第27話 桜の木の下で

 お祭りが終わった次の日とその次の日も、僕は悶々とした日々を過ごした。折角、貴子お姉さんが元気になったのに、僕は会いに行くことが出来なかった。会えばきっと、ジョージの事を聞いて来るに違いない。僕は、それが怖かった。青銅の魔人に挟み込んだ、貴子お姉さんの写真を取りだす。小学生の貴子お姉さんが、僕のことを悪戯っぽく睨んでいた。


「フー」


 溜息をついてしまう。お姉さんは、一体、僕のことを、どんな風に見ているのだろう。僕は、こんなにもお姉さんの事を想っているというのに。目を瞑ると、祭りでの貴子お姉さんの姿が目に浮かんだ。白地に青い朝顔が咲いた浴衣を着ている。俯いている貴子お姉さんが、顔を上げた。


「私を盗むの?」


 盗みたい。お姉さんを盗みたい。でも、どうすれば良いのか、僕には分からなかった。家にいると、相変わらず、お母さんが口うるさい。「宿題をしなさい」と繰り返す。


「分かったよ」


 僕は、素直に宿題を始めた。そうすることで、貴子お姉さんに少しでも近づける様な気がしたから。今の僕は、あまりにも無力すぎる。ただ、それだけは分かっていた。


 ピンポーン!


 誰かが家のベルを鳴らした。僕の全神経が、玄関の様子に注がれる。


「こんにちは。ヒロ君、いますか?」


 貴子お姉さんの声だ! 鉛筆を持つ手に力が入る。メキッ! 先っぽの芯が折れた。


「ヒロちゃーん。お隣のお姉さんよー」


 階下から、お母さんの元気な声が聞こえる。僕は、椅子から立ち上がった。階段を一段づつ下りる。嬉しいはずなのに、なんだか足が重い。貴子お姉さんの目的は分かっている。ジョージの肖像画だ。お母さんとすれ違い、玄関で靴を履く。玄関の扉に手を掛けて、開けた。眩しい……燦燦と輝く白い太陽の下、大きな麦わら帽子に白いワンピースを身に着けた貴子お姉さんが立っていた。


「こんにちは、ヒロ君。もしかして、寝てたかな?」


 お姉さんが、悪戯っぽく僕に問い掛ける。僕は、首を横に振った。


「勉強してた」


 お姉さんが、驚いた顔をする。


「それは、感心感心」


 お姉さんが、微笑んでくれた。僕は吸い寄せられるようにして、お姉さんに近づいていく。でも、顔を上げることが出来なかった。そんな僕に、お姉さんが顔を寄せる。小さな声で、僕に囁いた。お姉さんの甘い香りが漂う。


「ジョージの所に連れて行って欲しい」


 僕は、小さく息を吸った、拳を握り締める。


――嫌だ!


 そう叫んでしまいたかった。でも、頷いた。


「分かった」


 顔を上げると、お姉さんが嬉しそうに微笑んでいる。僕の胸がキリキリと締め付けられた。覚悟を決めよう。家の前に止めている自転車に乗ろうと近寄った。ハンドルを握る。そんな僕の肩を、お姉さんが掴んだ。僕は振り返る。


「歩いていこうよ。ほら、私、ワンピースだから……」


 僕と貴子お姉さんは、歩いて行くことにした。小学校までの通学路だ。それほど遠くはない。でも、日差しが強かった。黒いアスファルトが焼けて、視界が歪んで見える。蝉が、ワシャワシャと叫んでいた。僕は、先頭になって歩いて行く。お姉さんが後ろから付いて来た。


「暑いね」


 お姉さんが、呟いた。


「うん、暑い」


 お姉さんと、何を話せば良いのだろう。言葉が続かない。僕は、黙々と歩いた。学校に続く真っすぐな道には、誰もいなかった。このまま、いつまでも、ジョージの所に到着しなかったら良いのに……と思ってしまう。額から、汗が流れた。僕は、その汗を拭う。


