第5話 一つの生きた言葉を

6



 夜を迎えようとしている山林には激しく雨が降っていた。雨筋さえ朧気にする程降りしきっていた。雨は風が吹く度に、斜めに打ち付けて、その雨脚を強くした。霞む杉林の枝葉は、叩き付けられて騒ぎ立っている。


 雨の強さが闇をより深くしていた。


 山頂にはあまりにも広大な館――いっそ城と言った方が正確な――建物がある。


 その古式の館は左右対称に建造されていて、石造りの堅牢さが顕著だ。それはアメリア国にはない建築様式で、西方の建造物をそのまま移築したものだった。艶消しの黒い屋根に濃緑の外壁が杉林へ溶け入るよう。


 そこはアメリアにある企業の中で、最古参の一つとして数えられる民間軍事会社“泰西たいせい民間軍事保障”、その本拠地だった。


 しかし、異称の方に馴染み深い者たちが少なからずいる。


 ――“ステルスハウンド”。


 それは闇に紛れ生きる、猟犬達のねぐらだった。


 しかし、夜であっても館のどこの窓からも光が漏れ出る様子がなく、山奥で唯一人が生活している場所だというのに、人の気配は全くと言っていい程なかった。それというのも、館の住民はあらゆる気配を発するのを嫌い、また覚られるのを嫌った。“ステルスハウンド”と名乗るのも誇大な表現ではない存在だろう。


 その館の執務室にはカイムとヘルレア、ジェイドとチェスカル、その四人が集まっていた。


 カイムがデスクチェアに深く身をもたせ掛ける。眉間に皺を寄せ、解くを繰り返してみたが一向に疲れが取れる様子がなかった。それというのも、ヘルレアがあまりにも近くに居るからだろう。どこに――死――その物と同居したい者がいる。今だ身体が逃げようと、逃げようと焦っている感覚がある。ヘルレアが側に居て心休まる人間がいたら知りたいくらいだった。


 幸いな事にヘルレアは猟犬の棲家に留まってくれている。カイムが窓を見ると外では嵐が吹き荒れていた。案外にもヘルレアを拒める存在があるらしい――希望的観測にしか過ぎないのだが。


 これから二人っ切りになれる様に事を運び、より踏み込んだ話をしなければならない。しかも、それは友好的で親交を深められるような。


 ヘルレアはジェイドの市街戦用ジャケットを、ワンピースの様に着て、床に腹這いになって雑誌を弄んでいる。雑誌を最期まで一気にめくると、直ぐに新しい雑誌を持ち出し、また一気に捲るを繰り返していた。


 チェスカルが書類をまとめながらジェイドと話している。


 カイムは気を入れてヘルレアを見た。


「ヘルレアのお住まいは」


「点々とホテル住まいだ。それは昔から変わらない。お前達はこの館に住んでいるのか」ヘルレアが、ジェイドとチェスカルを見た。


「そうだ、影の猟犬ゴーストハウンドの隊員は皆、館に住居がある。カイムは元より、俺とチェスカルも当然、住まいは館だ。ところで王は数年前まで住まいはどうしてた。まだライブラの保護下に居たのか? 年が十幾つの今でも、住まいの確保等は苦労するだろうに」


「忘れたのか、私はライブラだ。協会がライセンスを発行しているから、それを見せれば宿泊可能だ。当然、奇異に思われるが」


「確かにライブラの身分保障信頼度は高いと聞く。それはそうか、保安維持として派遣される連中だ。信頼関係がなければどうにもならん。だから、国家間を跨いでも有効な特級ライセンスとして発行されているとも知られているな。各種特権もあるとか」


 カイムは小さく肩を落とす。話がずれて行く。何とかヘルレアに館へ滞在させなければならない。でなければ、せっかく出来た繋がりがなくなってしまう。しかし、ヘルレアがステルスハウンドを本気で去ろうと思ったら、引き止められる人間など居ないのだが。


「私にはあまり特権の意味はないな。特権と言うなら余程ホテル暮らしが出来る方が特権だ。それでも所詮、雨がしのげればいい程度だし、寝床の良さなんて申し訳程度でかまわない。それと、ついでに言うなら浮浪児に間違えられたら面倒なんだ」


 チェスカルが珍しく仄かに笑う。ヘルレアが半眼で口端を上げると、チェスカルは白々しく咳払いをした。


「王が浮浪児に間違えられるだなんて、以外だな、と」


「まあ、色々なヤツがいるものだ。通報されるのはまだしも、複数に襲われた場合、相手をするのが面倒なんだ。一々殺すわけにもいかないし、軽くあしらってやるにも手加減に骨が折れる」


「手加減された身としてはクソくらえだが、あの後何事もなく動けたのは、癪だが見事だった。お前は厄介ごとにまみれているな」


「そんなのお前達が一番判っているだろう……相変わらず雨が酷い。山を下りるのが面倒だ。服もこんな状態だし」


「ならばこの館に滞在なさってはどうですか。僕は一向に構いませんよ。むしろずっと居てください」


「どうせそれが言いたかったんだろ。先程から焦れているのがバレバレだ。文句でも反芻してたか。もう少し隠せる様にならないと、女も誘えないぞ」


「女性を誘う予定はないのでご心配なく。直ぐに部屋を用意させますからお待ち下さい」


「開き直った上に、ごり押しとは。お前達も気付いていただろう。もう少し何とかならないのか、こいつ」


「俺がもう少し女に慣れさせておけば」ジェイドが芝居臭く首を振る。


「まあ多分、無理だろ。色々と」


 好き勝手に言っている二人を無視して、カイムは内線でマツダに用向きを伝えた。


「さて、俺は休ませて貰うかな。チェスカル、ヘルレア関係の警備については任せた」ジェイドが伸びをして大欠伸あくびをすると、チェスカルの背中を叩いた。


 ジェイドは、カイムの側へ歩み寄ると、耳元でささやく。


「カイム、上手くやれよ」


 何が、とは答えまい。


 ジェイドはカイムの肩を叩くと、執務室から去った。チェスカルも慌ててその背中を追う。


 扉が閉まりカイムとヘルレアは二人切りになった。部屋は冷え冷えとする程静かだった。ヘルレアも黙りこくっている。気配が厚く重い。それは生物の本能なのだろう、戦闘を行わないカイムにも分かる。二人っ切りになったからか、余計に真に迫るものがある。


