第4話 キン消し
昼ご飯を食べた僕は、玄関を出ると、自転車に乗って走り出した。大阪の北部に位置するこの川添町の周辺は、昔は田圃や沼地ばっかりだったそうだ。南東の方角には、京都から大阪湾に向かって流れていく淀川が横たわっている。昔は、建物が何もなかったので、淀川の大きな堤防を、この川添町からも見ることが出来たそうだ。今では、一戸建ての住宅が、所狭しと立ち並び、五階建ての真っ白な団地が数え切れないほど林立している。だから、今ではその堤防を見ることは出来ない。
そんな町中を抜けて、僕は芝生小学校にやってきた。正門の前には、既に太田と小川が自転車に跨って、待っていた。太田は僕を見つけると、僕がやって来た道を戻るようにして自転車を漕ぎ出す。すれ違いざまに、太田が僕を見た。
「付いてこい、こっちや」
説明もなしに走っていく太田を追いかけるために、僕は自転車をUターンさせて走り出す。どこまで行くのだろう?
「おい、小林」
小川の奴が、近づいて来て、僕と自転車を並走する。
「なに?」
「今から行くところは、絶対にナイショやからな。誰にも言うなよ」
「うん、分かった。それより、僕は何をするんや?」
小川は、少し難しい表情を浮かべた。
「それは……着いたら、太田が説明すると思う」
そう言ったきり黙ってしまった。目的の場所は、少し遠かった。学校の校区を軽く超えて、隣りの町の駅周辺までやって来た。賑やかな商店街の入り口までやって来ると、近くにある公園に自転車を止めた。太田は、公園の中にあるブロックで出来た花壇に腰を下ろす。
「ちょっと来い作戦会議や」
僕と小川は、太田を挟むようにして、同じようにして花壇に座り込んだ。太田が、喋り出す。
「今日はな、ジャンプを買いに来たけど、もう一つ、目的があるんや」
「目的?」
僕は、聞き返した。
「ああ、今から行く店は、かなり悪どい商売をしている店なんや。ジャンプを発売日前に売ってくれるのはええねんけどな……」
太田が、真剣な顔で語っている。何だか、いつもと雰囲気が違った。
「悪どいって、何をするんや?」
太田は、僕を見て鼻で笑う。
「ガンダムのプラモデルをな、他のいらんプラモデルとくっ付けて販売しているんや」
「他の……」
僕も、父親と一緒に、ガンプラを買いに行ったことがある。しかし、あまりにも人気があり過ぎて、売り切れていた。世間では有名な話で、テレビのニュースにもなった。だから、尚更、ガンダムのプラモデルは買うことが難しくなってしまった。今から行く店には、ガンプラがあるんだ……。
「一緒に買わされるのが量産型ムサイなら、まだマシや。肝心のガンダムを買おうとしたら、お城のプラモデルまで一緒に買わなあかん。許されるか?」
太田が、僕の肩を掴んだ。かなり怒っている。だからって、僕に怒りをぶつけなくても……と思ってしまう。でも、僕は話を聞きながら、そのお店の、商売根性に感心していた。
「それで、太田は、買ったん?」
「買えるか! 七百円のガンプラが、お城とセットで二千二百円にもなるんやで。おかしいやろ!」
太田は、吐き出すようにして言った。太田……よっぽどガンダムが欲しいんだ。
「今日は、そのガンプラを何とかして買うんか?」
「違う。今日の目的は、ガンプラじゃなくて、キン肉マンの消しゴムや」
「キン肉マン……」
今度は、キン肉マンの消しゴム。どういうつもりなんだ?
「その店はな、キン肉マンの消しゴムも売ってるんや。ただな……」
「ただ?」
「俺達に選ばしてくれへんのや。一体づつ紙袋に入っていて、中身が分からんようになっている」
なるほど、何が当たるかはお楽しみってわけだ……。
「そのキン肉マン消しゴムを、僕が買ったらいいんか?」
太田が、僕を睨んだ。
「いや、盗め!」
僕は、息を呑む。盗め?
「えっ! アカンやろ、それ」
驚いた。いくら何でも、盗むのはアカンやろ。僕は、太田の顔を、マジマジと見つめる。
「いや、これは復讐なんや。あの店、懲らしめなアカン」
「でも……」
「俺はな、キン肉マンを手に入れるために、何度も買い物をしたんや。でもな……」
「でも?」
「全然、当たらへん。この前なんか、十体も買ったんや。けどな、肝心のキン肉マンが一つもない」
「だからって……」
「いや、許されへん。良くて、ロビンマスクや。スフィンクスマンが三体に、カニベースも二体って、ハズレばっかりやないか。子供相手に、何ちゅう仕事をするんや。俺にケンカを売っているとしか思われへん」
太田のボルテージが上がっている。唖然としていると、太田は、尚も話を続けた。
「ええか、小林。俺と小川が、ジャンプを買うために、おっさんと交渉をする。その隙に、お前は、キン肉マンの消しゴムを盗むんや」
僕は、困ったような表情で、太田を見つめた。
「いや、でも……」
太田が、僕を睨む。
「俺の言うとおりにしろ!」
太田の、視線に耐えられなくて、下を向いてしまう。
「盗むのは……」
バチッ!
