それはもう、脳天カチ割る程の甘美なのです

神﨑らい

那須とトマトのミートパスタを一つ





 見えそうな影に目を奪われる――。


 ピタリと閉じられたそこは、決して中を見せやしない。穴が空く程見詰めても、期待だけを膨らませる。その限界値を容易に越えることはなかった。

 ウエイターに注文を済ませた私は、窓からの景色でも見る振りをして、目を奪われた窓辺のそれに向け、そっと舌舐りをした。

 程よい弾力、秀でた肉付き。それは不定期に、甘美な仕草で組み換えられる。白く張りのある肌に走る、ぽってりと赤い帯状のうっ血痕がなんとも艶かしい。

 ビルの四階、明るく開放的なガラス張りのカフェ。ホログラムを散らしたように白む店内は、柔らかく幻想的に輝いていた。

 その窓辺の一席。白い円卓には、透き通った氷の浮かぶアイスコーヒーが置かれ、読書に勤しむ女が座っていた。グラスを結露した水滴が幾筋も伝う。女が脚を組み変える度に、柔らかい素材のミニスカートが揺れ、白くもっちりとした太腿の上を流れた。


 私は注文した那須とトマトのミートパスタをフォークでつつき、その腿に魅入っていた。股割れした大根だと思えば笑えてくるし、モッツァレラチーズのようだと思えば艶かしくも感じる。

 私の目には色濃く後者に映る。今にも下腹部に熱が集い、腫れて生温くぬめりそうだ。

 座席の横を別な客人が通過し、はっとして赤いパスタに視線を移す。ぐずぐずに煮えた那須を、怨めしさにフォークで潰し、ソースを絡めたパスタと共に口へ運ぶ。顔を皿に向けたまま目線だけをちらと横に流し、私は窓辺の腿を食い入るように見詰めた。

 手前のパスタなんかより、あちらの方がずっと食欲をそそる。熟れた芳醇を思わせる風情に、一つ、舌舐りをして冷の氷を口に含まえた。

 酷く熱い――私は軽くネクタイを緩めてから、汗で張り付いた背中のシャツをちょいと指で摘まみ、肌から引き剥がす。空調の効いた風が背中を撫で付け、至福の心地好さが廻るようだった。


 耳障りなヒールの音が響いた後「まあ、専務。こちらでお食事でしたか」と、更に忌々しく耳に付いた若い女の声が、頭上から降ってきた。

 一つ小さな息を吐いて顔を上げれば、我社の女性社員が笑顔で私を見下ろしていた。二十半ばの若い女だ。彼女は私を見かける度に、こうして声をかけ纏わり付いてくる。社内ではそこそこの人気を泊しているらしいが、スレンダーな体型も、胸が焼けるような甘い香りも私の好みではない。

「那須のパスタですか、美味しそう。私も同じものにしようかな」

 彼女は断りなく私の向かいに着席し、ウェイターに注文を始めた。上げられた細く骨張った指には、派手に彩った爪が並び、中指に付けられたリングの宝石がキラキラ光を反射させている。

 目障りだ――私は胸中で深く息を吐き、手元のパスタに目線を落とした。右手に握ったフォークで弄べば、冷えてぼてぼてに伸びきったパスタの塊が、重たく持ち上がった。もう食欲は減衰している。こんなものを口へ運ぶ気にはならず、私はフォークを降ろし、代わりに溶けて小さくなった氷の浮かぶ、水入りのグラスを手に取った。それを持ち上げれば、結露した水滴が指を伝い袖を湿らせていく。

 向かいに座った女は、湯気の立つパスタを頬張りながら、一人、ベラベラと赤い口を動かしていた。奇妙だ。酷く奇妙で、不快だった。

「――それで、来週末にそのバーに行くことにしたんです。なので、専務に来ていただけたらなあって話していたんですよ」

 遠い微睡みから女の言葉が耳に届き、私は咳払いを一つしてから彼女に向き直った。煩わしくて堪らない。けれど、建前上そんな態度は取れないだろう。嘆きたい程の焦燥感に胸を焼きながらも、私は静かに、愛想よく声を奏でた。

「こんなご時世だからね、出来れば集まって飲みに行くのは控えて欲しい」

「行くのは三人です。専務も入れて四人。少人数ですし、そのバーも貸し切りみたいなものですから、ご心配になるようなことはないかと――」

 彼女は私の言葉を遮る勢いでそう言って、既に私も行く体で話を進めた。

 煩わしい――耳を塞ぎ、目を閉じてしまいたかった。わずかでも気を紛らわそうと、スラックスのポケットから一枚の硬貨を取り出し、手の中で弄び始める。

 我ながら器用なものだ。マジシャン顔負けにコインを弄ぶ。指の背で転がし、摘み、流れるように操っていく。おしゃべりな赤い口は閉じやしないが、手の中にある硬貨のお陰で幾分か気は紛れた。


 ふと視線を窓辺に移せば、組まれていた脚は解かれ、並んだ膝は妖艶にも紅白に彩られている。女は閉じた本を鞄に仕舞おうとしていた。去ってしまうのか――名残惜しいなと私は眉を潜め、硬貨を指先で弄び続けた。

 女は鞄と伝票を手に、さっと立ち上がって席を離れていった。私はその一点の様子を、逃さず見続けていた。椅子に降れていた腿の後ろは赤くなり、ぼこぼこと座面の跡が残っている。凌ぎきれない蠱惑的な美しさに、私はもう、堪らなく釘付けになっていた。

 アイスクリームや生クリームにイチゴのソースをかけたような――、いや、それよりもずっと美しく甘い。一口で頭痛を起こしそうな甘さだ。

 女が去ると、手に捏ねていた一枚の硬貨を弾く。硬貨は卓上で二度跳ね、テーブルから滑り落ちて床を転がり、窓辺の席、女が立ち去った円卓の下へと転がった。

 上手いものだ――私は素早く席を立ち、寝そべる硬貨の元へと歩み寄る。優雅に円卓に手を着き、気品に溢れた動作で屈み、硬貨へと手を伸ばす。

 私はコインを拾いながら、そっと座席に鼻を寄せ、染み付いた芳醇で濃厚な残り香を、鼻腔一杯に、肺腑が裂ける程に吸い込んだ――。

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