第7話 ドーナッツ
「ネギをたくさん食べたら、頭が賢くなるねんで」
僕は妹と弟に向って、偉そうに言った。昼ご飯は、素麺だった。麺つゆが入った小鉢に、カットされたネギを大量に入れる。生姜のすりおろしも入れた。
「ヒロちゃん、そんなに入れたら素麺が入らないでしょう」
母親は呆れた顔をして、僕にそう言った。冷えた素麺を箸でつかむと、小鉢に突っ込んだ。ネギまみれになった素麺を、口の中に頬張る。
ズーズー
生姜が少し辛い。調子に乗って、入れすぎてしまった。でも、甘い醤油だしと絡まって、素麺が美味しい。麺をつまんでは、次々と口に運ぶ。妹も弟も、ネギや生姜の美味しさが分かっていない。美味しそうに食べている姿を見せることで、自分がちょっと大人になったような気がした。
僕はお腹が一杯になると、二階の子供部屋に行き、また窓から表の路地を眺めた。流石に、アキラは、もうやって来ないだろう。でも、貴子お姉さんが、もう直ぐ帰って来るはずだ。ぼんやりと、お姉さんの帰りを待つ。中々、帰ってこない。時間を持て余して、畳の上に寝転がった。窓から、風が入ってくる。目を瞑ると、ことさら風の流れを感じた。何だか、頬を撫でられているようで、心地が良い。そのまま、僕は寝てしまった。
「ヒロちゃん、ヒロちゃん」
お母さんに、肩をゆすられて、目を覚ます。
「なに?」
「お隣の西村のお姉さんが来ているから、早く起きなさい」
僕は、西村のお姉さんと聞いて飛び起きた。
「貴子お姉さんが!」
「この間、本を頂いたんでしょう。ちゃんと御礼は言ったの?」
「言った」
「お返しをしないといけないから、これを持っていきなさい。有難うございましたって、ちゃんと言うのよ」
お母さんが、僕の手にドーナッツの包みを持たせた。
「分かった」
僕は、階段を駆け下りる。玄関を飛び出した。貴子お姉さんが、後ろに手を組んで、立っていた。長い髪の毛が、風で流れる。顔に掛かる髪の毛を、右手でかき上げた。僕を見て、ゆっくりと笑う。
「こんにちは、私に会いに来てくれたんだね」
飛び出した勢いが止まる。貴子お姉さんが、輝いて見えたから。堪らずに俯いてしまう。とてもドキドキした。
「これ、お母さんから……本を、あり、がとう」
僕は、俯きながらドーナッツを差し出した。お姉さんが、そのドーナッツの包みを受け取ってくれる。その時、お姉さんの手が、僕の手に触れた。それだけで、電気が流れたような快感が、僕の手から駆け上がってくる。僕は、息を呑んだ。
「ヒロ君、ありがとう。中身は何かな……」
貴子お姉さんが、嬉しそうにして包みを持ち上げた。
「ドーナッツ」
僕がそう言うと、お姉さんが、目を丸くした。凄く驚いた表情を浮かべる。どうしたんだろう? ゆっくりと微笑むと、お姉さんが、腰を屈めて僕に顔を寄せてきた。
「ねえ、何か分かったことがあったの?」
僕に、そっと囁いた。僕は、頷きながら、お姉さんの息遣いを感じる。何だか、胸が苦しい……。
「うん」
「嬉しい……話が聞きたいから、私の部屋に来て」
僕は、顔を上げる。吸い寄せられるようにして、貴子お姉さんの後ろを付いて行った。靴を脱ぐと、貴子お姉さんが、おばさんに向かって叫ぶ。
「お母さん、ヒロ君を、上げるからね」
「はいはい、分かりましたよ。アンタが持って帰ってきたドーナッツを、用意しましょうか?」
そう言いながら、奥からおばさんが顔を出した。僕は、慌てたようにして、頭を下げる。
「お邪魔します」
「ええ、いらっしゃい。貴子に、推理小説の話でも聞くのかしら?」
貴子お姉さんが、そんなおばさんに、僕のドーナッツの包みを差し出した。
「はい、これ、ヒロ君から」
「あら、本のお礼? 無理しなくてもいいのに。ありがとうね、ヒロ君」
はにかんで会釈をしていたら、貴子お姉さんが、僕に振り向いた。
「ヒロ君は、先に上がってて。私は、ドーナッツを用意してから、上がるから」