急に僕の視界がブレた。太田が僕の頬を叩いたのだ。痛みが、ジワジワと襲ってくる。僕は、太田を見た。僕を、尚も睨んでいる。
「言うことをきかんと、もっとやるぞ!」
涙が、浮かんできた。僕の中に、太田に対する恐怖心が芽生えてくる。そんな僕を、太田は冷たく見下ろした。
「分かったな!」
僕は、太田の一言に、何も言えなかった。視線を落とし、足元の小石を、見るともなく見た。
「分かったんか! 小林」
太田の怒声に、僕はビクっと体を震わせる。反射的に返事をした。
「はい」
僕の返事で、太田が立ち上がった。小川も立ち上がる。座り込んだままの僕の襟元を、太田が掴んだ。強引に、僕を立ち上がらせる。
「行くぞ、小林」
僕は、言われるままに歩いた。太田を先頭にして、小川に背中を押されるようにして、僕は歩いた。歩くたびに、恐怖心が、僕の心を鷲掴みにする。どうして、こんなことになってしまったんだろう。ここから、逃げ出したくて仕方がない。
目的のお店は、商店街の中程にあった。開放的な店内には、沢山の駄菓子が売られていた。そうした駄菓子の中に、目的のキン肉マンの消しゴムも売られていた。確かに、一体づつ紙袋で包まれていて、中身が分からないようになっている。店内を見回すと、ガンダムのプラモデルも売られていた。二つのプラモデルを紐で抱き合わせてある。太田の言うとおりだ。更には、奥の方に、インベーダーのゲーム機まで置いていた。ここは、子供たちが欲しがるものが、全て揃えられているようなお店だった。
「小林。今からジャンプを買ってくるから、その間に頼むぞ」
そう言って、太田は僕の胸を叩いた。僕の返事を待たずして、踵を返す。太田は小川と一緒に、店のおじさんに交渉に行った。僕は、太田から試されていることを感じた。今から、僕が行うことが、イケないことは分かり切っている。でも、僕は、それを実行しようとしていた。そうすることが、今後、僕が生きていくうえで、仕方がないことの様に思ったのだ。緊張しながらも、僕は手を伸ばした。キン肉マンの消しゴムを、ごく普通に取り上げた。そのまま、太田が死角になってくれていることを確認して、店の外に足を向けた。一歩、二歩、三歩。
「ちょっと」
僕は声を掛けられた。全身の毛穴から、汗が同時に吹き出る様な、衝撃を受けた。僕は、声の主に対して、顔を上げることが出来ない。その声の主は、男の人で、店の外からやって来た。
「これ、キン肉マンの消しゴムだね」
僕は、頭の中が真っ白になり、考えることが出来なかった。体が硬直して、動くことが出来ない。その男は、手を伸ばすと、僕からキン肉マンの消しゴムを取り上げた。僕は、抵抗することが出来ない。黙って立ち尽くしていると、その男は、僕の背中に手を回して、店内に導いた。キン肉マンの消しゴムが並べられている棚に戻ってくる。僕は、観念していた。恐怖で、足が震えていた。人生最後の瞬間を迎えた様な気持ちになっていた。全てが終わりだ……その時、その男が僕に問いかけた。
「いくつ、欲しい?」
男が何を言っているのか、僕には分からなかった。顔を上げて、その男を見る。若いお兄さんだった。優しい笑顔で、僕を見つめている。僕が答えられないでいると、その男は、棚にあるキン肉マンの消しゴムを、無造作に掴んだ。僕が、盗もうとした袋と一緒にして、店のおじさんの所に歩いていく。
「これ下さい」
ジャンプの買い物を終えた太田と小川の横で、その男も買い物を済ませる。振り返ると、その男は、僕にキン肉マンの消しゴムが入った袋を掴ませた。
「小林君、また、会おうか。じゃあね」
それだけ言うと、その男は、店を出て行った。呆気に取られていると、太田に引っ張られるようにして、僕も店を出る。そのまま、先程の公園まで、僕たちは逃げるようにして走った。公園に到着して、僕も、太田も、小川も、先程座っていた花壇に座り込んだ。とても息苦しくて、話すことが出来なかった。
「どういうことだよ?」
第一声は太田だった。僕も、やっと正気に戻っていた。
「分からない」
「知り合いか?」
太田の問いかけに、僕は首を横に振った。
「いや、全然、知らない人」
「なんでそんな人が、キン肉マンの消しゴムを買ってくれるんだよ」
太田が、怒ったように叫んだ。
「分からない、本当に分からない!」
僕も、太田を睨みつけて、叫んでしまった。太田は、驚いたような表情を浮かべて、僕を見た。暫く、沈黙が流れた。場を取りまとめるようにして、小川が口を開いた。
「直ぐに、ここから引き上げよう。今から、秘密基地に行こうぜ」
太田が動揺を抑えて、小川を見る。
「ああ、そうやな。小林、今から、一緒に行くぞ」
自転車のスタンドを上げて、僕たちは自転車を走らせた。自転車を漕ぎながら、キン肉マンの消しゴムを買ってくれたお兄さんのことを、僕は思い出していた。僕に見せた笑顔が忘れられない。その時、僕は重要なことに気が付いた。あの知らないお兄さんの、最後の言葉を思い出す。
「小林君、また、会おうか。じゃあね」
僕の事を、小林君と言った。あのお兄さんは、僕のことを知っている。でも、僕は、お兄さんのことを知らない。一体、どういう事なんだ。
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