「ヒロ君」


 お姉さんが、僕を呼んだ。僕は、振り返る。


「なに?」


 お姉さんが、前の方を指を差す。その先に、赤い自動販売機があった。


「喉が渇いたね。何か飲もうよ。買ってあげる」


 僕は、笑顔になる。


「うん。飲みたい」


 お姉さんの優しい言葉に、つい、嬉しくなってしまった。


「ヒロ君は、何にする?」


 僕は背伸びをして、どれにしようか順番に見ていく。お姉さんが硬貨を入れてくれた。僕は、コカ・コーラのボタンを押す。


 ガゴン!


 手を伸ばして、赤い缶を取り出した。良く冷えている。その赤い缶を、お姉さんに見せつけた。


「ありがとう」


 お姉さんが、微笑んでくれる。また、硬貨を入れた。お姉さんは、ファンタオレンジのボタンを押す。


 ガゴン!


 続けて、またファンタオレンジのボタンを押した。


 ガゴン!


 僕は、目を細めて、その様子を見ていた。二本目はジョージの分だ。お姉さんは、自動販売機から二本の缶を取り出す。それらを手提げ袋に入れた。僕は、お姉さんを見上げる。


「飲まないの?」


「私は、着いてからで良いの。ヒロ君は、飲んだら良いのよ」


 僕は、首を振った。少しムキになって、呟く。


「僕も、着いてからで良い……」


 足取りが重かった。喉は渇いていたけれど、コーラの缶を掴んだまま、目的地に向かって歩いて行く。廃墟の工場が見えてきた。この暑さの所為か、人影が見えない。シーンと静まり返っている。その代わり、蝉だけは、ワシャワシャと鳴いていた。本当に五月蠅い。工場の端の、有刺鉄線が破れている所に到着した。僕がその破れ目を通り抜けると、お姉さんが、躊躇して足を止めた。


「ちょっと、ヒロ君」


 僕は振り返る。ジッと、お姉さんを見つめた。何も喋らない僕に、お姉さんが困ったような表情で、僕に問いかける。


「こんな場所に入るの?」


 僕は、冷たく言い返す。


「怖かったら、帰っても良いよ」


 僕は、お姉さんと見つめ合った。お姉さんが、根負けしたように、小さくなため息をつく。


「分かったわよ」


 お姉さんが、有刺鉄線の破れ目に体を滑り込ませる。慌てたように僕に近づき、僕の手を握りしめた。僕は、驚いて、お姉さんを見上げる。お姉さんが不安がっていた。僕は、お姉さんの手を握り締める。ちょっとした優越感に、心が踊った。


「行くよ」


 僕の力強い言葉に、お姉さんが頷く。


「お願い……」


 相変わらず蝉が五月蠅かった。ワシャワシャと鳴き叫んでいる。ガラクタを避けながら、白い団地の端っこまで足を運ぶ。ジョージの部屋の窓が開いていた。僕は、大きな声で叫ぶ。


