第23話 家

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 荒れた室内に、襤褸ぼろになった獣が朽ちている。ヘルレアはさっさと廊下へ出てしまい、ジェイドもそれを追いかけた。


 ジェイドが指示をしたはずなのに、部屋付近の廊下でオリヴァンは体育座りをして、女の傷を布で圧えていた。布は鮮血を吸いきって真っ赤に染まり、血を滴らせていた。


「撃たれたような痕だった」


「女は、もうだ……あの化物、石を弾いて攻撃したんだ。無駄になバケモノだったな」


「外道か?」


「そうだろう……攻めて来たにしては、なんとも末端から襲ってきたものだ。相変わらず、それ以外、今は侵入の手が無いのか」


 カイムの気配が近付いて来る。



【――ジェイド、落ち着いたようだな】



 ――女王蜂はなんと?



【――何も感知していらっしゃらない】



 ――危険だな。攻めて来られても、向かい打つ態勢を取れない。他の部屋でも同じ事が起こっている可能性が高い。



 女が呻いて、ジェイドは目を引き付けられた。何かを喋っているようで、ヘルレアも視線を落としていた。


 ジェイドには女が何を言っているのか聞き取れなかった。酷く苦しそうに呻いているが、何かを懸命に訴えているように感じられる。


 ジェイドはジャケットを脱いで、半裸の女へ着せかけた。もう女にしてやれることは無いのだと、ヘルレアは言い切っていた。自然、オリヴァンも女への救命処置を止めて、手を離すと、当たり前かのように、ジェイドのジャケットで手を拭いていた。


 娼館という場所で出会った女が、辿って来た道が、過酷でないわけは無いだろう、と、ジェイドは思わずにはいられない。最期がこれとは無惨に過ぎよう。ほとんど裸で床に寝かされ、血まみれで生涯を閉じていく。側に人が居ようと、見知らぬ他人に囲まれることに、何の意味があろうか。


 この場所は、惨事が起こり危険性が高まっている。今の状況だと、動くのは危険という判断はもう当てはまらない。直に動き出すべきであり、次なる対処を考えなくてはならない。


 しかし、この死に際へ立たされた女を、独り残していかなければならなくなる。わざわざ女を抱えていこうとするのは、あまりに無意味で、そして動かそうとすれば、苦しめるだけだろう。


 ――孤独に死なせるのが最善なのか。


 ジェイドはヘルレアが取りかねない行動を思う。


 それは正しいのか。ジェイドには判断出来なかった。


 すると、ジェイドの隣に居たヘルレアが、すっと、離れて女の側へ行き、膝を突き腰を下ろす。


 ジェイドは、ヘルレアが何をしようとしているのかと、考える間も必要としなかった。死を下そうとしているのだと当たり前に察し、どうするべきかも考えずに、身体を動かそうとした。


「……おかえりなさい」


 ジェイドは穏やかなその言葉に目を見張った。ヘルレアの口から漏れた言葉が、いったい誰の声音か判らなかった。いつもの男女区別つかず、そしてどこか子供のような澄んだ声ではなかった。普段より更に複雑で、何重にも音が重なるような、いっそ厳かに歌われる、幾人も声を乗せた賛美歌にすら聴こえる声音だった。


 ヘルレアは赤子を抱き上げるよりも軽い所作で、女の横から上体を持ち上げて、腕で頭を支える。王は身体を丸めて女と向き合った。


「お母さんは、あなたが帰って来てとても嬉しい」


 ジェイドは混乱していた。だが、言っている内容は母の会話なのに、主人の――カイムの男性的な声音に聞こえ始めた。言葉遣いと内容は堅いし、不自然なところもかなり多いが、主人の声で、誰もがイメージ出来る母親像を演じていた。


