第3話 死兆の翳り〈後編 星、暁に焼け落ちる〉
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その日、夕刊の一面は新会長就任の話題で賑わっていた。新たな会長は年若く、端正な顔立ちで話題性は充分だった。一紙のほとんどが協会関連の記事で埋まりかねない程である。何カ月もの間、会長の席が空いていたために、無理もないことだった。ノイマン会長の死が残した
新会長、アンゼルク・ルドウィンが、黒い噂を跳ね除けて、颯爽と会長へ就任したことによって、世間は歓迎ムードに包まれた、というのが各新聞社の見解である。
カイムは読み終わった二紙目の新聞を低卓に置くと、革張りのソファ横に置いた大型ラックから、新たな新聞を取り出す。
新聞では、にこやかな表情で新会長が写真に写っている。癖のある栗色の髪を、遊ばせたままにしているため、それが童顔に拍車をかけており、学生の入学記念写真を見ているかのようだ。
ソファと向かい合う大型テレビには、昼間に行われた会見が繰り返し放送されていた。いい加減、話題が尽きてしまい、同じ情報ばかりを、何度もアナウンサーは伝えていた。
カイムは仕事が終わると、居間のソファで新聞を読みながら、テレビで録り貯めたニュースを見るのが日課である。
カイムは以前からアンゼルクを知っている。協会幹部の一人であり、人柄は温厚で人望もあり、風貌からか女性から特に支持が厚かった。手腕もなかなかに優れており、次期会長候補の一人であった。
しかし、何故就任にこれだけの時間がかかったのだろうか、とカイムは思う。候補と目されていた者はそう多くはなく、なによりもアンゼルクと次候補の間にある支持率に、雲泥の差があった。それは、部外者のカイムにも一目瞭然であるほどに、人気の格差が目に見えていたのだ。
アンゼルクはパフォーマンスの上手い男だ。人心を掴み、掌握する力を強く感じさせる。
カイムは読んでいる新聞を途中で放り出すと、ソファに寝転がった。マツダが小さく咳払いをしたが、カイムは構うことなく目を瞑る。居間の一画にあるテーブルで、マツダは夜食を整えていた。
ステルスハウンドの館内一画にあるカイムの私室である。部屋は、暗緑色をした絨毯を敷き詰めた床に、生成色の壁紙という落ち着いた色調でまとめられている。昔、ノヴェクの一族が住居していた頃とほとんど変化がなかった。
マツダはわざとなのか、低卓の新聞を大げさに振りながら畳み始めた。
「カイム様、お食事の用意が出来ましたよ」
「少し仮眠させてくれ。メールの返信がまだ終わっていなくて、これから取りかからなければならないんだ」
「最近きちんとお休みなさっていますか。お食事もろくに取っておられないようで」
「ヘルレアの件で立て込んでいた分、色々と仕事が後回しになっていたんだ。これ以上溜め込めば、双生児と関係なく能力不足でクビが飛ぶ。それでは、笑うに笑えないだろう。三十分後に起こしてくれ」
マツダはテレビを消して、部屋の照明を落としてから、毛布を持ってきてカイムにかけた。それから、目を瞑っていると幾らも経たずにマツダが起こしに来た――何の空白もカイムは感じられなかった。そんな気がした。
眠り足りない気もするが、少しだけすっきりとした頭で起き上がると、低卓に置いていた電子端末を取り、エマへメールを書く。既に深夜過ぎであり、通話は控えたのだ。本の発送についての進捗状況を尋ねる文言を送信した。
カイムはPCへ転送しておいたメールに、返信をするため書斎へ行く。
書斎は歴代の主人が使用していただけあり、かなりの面積を割り当てられていて、建具の本棚が壁を覆い尽くしている。更に本棚を追加したものだから、ちょっとした図書館の様相を呈している。しかし、過去の住人が所有していた本も残っている上に、更にカイムが後から本を搬入したため、本棚に収まり切らない本が数多くある。
