルバムを引き出した。

「3年5組……コレ、お父さん、このひとでしょッ!」

 ホームセンターの「愛美」だ。冬二はそう確信したが、彼の心は、「沙代李」に向いている。住所は記載されている。いまもそこにいるという保証はないが、訪ねる意味はある。

「住所はないわ。個人情報保護法が適用されたのね。でも、残念なことはないか。あそこに行けば会えるものね」

 奈津実は冬二を見て、意味ありげにニッと笑った。


 冬二は結婚後新居を持った。生家から車で五分ほどの距離だ。以来転居していない。

 赴任先は、教職についてから三校移ったが、最も遠い中学でも、自宅から私鉄で五駅先。

 沙代李の住まいがある最寄り駅までは三駅。

その中学は初めての赴任で、一昨年12年ぶりに帰ってきて、いま勤務している。

 しかし、沙代李という生徒に記憶はない。美形といっても、女は化粧で変わる。フリーマーケットの女性とは別人という可能性もある。

 多田家の住所まではスマホの地図を使い、迷わず辿りついた。

 多田家は、コの字型に私道を囲む六軒のうちの、中ほどの一軒だった。「多田」と陶製の板に描かれた表札が背の低い門柱にはまっている。

 私道にひとの姿はない。表は、幅6メートルの道路。ここから中学までは徒歩で10分足らず。

 時刻は午後二時過ぎ。日曜の午後なら、在宅している可能性は高い。六軒は同じ時期に建てられた建売住宅なのだろう。壁の色が異なるだけで、外観はほぼ同じ。壁の汚れ具合からみて、築20年以上は経っている。

 冬二は、昨晩訪問の口実を考えた。しかし、うまい口実は浮かばなかった。

 教え子かどうかも不確か、フリマで会ったのは二年前。怪しまれて当然だ。現役の中学教師という立場もある。しかも、この住所は彼の通う中学の校区であり、冬二を見知っている住人は少なくない。

 あきらめよう。冬二は、六軒の建売住宅が見える表通りにしばらく佇んでいたが、郵便配達が来たのを潮に、踝を返した。

 数日後。

 午前の授業を終えた冬二が教員室に戻る途中、後ろから足音がして、

「先生ッ!」

 と、呼び止められた。

 立ち止まり、振り返る。いまの授業の質問だろう。冬二はそう思って、声をかけた女子生徒を見た。

「これ読んでください」

 生徒はそう言って、白い封筒を差し出す。

「なにか、難しい質問かな」

「かもしれません」

 女子生徒は立ち去ろうとしたので、冬二は、

「キミのクラスは?」

「一年三組です。それ、近所のおばさんに頼まれました。失礼します」

 いま教えたクラスは、二年だ。彼女の担任でもない。他人から頼まれて届けたということは……。

 冬二は、不思議な感覚に襲われ、受け取った封筒を見た。封筒には、何も記されていない。封はしっかり糊付けされている。

 冬二は、教員室のデスクの前に腰掛け、白封筒を開いた。

 中に便箋が一枚入っている。

 冬二は、まず文末を見た。

「多田沙代李」

 とある。

「先生、ご無沙汰しております。先日、拙宅近くまでお見えになったとうかがったものですから、懐かしさのあまり、ペンをとらせていただきました。

 わたしは、二年のとき、一年間だけですが、先生から国語を教わっております。

 まことにぶしつけな申し出で恐れ入りますが、明日、お時間をいただけないでしょうか。

もしおいでにならない場合でも、待つつもりでおりますので、ご返事はけっこうでございます」

 以下、待ち合わせ場所が記され、時刻は午後二時を指定している。最後に、電話番号らしき11桁の数字が記されていた。

 冬二の頭はめまぐるしく回転する。

 多田家を訪れたとき、沙代李が自宅から冬二のようすを見ていたのか。或いは、近隣の住人が冬二の姿をとらえ、噂として沙代李の耳に入ったのか。

 いずれにしても、沙代李は冬二の接近を知った。そして、反応した。

 近所に住む中学生に、冬二宛ての手紙を託した。

 いったい、どんな話があるというのだろう。

 明日は祝日で、勤めは休みだ。沙代李はそれを承知で指定してきた。

 相手は教師とはいえ、男だ。それ相応の覚悟はしているだろう。

 冬二は、小川の前で、飛び越えようと思うものの、踏み切る度胸がなかなか出来なかったこどもの頃を思い起こしていた。


「沙代李さんですか?」

「はい。わざわざお電話をいただきまして申し訳ありません」

 この日、冬二は、沙代李が指定した公園に行った。二年前、沙代李がフリーマーケットに出店していた公園だ。

 二年前と同様にフリーマーケットが催されていた。沙代李が指定したのは、フリーマーケットの会場の前にある売店だった。買ったものを飲食できるテーブルがあり、冬二はその一つに腰掛け、待った。

 しかし、半時間待っても現れない。天気は悪くない。急な用事ができたのだろうか。

 冬二は手紙にあった番号に電話を掛けた。しかし、留守電になっていて通じない。

 すると、二十分ほどして彼のスマホに電話がかかった。

 登録番号からではない。掛けた番号からだった。

 沙代李は、詫びを言ってから、

「もう少しで仕事が終わります。駅前の喫茶店でお待ちください」

 と、沙代李は自宅の最寄り駅に近い喫茶店を指定した。

 仕事中らしく、電話の声に周りの雑音が入り、聞きづらかった。なによりも、沙代李は必要なことだけを告げると一方的に電話を切った。

 冬二は車で来ていたため、移動に問題はなかったが、駐車場を探さなければならない。それに駐車料金もばかにならない。しかし、やましさもあり、ゴルフ代と思えばいいと腹を括った。