「ジョージ!」


 暫くして、窓からジョージの顔が現れた。


「やあ、小林君。それに、貴子さん。待っていたよ!」


 顔を引っ込めると、暫くして、玄関からジョージが現れた。両手を広げて、ゆっくりと歩いて来る。


「こんなところまで、よく来てくれました」


 近づきながら、貴子お姉さんを、真っすぐに見つめた。お姉さんは、恥ずかしそうに目を背けると、ワザとらしく辺りを見回す。


「ジョージって、こんなところに住んでいるの?」


 ジョージは、恥ずかしそうな素振りを見せない。堂々としている。


「まあね、僕は浮浪者みたいなものだから。それよりも……」


 ジョージが、お姉さんの全身を舐めるように見つめた。お姉さんは、ジョージの視線から逃げる。


「何よ……」


「綺麗だね」


 驚いたように、お姉さんがジョージを見た。ジョージは、微笑みかける。


「良く似合っているよ。そのワンピースと麦わら帽子。僕の腕が鳴るってもんだ」


 途端に、貴子お姉さんの顔が赤くなる。


「口ばっかり……」


「そんなことはないよ。僕は、本当のことしか言わない」


「もう」


 貴子お姉さんが、照れている。乱暴に、手提げ袋に手を突っ込むと、中からファンタオレンジを取り出した。怒ったように、ジョージに突き出す。


「ハイ! 喉……乾いているでしょう」


 ジョージが、嬉しそうな表情を、お姉さんに見せた。


「ちょうど、喉が渇いて死にそうだったんだ」


 貴子お姉さんから、缶を受け取ると、プルトップを引き上げる。目の前で、ゴクゴクと一気に飲んでしまった。


「フー、美味い! 生き返ったー。この間なんか、本当に死にかけたからなー」


 お道化ているジョージを見て、お姉さんが笑った。


「大袈裟なんだから……」


 僕は、ムスッとしてしまう。僕も、力任せにプルトップを引き抜いた。ジョージの真似をして、コカ・コーラを一気に飲もうとする。でも、咽てしまった。


「ゴホン、ゴホン」


 咳が止まらない。貴子お姉さんが、僕の背中をさすってくれた。


「ジョージの真似をするなんて、ほんとに子供なんだから」


 子供……僕は、その言葉に、敏感に反応してしまう。僕は、顔を上げた。挑戦的にジョージを睨みつける。


「この後、どうするの?」


 ジョージが、剽軽な表情を浮かべた。


「準備は出来ているんだ。裏庭に行こうか」


 ジョージが、歩き出す。その背中を、僕とお姉さんが追いかけた。お姉さんは、歩きながら、ファンタオレンジを開ける。少しづつ飲み始めた。僕も、残っているコカ・コーラを飲む。炭酸が強かった。


 白い団地を迂回して、裏庭に出ると、秘密基地のバスが見えた。そのバスの隣に大きな桜の木が立っている。緑色の葉っぱを茂らせて、傘のように枝を広げていた。木の根元には、強い日差しで黒い影が出来ている。その影の中に、木製の椅子が用意されていた。また、その椅子に向かい合うようにして、イーゼルが立てられている。白いキャンパスも用意されていた。ジョージが、足を止めて振り返る。お姉さんを、見つめた。


「あの椅子に、座ってくれるかな?」


「分かった」


 お姉さんは、真っすぐに椅子に向かう。ゆっくりと座った。ワンピースの皺を広げて、麦わら帽子の角度を調整する。そんなお姉さんに、ジョージが語りかけた。


「今日は、貴子さんのデッサンを描かせて欲しい。君という人物を、僕の中に、沢山沢山、詰め込んでみたいんだ。笑っている顔、泣いている顔、怒っている顔。君の全てを見せて欲しい」


「私の全て?」


「うん。貴子さん、君の全てをね……」


 そう言って、ジョージが目を細めた。貴子お姉さんが、不思議そうな表情を浮かべる。僕は、ジョージを見た。これまでの、ふざけた様子が感じられない。ジョージの真剣さが伝わってくる。


「今日だけじゃないの?」


 ジョージは、クロッキー帳を開き鉛筆を持つ。貴子お姉さんを、早々と描き始めた。


「うん。本番は、次回にお願いしたい。今日は、デッサンだけ」


「うん。分かった」


「それとね、先に謝っておきたいんだけど……」


 貴子お姉さんが、怪訝な表情を浮かべた。


「何のこと?」


「僕は、君の全てを見たいがために、君をわざと怒らせるつもりなんだ」


 貴子お姉さんが、驚いた顔を見せる。ジョージが、手を止めた。貴子お姉さんを見つめる。その頭を下げた。


「ごめん」


 貴子お姉さんは、そんなジョージの事を、呆気にとられたように見つめる。蝉が、ワシャワシャと怒ったように鳴いていた。

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