第7話 当たって砕けろ
神殿闘技場の控室の片隅で、マリアは戦装束を身に着け、ベンチに腰掛け項垂れていた。
試合開始前からすでに燃え尽きたような様相のマリアの前に、闘技場を使うための各種事務手続きやら挨拶やらを済ませてやってきたリョウが仁王立ちをし、ため息をつく。
「もうそろそろ試合開始なのに、そんなにしょんぼりしちゃって。なにか嫌なことでもあったのかしら?」
「これからありますわね……」
なにせ戦闘について学び始めてほんの2、3日で、最強の敵である帝王と、練習試合とはいえ戦うことになったのだ。マリアからすれば、可能であれば地の果てまででも逃げ出したいような心境である。
一応自分は女王なのだからというなけなしの矜持と、そこまでするのはさすがに面倒くさいしという怠惰な性質のおかげでどうにか堪えているマリアに対して、こんなことはピンチどころかチャンスとしか思えない最強前向き女王様気質のリョウは、ひとつの共感も持っていない。
「べつにそこまで怖がることもないでしょう。神殿闘技場内での戦闘は、どんな傷を負おうが神の力で即座に回復するらしいじゃない」
「治るけれど痛みを感じないわけではないですし……」
「一時の痛みで済むなら怪我なんてしていないのと同然よ」
「思考が強靭すぎる……」
素で修羅のような返答をしてくるリョウに、マリアはどん引いて己の肩を抱いた。
首を寝違えただけで本気でへこむ彼女にとって、戦いによって受ける怪我などというものは、もはや想像も及ばぬ恐ろしいものだ。
無人島でのモンスター退治は全て一撃で倒せたものの、そんなものは運が良かっただけで、対人戦に慣れた帝王相手に自分の拳が通用するはずがない。ひょっとすると少しは素養があるのかもしれないが、なにせ自分はか弱い素人なのだから。
と、マリアは本気で思っている。
か弱い素人が大型モンスター相手に無傷で連勝できるはずもないのだが、18年間お姫様生活をしていた彼女に、自分はとんでもない素質を秘めたバケモノなのだという自覚が急に目覚めるはずもない。
リョウは再びため息をつき、マリアの頭を両手でがしりと掴んで無理やり顔を上げさせた。
マリアがひょえ、と反射で情けない悲鳴を上げるのにも構わず、リョウは彼女と真っ直ぐに視線を合わせる。
「いい? よく聞きなさい。あなたが自分をどう思っているかなんて関係ないわ。私にとってあなたは、勝利のために不可欠な存在なの」
「し、勝利のために……」
「そうよ。あなたは私が見出した天才。帝王にだってその拳が届くと信じている、大切なチームメイトよ」
リョウに一切の誤魔化しも照れもなくそう言い切られ、マリアは逆に真っ赤になった。
いままで周囲から外見や淑女らしさを褒めそやされることはあったが、ここまでお前は素晴らしい力を持っているのだと断言された経験は、マリアにはない。
無人島で焚火を囲んで語り合った日の会話が頭の中に蘇り、マリアは膝の上でぐっと両手を握り締めた。
先程までは緊張で冷たくなっていた指先が、今はもう驚きと照れと、それからよくわからないくすぐったいような感情でほかほかと温まっている。
腕を引いてひょいと立たされたマリアは、そのまま背中を押されて控室を出た。
廊下を歩いてすぐの大きな両開きの扉の向こうへ出ると、そこはもう闘技場だ。
観客席に少数いる両国の関係者たちの表情も見えないほどにだだっぴろい空間の真ん中には、リングである真っ白で滑らかな円形の石板が敷かれている。
その上はくり抜かれたように天井がなく、晴れた空が見えた。
マリアが入場した数秒後、城内に高く澄んだ鐘の音が響き渡る。