 時刻が4:30を過ぎた頃、ようやく沙代李が現れた。

 二年ぶり。やつれたようすはなく、電話では感じられなかった、清々しい笑顔を見せた。

 短い挨拶をかわしあった後、

「先生とお会いするのは二年ぶりになります。夫が遺した水鉢を買っていただきました」

 覚えていたのだ。あのとき、沙代李は客が、中学教師であることをすでに知っていた。

 冬二は、目の前の三十女を見つめなおした。生徒という意識はない。一人の熟れた、魅力的な女性としか見えない。胸もヒップも豊かだ。

 卒業写真の面影を探すのが難しい。化粧しているせいだろうが……。冬二は、彼女くらいの年齢の女性となら職場でことばをかわしているが、そこでは味わえない快感を覚えた。

「用件をうかがえますか?」

 冬二は、あらたまったことば遣いを続けた。彼の用心深さがここにきて顔を出した。

「はい。わたし、夫を亡くしたこともあり二年ほど前から、フリマで商売を始めました。各地のフリマに出店するうち、常設のリサイクル店を持つことを勧められ、その方と一緒に始めたのです。それが……」

 とんでもない女だったという。同級生だったため信用したのだが、彼女の背後にいた男がワルだった。ある日出勤すると、店内が空で、商品が全て持ち去られていた。

 さらに、共同経営者と一緒に作ったクレジットカードで、限度額まで現金が引き出されていたことが判明した。

「だまされたのです。借りていた店舗はまだありますが、続ける資金がありません」

 沙代李は冬二に投資をして欲しいと持ちかけた。できれば一緒に経営して欲しいがそこまではお願いできないから、援助していただければ、と言う。

 冬二は妻に内緒の金が、八百万ほどある。これは、親の遺産の一部だ。

 冬二は沙代李の大きな瞳を見つめた。ウソをついている目には見えない。 

 教師を退職したあと、リサイクル店のおやじになるのか。冬二はそんなことを考えながら、返事はしばらく待って欲しいと答えた。

 

「これレンタカーですか?」

「小さいけれど、教師の給料ならこれが精一杯」

 冬二は帰宅途中の愛美をつかまえ、助手席に乗せた。自宅まで送る、と言って。

 ところが、愛美は、ドライブしたいと言い、冬二は車を郊外に向けた。

 時刻は、午後四時を過ぎている。

「時間はいつごろまで平気なンですか?」

「カレ、きょうは遅いですから、午後八時くらいまでなら」

「カレ、って。同棲している?」

「もう三年になります」

 冬二は急に気持ちが萎えていくのを感じる。

 若い女性が、会って二度目の四十男の車に乗るのだ。例え、男の身元がわかっているとはいえ、そうやすやすと誘いに応じるわけがない。

「だったら、帰りましょう、早く。自宅はどちらですか?」

「ドライブできないのですか?」

「こんなところを見られたら……」

「だれも気をつけて見ないですよ」

「ぼくはこれでも教育者です。妻以外の女性と二人きりで車に乗ること自体、責任を問われても仕方ない」

 冬二は、女性に利用されていると感じている。

 沙代李については、その思いは断ち切ることができる。

 愛美に対しては、ごくごく軽い気持ちで誘った。

 金魚用に水槽を買いにきたと言って、彼女のいる売り場に行き、帰り際、

「空いた時間に少しお話しませんか」

 愛美は一瞬、呆気にとられたように冬二を見つめたが、すぐに、勤務を終えるまで待っていて欲しいと答えた。

 冬二は、愛美が告げた自宅の住所にハンドルを切った。ナビにその住所を入力したから、迷うことはない。

「先生、ここで降ろしてください」

 愛美は、ナビが「到着」を告げる前に、停車を命じた。

 自宅を知られたくない用心なのだろうが、冬二にはそういう気持ちは失せていた。

 沙代李には金銭を求められた。愛美には時間つぶしの相手をさせられた。

 元教師でなくても、冬二はその程度の男なのだ。不特定多数の女性からすれば、どこのオジさんかもわからない、どうでもいい男。

 冬二は妻や娘にだけその存在を認められている。彼は、そのことを大切に思うべき理性や知性を失いかけていた。

 彼の妻は、貞淑で、彼には過ぎた伴侶だ。

「先生、また、お会いできますか」

 車から降りた愛美が、助手席の窓から話しかける。

「店に行けば会えるじゃないですか。ぼくはそれで満足。カレによろしく……」

 冬二はそう言うと、一礼して車を発進させた。

 バックミラーに、車を見送っている愛美の姿が映る。

 もう、あのホームセンターには行くまい。もっともっと、いい女が現れるはずだ。危険のない相手を見つけ、楽しみをふやそう。

 冬二は、小川の前で、踏み切れない自分を思い出したが、それが妻に対する愛情だと考え直した。

 自宅に戻ると、真っ先に金魚を見に行った。

三匹の琉金は、人影に反応して水面に出てくる。数日前から、エサをねだるそのしぐさが、冬二を満足させている。

「おれがそばに行って寄ってくるのは、おまえたちだけだ」

「なに言っているの。わたしを忘れないで」

 安芸が冬二の背中に張り付くようにして、夫の背中越しに金魚を見下ろしている。

 おれは、悪い夫だ。冬二はいまさらながら、浮気の機会をうかがっている自分がうとましくなった。

                 (了)

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浮気 あべせい @abesei

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