 その姿は今、少年のようだというのに――。


 女は何を言っているのか判らなかったが、その手を懸命に動かしヘルレアを求め始めた。ヘルレアは未だ血肉に汚れる、女よりも小さな手を差し伸べて握る。


 それは、血と汚穢おわいに満ちた、年齢も性別も超えた聖母子像だった。


 二人は手を握り合い、そしてヘルレアは優しく抱いた腕で揺籃ようらんのようにあやした。


「何もできなくて、ごめんなさい。あなたばかりに苦労させてしまって」


「お、かあさ……」


 もう女は、力を使い切ってしまっていたようなのに、ジェイドにまで聞こえるような言葉を発した。


 女にはいったいどう見えているのか。それとも、もうあまり見えていないのか――。


 見えているとしたら、先程、悪魔と罵った小さなヘルレアへと手を伸ばすさまは、あまりにも矛盾していて奇妙だった。


 だが、そのありようは、あまりにも無垢で美しい。これほどまでに、本質を純粋に見い出せる母子の姿ならば、穢れなどに犯されはしないのだと、そう気付く。


「さあ、もういいの。おやすみなさい……」


 ジェイドは気付いてしまった。だが、動けなかった。動くべきか判らなかった。


 ヘルレアは握っていた女の手を離すと、彼女の胸辺り――心臓――に一触れする。何の抵抗もなく彼女の身体は力を失くし、不思議と自然に瞼が落ちた。ヘルレアはそっと女の身体を手放すと、その手はもう何も恋う事はしなかった。その死を施す所作は、何の衝撃も感じさせず、人間程度には理解の難しい力が働いたように窺える。本当に眠るようだった。


 ――死の王。


 それも残酷な死をもたらすのでは無く、安らかな最期を約束してくれる、慈悲深き死の具現。


 ジェイドには伝わって来ていた。カイムの心が微かに乱れている。主人も別の誰かの声を、ヘルレアに聴いていたのだと、感じていた。


 そして何よりも、ジェイドの意識を拒絶していたのだ――。


 主人にはあの声が、誰の声に聞こえていたのかと考える。誰にも知られたくない。それは自分の猟犬へさえも、秘していたい相手。


 そうしてジェイドも、これ程までに世界蛇が直接的な慈悲を施す姿を、見たくはなかった。身勝手な落胆と、苦悩。怒りや嫌悪の行き場を失くし、ヘルレアへと、人が乞い続けた真なる神の姿を見る。


 ――何度も感じていた。見ていた。だから、もう解っていたはずなのに。


 ――未だ、真実、受け入れるのが苦しくて。


 虐待し踏み躙る姿を見る方が、どれほども傷付かないだろう。獣を狂喜して虐待するさまは、いかにジェイドへ不安を駆り立てても、痛みをもたらさない。


 ヘルレアが人を虐げるならば、ジェイドは牙を剥いて襲いかかればいい。憤怒と、怨嗟で狂い、もう戻って来られなくても構わない。


 しかし今、この王を誰が責められようものか。


 ヘルレアは世界蛇として普通では無い。人倫に狂い、本能を失いかけ、己の命すら意志によって行く道を定めた。 


 これが殺戮と暴虐を繰り返す、ヨルムンガンドだといえるのだろうか。


 ――まるで、表裏のようだ。


 ヘルレイアとアレクシエル。けして交わる事の無い光と闇。何故そこまで相反する者が生まれ得るのか。脆弱な人間が、どれ程の行いをすれば、神のあり方を捻じ曲げられるという。


 廊下は静謐せいひつさに包まれていた。


 ジェイドはヘルレアの不思議な声を何度も反芻して、王を見つめていた。世界蛇は自然に、その人間へとって好もしい存在に、自身を錯覚させる事が出来るという。だとしたら、先程の声はヘルレアが意識的に人間へと働きかけて、幸福な幻を施した。


 この能力に接するのは初めてだろう。


 ジェイドは猟犬だ。その幻がカイムの声である事は何ら不自然ではないし、受け入れるのに辛さも何も感じるものではない。だが、人間にとっては幸福だけで済むとは限らない。だから――。


 姿の掴めない、薄ぼけた霧のような不安が心に満ちた。


 ヘルレアが何気なく、膝の埃を払いながら立ち上がり、自分のジャケットで手を拭っている。珍しく疲れたような息をついて、ジェイドを見上げて来る。


「結構、クサかったけど、人間はあれがいいんだろう?」


「判らない」


「家って、そんなにまで帰りたい場所なのか?」


「女がそう言っていたのか?」


「ああ、ずっと言っていたよ――お家に帰りたいってな。お母さんに会いたい、か」


「家、か……さあ、な。俺は館ではなく、カイムの元へ帰るものだから、厳密には判らない」


 ヘルレアは吹き出して笑うと、何やら止まらないらしくて、いとけない可愛らしい表情で笑い声を上げていた。先程の母親のような雰囲気はまるでなくて別人のようだった。


「猟犬って、どうしようもないファザコンだよな」


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