それと同時に正面の扉が開き、エリトラント帝王、ハーゲンがその姿を現した。マリアは早めに入場したが、本来はこの一度目の鐘が選手入場の合図なのだ。
マリアより頭一つ分は高そうなすらりとした長身と、マリア二人分はありそうな肩幅、頑丈そうな太い手足、引き締まった体。黒地に赤で文様が描かれた戦装束。
枯草色の髪を短く切り整えた、噂で聞くよりずっと優しげな顔立ちの帝王に、新米女王はどうにか平静を保って淑女の礼をした。それに対して帝王も礼節に則った返事をする。
石板のリングのそばに立つ神官が、二人に手を差し伸べて指示を出すのを見てから、マリアとハーゲンは同時にリングの上へと昇った。
石板の輪郭をなぞるように白い光が筒状に立ち上り、結界によって二人を外界から完全に隔離する。
先程よりも大きな音で二度目の鐘が鳴り、選手二人に試合の開始を告げた。
奇しくも同じく拳が武器の二人のうち、最初に動いたのはハーゲンだ。
慣れないファイティングポーズのまま固まっているマリアの一歩手前まですたすた気軽に近づいたハーゲンは、少しためらった後、彼女に声をかけた。
「あー、その、マリア女王はあまり対人戦の経験がないと聞く」
「ヘァ!? はい!」
予想外の出来事に、マリアは裏返った声で返事をした。
完全に緊張しきっているうら若き乙女に、ハーゲンはすっかり同情しきり、試合というより本当に訓練でもつけにきたような気分になっている。
なので彼は両腕を顔の前に構え、そこからちらりと顔を出してマリアに優しい視線を向けた。
「マリア女王、まあ、そう緊張せず、最初にここへ一発入れてみるといい。慣れれば緊張も解れるさ」
「おあ、あああの、恐縮ですわ。そ、それではお言葉に甘えて……」
完全に同情されていることを察したマリアは、情けなくもありがたいという気持ちで一度頭を下げ、それから大きく深呼吸をした。
相手は試合相手に情けをかけてくれるくらいに大人で、圧倒的な強者。もとより自分に勝ち目などないのだ。
人と殴り合いをする経験などひとつもないマリアではあるが、ここ二日ほどで生き物を殴る経験ならいやというほど積まされた。
なんだか申し訳ないなあという気持ちは捨てきれないものの、彼女はビビリなりに腹をくくり、拳を構える。
すっと息を吸い、留め、えいっという掛け声とともに、マリアはハーゲンの籠手を殴りつけた。
可憐な容姿と気の抜けるような声とは裏腹に、完璧なフォームで放たれた拳は鋭く空気を裂き、金属同士のぶつかる轟音を立てる。
ハーゲンはマリアに攻撃された瞬間、それまでほぼ気を抜いていたと言っても過言ではなかった全身に力を籠めなおし、技術を総動員して腕から腰へ、足へ、そして床へと衝撃を受け流した。
無敗の帝王と謳われる人間が、本気で防御せざるを得ないと判断するほどの一撃だったのだ。
あまりにも静かで洗練された動きだったために、ハーゲンがどれほど集中してマリアの攻撃を受けたのかは、観客席で見ていた両国の高官や戦士の中でも理解できた者は少ない。マリアはド素人なので当然理解できていない。
ハーゲンは押し黙り、これでよかったのかなあと困惑顔をしているマリアをじっと見た。
帝王ハーゲンはお人好しである。
他人に同情しやすく、自己肯定感が低く、帝王という地位は自分にはまったく似合っていないと常にコンプレックスを抱えている。
しかし彼はこれまでに数々の強者を叩きのめしてきた、生粋の戦士だ。
か弱い乙女としか思っていなかった女王がとてつもない素質を秘めているのだと理解した瞬間、彼の目が、戦士のそれへと変わった。
「参る」
空気がずしりと重くなるような低い声と同時に、ハーゲンは雷撃のような速度で一歩を踏み出した。
真っ直ぐ自分へ向けて叩き込まれた正拳を、気を抜いていたマリアが避けられたのは、まったくの偶然だ。
びりびりと空気が震えるようなハーゲンの闘気にあてられて、反射的に後ろへ飛び退ったマリアは、そのまま脱兎のごとくリングの上を走り出した。
一切の躊躇もなく全速力で逃げに回ったのである。
「おわあああ!?」
追ってくるハーゲンから放たれるプレッシャーに、マリアは無意識に悲鳴を上げた。めちゃくちゃビビッたからだ。
無人島で戦ったモンスター達が可愛いネコチャンに思えるほどに、スイッチの入ったハーゲンの気迫と鋭い攻撃は、それはもう本当に怖かったのである。
ひやりとするような寒気を感じて咄嗟に頭を下げれば、その上を首くらい簡単に引き裂けそうな勢いの蹴りが通り過ぎていく。
背後の足音がほんの少しずれたのを感じて右に跳べば、一瞬前までの進行方向だった左横に拳が叩き込まれる。
一切気の抜けない本物の危機感というものを、マリアは生まれて初めてここで学んだ。
怪我が治るというこの特殊な闘技場の仕様を理解したうえで、それでも一発でも食らえば本当に死ぬのではないかと思えてしまうほど、ハーゲンの攻撃は容赦がない。
走って、避けて、何回目かの拳が頬をかすって、その衝撃波だけで頭がぐらぐらするほどのダメージを受けたマリアは、方向転換も忘れて真っ直ぐ全力で走った先のリングの端で、ぴたりと足を止めた。
闘技場入口の扉のそばに立っていたリョウと、目が合ったからだ。
慣れない回避と防御に疲れ切っていたマリアの頭に、無人島での最初の戦いの記憶がフラッシュバックした。
逃げられない。
あの時の絶望的な感情にも似た思いが、彼女の体を無意識に反転させていた。
真っ直ぐ向かってくる強敵。
逃げ場のない背後の断崖。
怖くて苦しくて、それでもなぜか、どこか静かな気持ちになって。
こういうときのマリアは、自分でも驚くほどに覚悟が決まる。
大きく息を吸ったマリアは足を広げ、重心を低く保ち、向かってくるハーゲンと同じタイミングで腕を引く。
そして鋭く呼気を吐きながら、体全体を使って拳を振り抜いた。
パワータイプ同士の一撃が真正面からぶつかり合い、リングを囲む結界の中で、轟音と衝撃波が荒れ狂う。
お互いの体を包む高濃度の魔力が衝突し、リングの上を閃光が明るく照らした。
その光が消えた後、吹き飛んだお互いの籠手の一部がぱらぱらと落ちる中で、立っていたのは帝王だけだった。
マリアは帝王の拳を真正面から受けたショックで失神し、きゅう、とお手本のような情けない声を上げ、ぺしゃりと倒れていたのだ。
「勝者、ハーゲン!」
審判である神官の宣言の後、観客席からどっと歓声が上がる。
ほとんどは勝者を讃えるものだが、中には少ないながらもマリアへ向けられたものもあった。まだ訓練を始めて間もない彼女の健闘を称えるものだ。
その声を聞きながら、ハーゲンはマリアを注意深く抱き起こし、リングに近寄ってきたリョウへと渡す。
マリアを雑な俵抱きにするリョウに、ハーゲンは周囲の歓声が全く聞こえていないらしい落ち着いた表情で話しかけた。
「彼女に……、彼女が起きたら、伝えてほしいことがある」
「あら、なにかしら」
戦士としての覇気を纏った常勝無敗の帝王に、リョウはいつも通りの尊大な態度を崩さない。
そんな彼女を気にすることなく、ハーゲンは真剣な表情でマリアを見つめていた。
「待っていると。次は本気で戦おうと、伝えてくれ」
マリアへ向けるハーゲンの視線に、すでに同情はひとつも含まれていない。
いつか必ず自分を脅かす存在となる相手への敵意と、敬意と、そして期待が、その瞳には宿っていた。
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