 しかし、王と始めて出会ったあの日とはどこか違う感触がする。拒絶されるでも呑まれるでもない、どこか自然な気配だ。それは多分ヘルレアが、カイムの存在を容認しているからだろう。同じ空間に居てもいい、対峙するものではないと。


 カイムは机を離れると、寝そべっているヘルレアの側に行き膝を付いた。王は、そんなカイムを見て首を傾げると口を開こうとするが、カイムは敢えて先に言葉を重ねた。


「……王、ありがとうございました」


 ヘルレアは眼を見張っている。その瞳は雲から空を透かすような、白味を帯びた青色をしていた。


 ヘルレアは身体を起こす。


「このお礼はステルスハウンドの総意です。あなたは多くの者を救って下さいました。そして、ゆるして下さった――道を与え、希望を示して帰って来て下さったのです」


「沢山の人間なんて救ってない。何とかしてやれたのはジェイドとオルスタッドだけだ。現にこれから大勢の人間が死んで行く。堕綺羅はどうにもならない」


「いいえ、救ったのは今ある命だけではありません。例え、今救えなくても、この先を生きる人々を救う道を確かに示して下さいました」


「お前にはつながりが見えるのか。まるで“向こう側の女達”のようだな」


「王が居ればこれからも見えます」


「私は何も救わないし、何も赦さない。だから礼などいらない」


 カイムはうつむく。


「ならば、僕個人のお礼なら受け取って頂けますか」


「受け取るかどうかは分からないが、聞いてもいい」


「ジェイドとオルスタッドを助けて下さりありがとうございました。二人は僕の友人です。多くの仲間が過ぎ去って行くなかで、彼等は残ってくれたかけがえのない仲間なのです。王に、最大限の感謝を」握り締めた拳は震えていた。


 只々ただただ、胸の奥が熱いのに、それでいて心は静かだった。俯いたまま閉ざす瞼は重く、ともすれば潤みそうな瞳を隠していた。


 ヘルレアがカイムのおとがいをすくい上げて、向き合う様に促した。


「あの時のこと気にしているのか。馬鹿な奴」瞳は淡く灯り、伏し目がちに微笑んだ。


「ジェイドにもよく言われます」


「知ってる」


「聞いたのですか」


「聞かずとも分かるさ」


「考えました。王がいらっしゃらない間に。僕達が王に出来る事といえば、死を回避する為の手助けだけです。しかし、それはヘルレアに生への執着がなければ何の意味もない手札にしか過ぎません。これは僕等に取って唯一の出し得るカードなのです。もう、僕等には王を引き留める術はありません」


「なんだ、もう音を上げたのか。根性が無いにも程が……」


「――王に永眠の地はありますか」


 ヘルレアは目をしばたたく。


「死に場所はあるか、だと?」


「そうです。最期に行き着く場所。終の住処。王にはありますか」


「そんな場所があるわけないだろう。家を持ったこともないんだ」


棲家うちに来ませんか」


「馬鹿な……」


 ヘルレアは明らかにあ然としていた。


 瞳は碧。その仄かな灯りが蠟燭の様に揺れる。


 ヘルレアは瞳を隠すように目を瞑ると、次にはいつもの青い瞳がカイムを見つめていた。


「返答を急ぐつもりはありません。王のご意向のままに」


 ヘルレアは立ち上がると背を向けてしまった。カイムは王の背中を見ていられず、窓辺へ寄って外を見やる。


 カイムには王の気配が変化した様子は分からない。ただそこに変わらず居て、カイムを竦ませる。


 怒りはない。ヘルレアは純粋に驚いていた。本来なら不興を買って殺されていても、おかしくはなかったのだ。


 それでも、どこかカイムは命を賭してもいいと感じていた。


 ――ヘルレアならば、と。


 会ってまだ数日間にしか過ぎないものを、そのに掛けたのだ――人ではないものへ。無謀にも程があるが、結果的に間違っていなかったのだと思う。


 王が何を感じたのか、無論カイムには判りようのない事柄だ。しかし、ヨルムンガンドの死――それも無遠慮に踏み込んだ――という最も繊細な話題に、ヘルレアは不快さを一片さえ見せはしなかった。


 王はこれ程まで人に近しい。


 だが、それは――。


 病んだ王の、歪んだ姿。


 人倫に狂い、本性を失ってしまったのだ。


 ステルスハウンドはどうするべきなのだろうか。


 カイムは。


 人は――。


 薙ぐような雨が降り注いでいた。遠く林の影が鬱蒼としている。雨音は聞こえない。


 ただ、闇と。止めどなく降り続く雨が重苦しい。


 戸をノックする音がして、マツダが執務室に来た。ヘルレアの部屋が用意出来たとの事だった。


 カイムが窓辺から動けずにいると王が薄く笑った。


「どうした? カイムが案内してくれるんだろう」


 そこにいるのは何も変わらない、いつものヘルレアだった。


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