お姉さんに背中を押されるようにして、僕は階段を上がった。おばさんがいる所為か、前回の様な不思議な世界に入って行くような感覚はなかった。代わりに、お姉さんの部屋に入ることが出来る、好奇心の方が強かった。戸を開けて中に入る。この前も感じた、濃密な貴子お姉さんの甘い香りが、部屋に充満していた。僕は、ゆっくりと深呼吸をする。部屋を見回すと、ベッドに脱ぎ捨てられた、ジャージが放り出されていた。何だか、その様子を見ただけで、胸の疼きを感じた。少し歩いて本棚を見る。本当だ、推理小説が、いっぱい並んでいる。江戸川乱歩の本が飛びぬけて多い。他にも、コナン・ドイルや、アガサ・クリスティーといった名前もあった。本棚を眺めていると、貴子お姉さんが階段を上がってくる音がした。僕は、慌てて部屋の真ん中に座る。戸を見つめて、お姉さんを待った。
「また、ドーナッツだね」
お姉さんが、部屋に入ってきた。前と同じように僕の前にお盆を置く。しかし、慌てて立ち上がった。ベッドに投げ出されているジャージを手に取る。
「クラブから、帰って来たばっかりだったから……」
そう言って、顔を赤くすると、ジャージを持って、また、階段を下りて行った。僕は、お盆に乗せられたドーナッツを見る。少しドーナッツの量が多いような気がした。前と同じように、オレンジジュースも用意されている。甘酸っぱいジュースの味が、思い出された。貴子お姉さんが、階段を上ってきた。
「はー、忙しい。ごめんね、ドタバタとして」
貴子お姉さんが、僕の前に足を崩して座る。なんだか、落ち着きがないように見えた。
「ねえ、ヒロ君。今日は、いっぱいドーナッツを食べてね」
「はい」
「実はね、クラブが終わった後に、卒業した先輩が遊びに来てくれたの。その時の、差し入れがね、何と、ドーナッツだったの。男子テニスの先輩なんだけど、男子も女子も集めてみんなに配ってくれたの」
そう言って、お姉さんがお盆の上のドーナッツを指さした。
「こっちが、ヒロ君が持ってきてくれたドーナッツ。こっちが、先輩が持ってきてくれたドーナッツなの」
お姉さんのテンションが、少し高い。
「へー」
「でね、本当は一人一個づつだったんだけど、先輩がね、残っているドーナッツを、私だけにくれたの。クラブの皆には悪かったんだけど、返すわけにもいかないでしょう。それでね、ヒロ君に会いに行ったら、またドーナッツでしょう。だから、ビックリしちゃった。さあ、食べて、食べて」
貴子お姉さんは、手を伸ばして、先輩から貰ったドーナッツを取った。僕も、手を伸ばしてお母さんに持たされたドーナッツを取る。貴子お姉さんは、美味しそうにドーナッツをかじった。かじった拍子に、ドーナッツの小さな屑がお姉さんのスカートの上に落ちていく。その、ドーナッツの屑を、ジッと見つめた。僕は、お姉さんの話を聞いてから、なんだかドーナツの甘さに心が動かない。喉が詰まって息苦しい。オレンジジュースが入ったコップを手に取ると、一息で飲んでしまった。自分の心が、なんとなく沈んでいるのを感じた。
「で、ヒロ君。何が分かったの?」
お姉さんは、一階におばさんが居る所為か、小さな声で僕に囁いた。さて、何から話をしようか。
「自転車男の名前はアキラ。ミナミ高校に通っている」
「えっ! どういう事。もうそこまで分かったの」
貴子お姉さんが、目を見開いた。本当にビックリしている。お陰で、僕の沈んだ気持ちが浮き上がってきた。少し得意気になる。
「昨日、僕の友達に会ったやろう。太田と小川っていう友達やねんけど、一緒に、赤いサイクリング自転車を探してん」
僕がそう言うと、貴子お姉さんが少し顔を歪めた。
「ちょっと、どういう事? ヒロ君、私のことを話したの」
貴子お姉さんの声が大きくなった。僕の目を真っすぐに見据える。僕は慌てた。
「違う違う、お姉さんが触られたことは話していない」
「約束が違うじゃない!」
貴子お姉さんの怒りが、僕に流れ込んできた。僕は、泣きそうな目でお姉さんを見る。弁解の言葉も思い浮かばない。
「帰って」
お姉さんの一言に、僕は、俯いてしまう。
「でも……」
「帰って」
強い一言だった。僕が動けずにいると、お姉さんが立ち上がった。僕の腕を掴む。強引に僕を立ち上がらせようとした。僕は、そんな貴子お姉さんの目を見た。思わず、声に出した。
「貴子お姉さんが、好きだから……」
お姉さんの動きが止まった。驚いたように、僕の目を見る。僕は、時間が止まったような気がした。僕は、震える声で、言葉を続けた。
「お姉さんを助けたいって、太田が言うから……」
貴子お姉さんの表情が、少し和らいだ。確かめるようにして、僕に聞く。
