第13話 穢れた聖処女
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ジェイドが村の若者に案内されて酒場に来ると、ちょっとしたお祭り騒ぎが起きていた。
店先には男達が
ジェイドは男達を掻き分けて店に入ると、店内にも人々がひしめき合って、中心に座る二人を固唾を飲んで見守っている。真ん中のテーブルにはヘルレアと赤ら顔の太った中年男が向かい合いながら座り、互いに小さなグラスを手にしていた。二人は競うように、そのグラスを空けていき次々と新しい酒がテーブルに追加されていく。
「あの酒はカロスっていう地酒で、アルコール度数がハンパなく高い。あのお嬢ちゃんさっきから顔色一つ変えず一息であおっていやがる。ありゃ怪物だ」
青年の談には間違いはないだろう。特に怪物という部分は。
ヘルレアは珍しくフードを落として、顔を出していて、整った白い顔がよく見えた。結い上げられた長く艶やかな黒髪も目を引く。華奢で可憐としか言いようのない見た目のヘルレアは、酒場にいる男達の視線を一身に受けている。その酒を飲む速度が普通じゃないことも目を引く要因だ。ヘルレアはまるで水でも飲むように一息で飲み干す。真実、王にとっては水のようではなく、本当に単なる水なのだろう。相手の男など四度くらい区切りながら飲んでいるので、まるでヘルレアについていけていない。
ヘルレアの勢いに店内がざわついている。男達は賭けをしていたのか金を手にしている者や、苦々しく眉間に皺を寄せている者がいる。明らかに赤ら顔の男へ賭けていたのだろう。赤ら顔はヘルレアの相手に全くならないところを見て落胆を隠せないようだ。当たり前だ、誰が華奢な子供が酒豪どころじゃない飲みっぷりを披露すると思うだろう。
ヘルレアの前のテーブルには次々と空になったグラスが積み上げられていく。まだまだ勢いは止まる様子を見せず、むしろ先程よりもテンポが良くなって来ている。
空のグラスがヘルレアと中年男を隔てる壁のようになってきた。勿論、その壁はヘルレアが築いたものだ。中年男は先程からちょくちょく手が止まっており、空のグラスが増える様子はない。元々赤ら顔だった男の顔は、さらに赤くなり熟れたトマトのようになっていた。
「もう、止めるんだ。このお嬢さんにはかなわない。死んじまうぞ」店主が中年男の肩を叩く。
男はもう喋る事も出来ないようだというのに、まだグラスを傾けている。
「あの酒飲んでるおっさん、ここいらで酒豪と有名なんだ。変な矜持が邪魔して止めるに止められないんだよ」
「何故こんな競争しているのか、理由は知っているか?」
「ああ、あのお嬢ちゃんが酒場に泊めてくれと言ったんだ。この村には宿屋がないからね。それで店主が断ったんだが、思い直したみたいで、そこの酒豪と酒呑み対決して勝ったら泊めてやるって事らしい。まさかお嬢ちゃんが異常な酒呑みだとは誰も思わないだろ。店主もお嬢ちゃんが断ると思って言ったんだろうね」
ヘルレアはもう飽き飽きしたという具合に片肘付いてちょびちょび飲み始めた。もう勝負が決まっているので相手が断念するまでの申し訳程度の飲み方だ。しかし、もう飲まずに待っていても問題ないくらい差が出ている。
遂に中年男の手が止まってしまい、酒をグラスからこぼしてしまった。男の目は焦点が定まらずふわふわと泳いでいる。ヘルレアは突然立ち上がった。
「もういい加減いいでしょう。私の勝ちだ。これ以上続けるとその男は死んでしまう」
中年男が同じように立ち上がろうとすると足元がおぼつかず、遂には倒れてしまった。
「店主。これで約束の件聞き入れてくれますね」
ジェイドはヘルレアの口調に面食らった。今まで突き放すような口調しか取らなかった王が、丁寧な言葉を使っている。敬語を使う基準は一体なんなのだろうか。
一方、ヘルレアの一声で見物人達は湧いた。大笑いする者、拍手する者、落胆を隠せない者やらが入り混じって、歓声と中年男に対する怒号とで店内は嵐が吹き荒れている。中年男は客に介抱されて隅の床に寝かされていた。
男達が、次々にヘルレアの元へやってくる。口々に感嘆の声を上げヘルレアへ質問を浴びせかけている。
ジェイドは輪の中心にいるヘルレアの腕を思わず掴んだ。こそこそと周囲に聞こえないように話す。
「王、何故こんなに目立つ事をしたんだ。しかも容貌を人目に晒すような真似をして。言っただろう騒ぎを起こすな、と。それでなくともお前は目立つんだ。こんな人間離れした所を見せればどうなるかわからないぞ」
「目立つからこそ、こうしたんだ。派手な事をすれば店主も言い逃れできないだろう」
「酒場に泊まりたいからこんな事をしたのか」
「野宿は御免だからな」
ジェイドは大きく溜息をついた。やはり王と言うべきか。やる事なす事、常に大勢の人々を巻き込む。それが、善し悪しの違いはあれど王の
店主が近付いて来た。何やら柔和な表情をみせている。
「お嬢さん少々野暮な話ですが、たくさん稼がせて頂きました。今日はどうぞ二階の部屋でお休みください。元々人を泊める部屋ではありませんので毛布ぐらいしか用意できませんが。勿論、お連れの方もどうぞ」
こう言う寸法だったのだ、と言いたげにヘルレアはジェイドをちらっと見上げた。その上目遣いは普通なら動揺する程、心引くものがあるが、ジェイドにとっては子供の皮を被った怪物だ。
「ここは騒がしい。早く二階に上がって休もう。ここからの道は険しくなりそうだ」
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店主の言う通り人を泊めるような部屋ではなかった。酒の貯蔵部屋らしく床は板張りで、木箱が四隅に積んであり、裸の照明がぶら下がっている。
店主は二枚の毛布を持って来て、直ぐに部屋から去っていった。店主の住居は別にあるので昼過ぎにならなければ、店には来ないのだと言う。
「野宿よりは、ましだろう」ヘルレアは毛布を放置したまま膝を立てて座った。
「確かに、風を防げる分だけ、居心地は悪くない……だが、この部屋を借りる為にやった事は、大分やり過ぎだ」ジェイドがあぐらを組んで座る。
「もう、それはいいだろう。そんなことよりお前は聞いたか? 空に走った柱の事を」
「王も聞いたか。この村では話題になっているようだ。規模があまりに大き過ぎる」
「これは
「まだ片王が留まってくれているといいが」
ヘルレアは黙って何か考えている。一つ息を吐くとジェイドを見た。
「これは言っておく。私はまだ成長しきっていない。気配を読むのは正確にとはいかない」
「それでもないよりは、確実にいい。指標が立てられるのとそうでないのとは雲泥の差だ」
成長しきっていない。番がいないのだから当たり前だ。王が大人になるのは番いを得てはじめて叶う事柄だ。この死期も近い時に自分からカイムの事を袖にしたのだから、未だ子供のままなのは当然だろう。
「何故カイムの申し出を断ったんだ」
「ジェイドは初めて合った相手に結婚してくれと言われて受けるのか?」王は悪戯っぽく笑う。
「それは、普通の人間が言う理屈だ。王は人間ではないだろう。俺がどうとかの問題ではない。もしかして本当にカイムの容貌が気に入らなくて振ったのか?」
「まだそれを言うか。いい加減諦めたらどうだ。ジェイドがどうこう言おうと変わる事はない」
確かにジェイドが王を説得できるとは自分でも思わなかった。ただ、ジェイドの主人であるカイムが何故王に相応しくないのか知りたかったのだ。
「……私は元々番など持つ気はないんだ」
「なんだと?」
「話しは止めだ、私は寝る。ジェイド、お前も休むことだ」
それっきり会話は途絶えてしまった。ジェイドもヘルレアも身体を横たえる事なく休み、いつでも動けるような体勢だった。長い間、そのまま二人とも目を瞑っていた。
ヘルレアを少女と見なす人間が多い。酒場に居る男達からは、完全にお嬢ちゃん扱いされていた。確かにジェイドにも、ヘルレアは女寄りに見える時がある。だが、ヘルレアに性別は無いはずだ。人間のヘルレアへ対する認知機能というものは良くわからない。少年のようであり少女のようである王。絶妙な均衡に立つ王は、また、その特有の美しさで、人間の認知を更に乱して性差を撹乱するようだ。