カイムは隅に置かれた机に着き、PCで返信を書き始める。
机はカイムが持ち込んだもので、ごく簡素な無垢木の机であった。書斎で本以外に、唯一カイムが外から持ち込んだ家具が、この机であった。カイムが入居した時、書斎でありながら机が置かれていなかったのだ。執務室の机は書斎から持ち出されたもののようだった。
書斎は静まり返り、カイムがキーボードを打つ調子の速い音だけが響いている。
一刻過ぎてようやくメールの返信が終わり、乾いた目を瞬く。つい目を擦りながら立ち上がり、本棚が林立する場所へ行くと、棚に埋もれるようにして、長椅子が一つ置いてある。猫足の長椅子は濃紺に染色された絹張りで、毛布が無雑作に投げかけられていた。カイムが仮眠用にと倉庫から引っ張り出してきたものだが、最近は主な寝床になっていた。
長椅子の傍には小さな卓があり、デジタル時計と、水差しにコップが添えられて置いてある。マツダは水差しへ、常に新鮮な水を入れて置いてくれた。
ヘルレアへの接触が実を結ばなかった今、カイムの手は少しだけ空いてしまった。マツダには色々と急いでいるように言ったものの、本当はそれ程急ぐような仕事ではなかった。メールの返信は仕事に付随するような、浅い個人的な付き合いのものでしかなく、礼儀以上の意味はないのだし、カイムに取ってもそれ程重要な物事には思えなかったからだ――かなり失礼な男であるかもしれないが。
カイムという人間はヨルムンガンドと戦う為だけの存在なのだと、身体に染み付いているのだろう。正直、仕事と言われると、それしか頭に浮かばないからだ。
ステルスハウンドは、本来、会社として運営される組織ではない。それがただ、社会に組み込まれないと不都合があった為に、今の会社としての在り方が生じたに過ぎない――それはしかも、設定として。
所詮、カイム自身に取っても代表という役職は、大義を行うための、お飾りの設定だ。彼が真に必要とされているのは、代表として力を振るう事ではない。むしろ、権はカイムへ幾重にも禁を課し、自由を奪う。
――全ては猟犬の主人として、在る為に。
カイムは長椅子へ横になると、うとうととし始めた。
ヘルレアの顔が思い出される。氷の彫像であるかのようなその容貌は、畏怖を呼び覚ますと同時に嫌悪を感じさせる。後者はおそらくカイムの私情であろう。普通ならば、その美しさに目を奪われる。この世で最も美しいと言われる“向こう側の女達”、その子供だというのならば、納得もできるであろう。しかし、“女達”を実際に見たという者達は皆無だ。歴史を紐解けばおそらく接触した者もあろうが、現在に置いては存在しないと断言できる――はず。
気息は穏やかなものになって、カイムの瞼は重く落ちて来る。
青く灯る瞳が、薄暗がりで細められる。その記憶はあまりにも鮮やかで、カイムに残滓を刻み続けていた。
問いたかった事がある。でも、言える筈もなかった。
「……これは、罪滅しなのかい?」呟いた言葉に、当たり前に応える者など、今は無くて、それは虚しく彼の口元で消え行く。
全てが人間の招いた罪科ならば、幾らか救われるものであろう。この永遠に等しい戦いに、意味など無いというのなら、カイムはどうすればいいのかと、何度も自問自答してしまうのだ。
そうした生き方を、選ばざるおえなかった。だから――。
電子端末が、ヴァイブレーションで着信を報せる。振動音は、静まり返った部屋に、大きく響き渡った。カイムは反射に近い速度で画面を見ると、
『西アルケニアと東占領区が、戦争状態に突入。オルスタッド等入国の可能性、大』
たったそれだけの文面が、目に飛び込んできた。カイムの眠気は一瞬にして吹き飛び、まろび出るように書斎を後にした。
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