1章 死の王
プロローグ
*
そこは天も地もない闇のようだった。
けれども、目を凝らして遠く見渡すと、険しい山の稜線が天地を別けているのが分かる。黒く塗り込められたような山々が、地平線を激しい高低差で縁取り、山脈が延々と続いていた。
山の麓へ下って行くと、小さな灯火がぽつりぽつりと灯り始める。その仄かな明かりを追い続けると、いつしか平野に、ひっそりと星屑が散りばめられたように光の集まる場所が現れる。
そこは町だった。面積で言うならば、けして小さな町ではなかった。しかし、灯る光の一つ一つがあまりに弱く、燃え尽きる寸前の蝋燭が身を寄せ合うかのよう。
凍える夜に、町は息を潜めて眠りに付いていた。
夜空には厚く雲が垂れ込め星はなく、ただ重苦しい闇だけが満ちる。
死につつあるような灯火に、闇を照らす力などなかった。
遥か遠くから、この地を見渡せば――。
やはりそこは、天も地もない闇に没んでいた。
夜の大気は凍り付き、静寂に張り詰めている。全てが死に絶えたかのようだ。
しかし、夜闇に何の前触れも無く一声、獣の咆哮が響き渡る。長く長く尾を引いて静けさを引き裂いた。けれども、その鳴き声を聞くものは誰もいなかった。
聞いた者がいたとしても、もう、既に手遅れだったのだが。
巨獣の咆哮が響き渡り続ける。二度、三度と、繰り返すうちに大気が震え始め、その重く鈍い揺らぎが、大地を圧迫し始めた。それは地震によく似ていたが、じりじりと上から押さえつける力に、まるで落ち葉を浚うような乾いた音がさざめき出す。そうしていると、潰す力に耐えかねたのか、ついに鉄槌を下すような一撃が轟いて、大気を大きく揺さぶった。
その衝撃とともに住宅が密集する地区が突如爆散した。立ち並ぶ建造物は一瞬にして塵となり、大気に沸き立った。大地までもが抉られて砂礫が噴出し、最初の爆発から免れた住宅へ次々に土砂崩れが襲った。
更に激しい爆風で空を駆け上がった粉塵は、建材と砂礫を孕んで柱のように寒空にそそりたっている。
その立ち昇る塵芥は、闇に潰れた夜空さえ、食い尽くすほどに暗かった。
密度の濃い塵は徐々に周囲へ拡散されていき、それに触発されたように次々と爆発が広がっていった。まるで建物が蒸発していくかのように粒子と消え続け、津波が押し寄せるかのように、存在する全てを瓦解させていく――。
爆心地から遠く、どことも知れない所で、一人の男がうずくまっていた。
あたりは闇に包まれている。
腹に響くような低い鳴動に包まれ、彼は動けずにいた。
その、あらゆる生命を屈服させるような、神の憤怒にも似た大気の震えに、彼は意識を呼び覚まされた。
男は何も分からなかった。ただ、自身を取り巻く圧力を持ったかのような轟音が、過ぎ去るのを持つことしかできなかった。
乾いた砂がぱらぱらと、絶え間なく男の周囲に降り注いでいた。永遠に消えることがないかのように思われた震えは、それでも時とともに引いていった。そこで男はようやく身動きができるようになり、自分が何者で何を今すべきなのかを、目が覚める思いでみつけた。
そして同時に、嗅ぎ慣れた血の臭気が満ちていることにも思い至った。
暗闇の中、彼はひどく無理な格好で転がっていた。複雑な隆起をした岩石のようなものに覆いかぶさる形で気を失っていたのだ。
閉ざされた視界で、彼は立ち上がろうとするが、体中を打ち付けており、直ぐに動くことができなかった。もはやどこが痛いのかさえ分からない状態にあり、体の下にある硬質な物体がそれに追い打ちをかけているようだった。
男がそろそろと闇をまさぐると、鋭利な刃先のようなものが、手を掻いた。
彼は思い出したように胸ポケットからペンライトを取り出し、自身の下にあるものを照らした。その
彼は見慣れているはずの“蛇”に、この時ばかりは顔をしかめた。
蛇の厚く広い胴には、数カ所穴が開いていている。対“蛇”用に作られた大口径の銃から放たれた弾丸が、着弾と同時に鎧のような鱗へ局所集中的にめり込み、蛇の体内で炸裂したのだ。その炸裂した特殊弾の細片は、比較的やわらかな体内で四散して、鱗が鉄片を外部へ拡散するのを防ぎ、肉体を内側から引き裂いた。その弾丸が持つ性質故に、対人には用いられない。強靭な鱗を持たない人間に使用すると、細片を遮る障壁がないので、一気に細片が飛び散り、発砲した本人さえも危険に晒した。
ほとんど賭けに等しかったのだ。彼が地下へと走りこんだその時に、居合わせた者が人間か“蛇”なのか、一瞬での判断が男の命を左右した。地下へと続く階段の真下に立っていた老人を、彼は目にすると同時に、銃の引き金を引くことを選んだ。
蛇は化ける。その言葉は正確ではなく“二形と成った”というべきなのだが、生来の形から逸脱する術を得た元人間を化けると表現しても、彼は差し支え無いと思っていた。彼は曖昧な言葉を
一歩遅れていれば、男は頑健な怪物の腹に自ら飛び込むことになっていただろう。大地を揺るがす衝撃が、彼を襲うその直前に、蛇は弾丸に貫かれて事切れたのだ。
彼が周囲を照らしだすと、直ぐに目の前の小部屋で見知った顔を見つけた。頭だけが小部屋の隅に転がっていて、剥き出しの腕や足がバラバラと無造作に散っていた。既に原型をほとんど留めていない遺体は、男の部下であり、その無残な姿は、彼がこの地下室へ来た意味を失った証であった。