ジェイドはヘルレアの存在感を肌で感じ取り眠れなかった。これは本能から来る恐れだと自覚できた。闇の中で肉食獣に怯える小動物のような感覚。訓練を受けたジェイドでさえ、自分自身を誤魔化す事が出来そうになく、眠ることなど到底無理だった。
まんじりともせずにいると、音もなくヘルレアが動いた事が空気の流れで分かった。ジェイドは一瞬身体が強張ったが慌てて眼を開けると、ヘルレアが部屋から出るところだった。
「どうした?」
ヘルレアは口に指を当てて、静かに、と身振りで示した。
王は無音でありながら滑らかな速度でもって動き、廊下の窓を開けると外へ出た。屋根の上に立つ王はジェイドを手招きしている。王に倣って静かに動くと窓枠を超えて、屋根に立った。
王は先に屋根の端に立ち、少し遠くを指差している。
薄暈けた月明かりの中、黒い塊がそろそろと建物の間を歩いている。
――使徒だ。
「村に紛れ込んでいたか、私に引き寄せられて来たか。どちらにしろ、始末しておくべきだろう?」
「村人に犠牲は出さない。見過ごしたら、ステルスハウンドの意義を失う」
ヘルレアは笑って、屋根から飛び降りた。使徒はヘルレアに気付き、立ち止まってしまう。ジェイドもヘルレアに続いて屋根から飛び降りた。
ヘルレアは使徒に迷いなく突進して、使徒の背後に回り込むと片腕を掴んだ。足を使徒の身体に掛けてから、関節とは逆方向に捻じ曲げる。すると、雑巾のように赤い血が絞られて血飛沫を上げた。ヘルレアは顔を鮮血に染めたまま、気にもせず捻じ切り、そのままもう片腕も同じ様に、軽々と絞り上げて毟り取ってしまった。
すると突然使徒の姿が歪む。波打ち暈けて、輪郭が捉えられないほど揺らぐ。滲むように黒い影へと沈んで行くと、細く小さく収束した。確固とした輪郭を取り戻すと、人の姿に変性した。両腕のない青年が血を流しながら、何事もないように、よたよたと歩いている。
王は青年の顔面を鷲掴みにした。ジェイドには王が僅かに手へ力を込めたのが分かった。ヘルレアは片手だけで頭を体から引き抜くと、大量の血液が噴き上がる。王が掴む頭には剥き出しの頸椎と、引き千切られた組織が、幾筋も色鮮やかに垂れ下がっている。
ヘルレアが血に濡れた顔で穏やかに微笑む。その顔はまるで聖人画の聖処女のようで、血に塗れたその姿は、神聖な乙女が淫らに穢され、冒涜されたような情景を作り出していた。
そして、手で頭を無造作に掴む全体像を捉えると、まさに宗教的持物を携える、堕天を主題とする絵画そのものだった。
ヘルレアが青年の頭を振り上げて、ジェイドへ生首を投げて来た。彼が反射的に受け取ると、ずっしりとした重みをその手に感じた。頭からは止めどなく流血が続き、生温いぬめぬめとした血が掌をどす黒く染めた。
「猟犬共、これがお前達の罪と罰だ。受け取るがいい」
使徒は人間なのだ――。
使徒は人間を素体として生まれて来る。人間であるジェイドが、かつて同種だった人間を殺めるということの重み。覚悟をして今まで戦ってきた。既に慣れきったものだと思っていた。
しかし、王に言われ戦慄した。
ジェイドは何も見えていなかったような心持ちにさせられた。人の死へ真に向き合うのではなく、目を逸らしていただけなのではないかと、思えてならなくなった。この手に抱える潰えた命が科す、真実なる重み。
――これが王なのだ。
顔を赤黒く染め、薄い月明かりの下佇んでいる。その顔には今さっき、元人間を殺めた興奮など微塵もない。
そして、殺気も。
王というものは、ただただ静かに、日常の一場面として、殺戮すら行使出来うる存在なのだ。
心すら伴わず、その手一つで世界を動かす者。
ジェイドは絶句する。
その血に染まる王があまりにも、清らかに見えた。
――これは、違う。
宗教画などという、人間の
もっと純粋で残酷な、されど、あまりにも尊い、死――。
そして、
「……運命」
仄かに灯る瞳は穏やかで、全てを見透かし包容するようなゆとりを、見る者へ感じさせる。
ヘルレアは外套の袖で顔に飛び散った血を拭うと、ジェイドを睥睨して通り過ぎ、屋根に軽々と飛び乗ると、窓の奥へ消えて行った。
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