「ちょっと待って、ヒロ君じゃなくて、その太田君が言ったの?」
僕は、大きく頷いた。すると、お姉さんは、押し殺すようにして笑い始めた。僕が、呆気に取られていると、今度は声を出して笑い出した。
「アッハッハッ、おかしい。ヒロ君って、ほんとにお子様ね」
貴子お姉さんが、僕から手を離す。その手で、僕の頭を小突いた。
「イテ!」
貴子お姉さんは、改めて僕の前に座る。僕のことを、強く睨んだ。
「ヒロ君」
強い口調で、お姉さんが僕の名前を呼んだ。
「はい」
「私の事を、たとえ友達であっても、話してしまった事は、許せません」
「ごめんなさい」
僕は、頭を下げて謝った。
「ただ、調査そのものは、進展があったようだから、私に説明をしてください」
貴子お姉さんは、腕を組んで僕を睨んだ。
「太田っていうのは、背が大きい方の友達で、お姉さんのことを、一目で好きになったんや。僕とお姉さんと怪人二十面相の関係について、しつこく聞いてきて、それで、事情を説明した。そしたら、あいつも、自転車男を探したいって、言いだして……」
「それで、見つけたの」
「いや、昨日は見つけることが出来なかった。見つけたのは、今日」
「今日?」
「うん。朝、また自転車男が、お姉さんの家にやって来てん」
「えっ、本当に!」
お姉さんは、顔を歪めて嫌そうな表情を浮かべた。僕は、今朝の追跡劇の話を詳しく話した。自転車で、追いかけた事。ダイエーに入って、見失ってしまった事。僕の話を聞きながら、お姉さんは天井を見上げて、考え始めた。
「苗字は分からなくても、名前と学校まで分かったのは凄いことね」
お姉さんの評価の言葉に、僕はホッとした。大きく息を吐くと、お姉さんは、言葉を続けた。
「私の事を、お友達に話したことは、今回は許してあげる。でも、これ以上は駄目よ。本当に恥ずかしいんだから。お父さんもお母さんも、このことは知らないの」
僕は、大きく頷いた。
「分かった」
貴子お姉さんが、組んでいた腕を解いた。
「ただ、これからどうするかよね。そのアキラという男の素性が知りたいわ」
僕は、お姉さんに身を乗りだした。
「それは、あいつらと一緒に調べてみるよ」
お姉さんが、僕に微笑んでくれる。
「なんだか、ヒロ君たちって、本当に少年探偵団みたいね」
そう言うと、お姉さんが立ち上がった。本棚に近づいて、また、一冊の本を取り出す。戻ってきて、座り直すと、僕の目を見た。
「今日は、ありがとう」
そう言って、手にしていた本を、僕に差し出した。
「この本も、読んでみて。ヒロ君にあげるわ」
僕は、手を伸ばして、その本を受け取った。表紙に「少年探偵団」と書いてある。作者は、江戸川乱歩だ。
「ありがとう。次の話も読んでみたいと思っていた」
僕が喜んでいると、お姉さんが、改めて僕を見た。
「今後は、私とヒロ君の連絡方法を考えないといけないね。今日みたいに、頻繁に家で相談するってわけにもいかないし、電話もね……」
そう言って、お姉さんが口を噤む。僕は思いついたことを口にした。
「新しいことが分かったら、お姉さんの部屋の窓を棒で二回叩くよ」
貴子お姉さんが、目を開いて、僕を見た。
「そうね、隣り同士だもんね。じゃ、平日は夜の九時以降で私の部屋の電気が点いていたら、二回ノックしてよ。ただ、それでも声を出して話をするわけにはいかないから、ヒロ君は、私の為に手紙を書いて頂戴。私が窓を開けたら、その手紙を私に渡すの。私からヒロ君に連絡したい時も、同じ方法を使うから」
「分かった」
「それでも、うまく時間が合わなくて連絡が取りづらい時もあると思うけれど、その時はごめんね。先に言っておくと、今度の日曜日はテニスの試合なの。だから、週末は、連絡を取り合うことは、多分、出来ないかもしれない」
そこまで言って、お姉さんはオレンジジュースを飲む。一息ついて、僕を見た。
「ヒロ君、本当にありがとう。貴方だけよ、こんなにも私のことを助けてくれるのは」
僕は、顔を真っ赤にしてお姉さんを見た。お姉さんも、僕の目をジッと見つめて、笑ってくれた。その後、僕は、少年探偵団の本を持って、お姉さんの家を出た。お姉さんに、怒られもしたけれど、とても気分が良かった。
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