男は痛む体を無理矢理に起こして、転がった拳銃を拾った。拳銃と表現するにはあまりにも大きな銃は、片手での取り扱いが困難であるため、拳銃と呼ばれる類の銃から少々逸脱している。
本来、対“蛇”用の銃器は使用する弾丸の特殊性から、口径が大きければ大きい程、安定性と利便性が高まる。男が所持する銃は、これでも最小限度に小型化した拳銃で、人目に付かず携行する必要がある場合に用いられる。
彼は地下室から上階へ体を引きずるように上がり、こじんまりとした部屋へ出た。
彼が初めて訪ねた時は、住人は嫌な顔ひとつせず、男を迎え入れてくれたのだ。その時の家は人の良い老人の住居でしかなかった。だが今は、化物が身を隠す為に作り出した偽装の家となり、そして、既に廃屋へ変わり果てていた。家は暗く静まり返り誰も居ない。窓が風に嬲られ軋み、絶え間なく家鳴が聞こえるだけになっている。
彼が玄関扉を押し開けると、何かが焼けたような臭気を乗せた生ぬるい風を感じた。風は絶えず吹き付けて、
家から少し離して留めておいた車に彼は乗り込むと、山道向けて走らせた。どこに向かうべきか、彼には分かっていた。
車道の脇にある林は下草が枯れ、乾いた落ち葉が積み重なっている。曲がりくねった道を登り切ると、林の切れ間を見つけて停車する。
この場所ならば、町を見渡せることを彼は事前に調べていた。
彼は車から降り立つと、そのまま身動きが取れなくなった。眼下に広がる町の中央付近に、遥か見上げるほどの岩壁が穿たれていたのだ。彼のいる丘陵から塵芥の立ち昇る位置は、かなりの距離が開いている。だが、闇夜においても質量を持った粉塵が、一枚岩のようになり、あまりにも明確な輪郭線で画かれて、存在しているのが分かる。
その重たく厚い塵芥は、辛うじて残されている周辺の家屋から上がる火の手に囲まれ、闇深い街路の底に紛れることなく、天へと駆け上る様が見て取れた。残された密集する建物は薄い煙を上げ、炎をまとわせている。
まるで地の底深くにある地獄の門が開いたかのようだ。風は熱風へと様相を変え、業火が町一帯を焼き払いつつあった――全てが、煙霧に沈む。
この光景は彼の失態でもあった。彼一人がこれ程の災害を招いたというわけではなかったが、被害を最小限に留める術を僅かながらに持っていたという事実が、彼に罪の意識を呼び起こした。
微かな予感があった。変事がある。分かっていながら、読み誤った。
彼は杭のようになった自分の足を、気力でもってようやく動かし車に乗り込む。
国境を超えなければ。たとえそれが叶わなくとも、爆心地から離れなければならなかった。
もう、彼にできることはない。
後は、自分が生き残らねばならなかった。既に自分が気にかけるべき人はいない。町一帯は僅かに生き残った人々が、第二の地獄を作り出す。
この国は、貧しく寒い。そして何より、施政者が国民に酷薄だ。これから更に寒さが厳しくなり、全てが凍りつくような本格的な冬が始まる。焼け出された人々が、果たして生き残れるかどうか。
限界まで速度を上げた車の中で、彼は自分の体から悲鳴が上がっていることにようやく気がついた。
体中が痛むというより、おかしいとしか言えなかった。自分では見た目や挙動にそれ程違和感がなかったと思ってはいたが、それはある意味で最悪なことだった。目に見えない感じにくい所で、深い損傷を受けているのか。
それは、差し込むような痛みに気を取られた一瞬の出来事だった。
黒い獣のような影が、車体を横切ったのだ。男は無意識に急ハンドルを切り、そのまま木へ衝突した。エアバックが体を圧迫して、男の意識に空白ができた。それもつかの間に、男は金属を掻くような音に目を覚まして、慌てて車外へまろびでる。
体がいうことを聞かず、下半身を引きずるようにして車から遠ざかろうとした時、視界に影が差す。
立ち上がり手を伸ばせば届きそうな高さの大岩、その上に華奢な人影が佇んでいた。
成人の女と考えるには小さく頼りない。その影は、明らかに子供であることを物語っている。
風に長い髪が解かれて夜の闇に溶け込むようだった。
男の目が闇に慣れ、次第に子供の全身像が捉えられてきた。子供は抱えきれないほどの岩塊を片手で鷲掴みにしている。よく見るとそれは岩ではなく蛇の頭であった。頭に指をめり込ませるように掴んでいるため、指の間から液体が滴っていた。大口径の銃弾で以って、ようやく貫ける強靭な鱗に、子供は手指を突き立てているのだ。
青い双眸が鮮やかに灯って、男を見下ろしていた。彼はその瞳に一瞬で囚われた。身動きが出来なくなり思考も働かず、一心に子供の姿を見つめるしかなかった。
子供が髪を掻き上げると、その挙動で青い瞳が蛍火のように尾を引いて、残光が留まり続ける。その滑らかな動きは、獣よりも静かでしなやかだ。
子供は招くように彼へ掌を差し出す。その顔に薄く笑みが浮かんでいることに男は気づいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます