第2話 貴子お姉さん
「ところで、ヒロ君」
西村お姉さんが、僕の目を見た。
「はい」
「さっきの男を見た?」
お姉さんが、怒ったような口ぶりで僕に問いかける。僕は、慌てて返事した。
「うん、見た。見たよ」
「突然の事だったから、私は見ていないの。どんな男だった?」
「えっ、どんなって……」
「ほら、特徴とかあるでしょう」
「えーと、赤い自転車で……」
「うん、それで、顔とかは?」
お姉さんが、僕を急かす。
「うーん。大きいお兄ちゃんだった」
「大きいお兄ちゃんじゃ、分からないでしょう!」
お姉さんの強い口調に、怒られているような気がした。顔をしかめて、僕は怯えたような素振りを見せてしまう。すると、お姉さんは、僕から少し離れた。腕を組んで、考え始める。
「ねえ、ヒロ君」
お姉さんの声のトーンが、急に優しくなった。
「はい」
「お菓子をあげるから、ちょっと私の部屋に来ない?」
「えっ!」
突然の、提案に僕は声をあげた。
「ここじゃ、ちょっと、話し難いでしょう」
僕が驚いていると、西村さんの家の玄関が開いた。中から、西村のおばさんが出てくる。
「あら、ヒロちゃん、こんにちは。どうしたの、貴子?」
お姉さんが、おばさんを見た。
「ねえ、母さん。何かお菓子あった?」
「ええ、ドーナッツくらいならあるけど」
「今から、ヒロ君と一緒に食べるね」
「ええ、いいわよ。それより、母さん、今から買い物に行ってくるから、その間、お留守番をお願いね」
「分かった」
自転車に乗って走り去っていくおばさんを見送ったあと、お姉さんが僕を見た。
「ちょっと、私の家に来て」
そう言って、僕の手を握った。僕は驚いてしまう。女の人に手を握られたことなんて、初めてだったし、相手は西村お姉さんだ。顔を赤くしていると、構わずに僕の手を引っ張って、お姉さんが歩き出す。抵抗することが出来なくて、僕は西村家の玄関に入っていった。
不思議な匂いがした。僕の家とは全く違う匂いだ。その所為だろうか、家の造りは、僕の家とほとんど同じはずなのに、何だか全く違う家に見えてしまう。まるで異世界か何処かに、迷い込んでしまった様な気分にさせられた。靴を脱いで、板張りの廊下を歩く。ヒンヤリと冷たかった。緊張で、僕の体が縮こまってしまう。
「こっちよ」
そう言って、お姉さんが階段を上り始めた。僕も後から付いていく。顔を上げると、お姉さんの白いふくらはぎが見えた。更に、顔を上げようとして、僕は目を伏せた。僕の中に、強烈なブレーキが掛る。これ以上は、見ては駄目だ。小さく息を吐いた。
「何しているの、早く早く!」
階段の上から、お姉さんが叫んだ。戸を開けると、部屋の中に入っていく。仕方がないので、僕も急な階段を上ることにした。踏みしめると、ギシッギシッと音がした。その度に、僕の心臓も、ドキッドキッと暴れだす。西村お姉さんの部屋に、今から入ることに、もちろん期待感はあった。でも、それと同じくらいに、不安感もあった。先程感じた、異世界のイメージが、僕に絡みついてくる。もしかすると、この階段を上ることで、僕は、これまでの世界に戻ることが出来なくなってしまうかも……と、思ってしまった。
中に入ると、お姉さんは慌ただしく部屋の中を片付けていた。僕は、どうしたら良いのか分らなくて、突っ立っていた。お姉さんが、そんな僕を見る。
「ちょっと、そこに座って」
そう言って、部屋の真ん中を指差すと、今度は慌ただしく階段を降りていった。僕は、仕方なく部屋の真ん中に座り込む。部屋の中は、お姉さんの甘い香りが充満していた。少し深呼吸をしてみる。僕の中にお姉さんの香りが入り込んできた。何だかウットリとしてしまう。でも、少し悪い事をしたような気持ちにもなってしまった。
顔を上げて、お姉さんの部屋をぐるりと見廻してみた。部屋には勉強机があり、難しそうな本が積み上げられている。机の横には本棚があり、そこにも沢山の本が収められていた。ベッドの上には、クマのヌイグルミが寝転んでいる。女の子らしいものといえばそれくらいで、他に目に付くのは、テニスのラケットとか、大会で優勝したことを示す賞状なんかが飾られていた。
暫くして、お姉さんが、階段を上ってくる音が聞こえた。僕は姿勢を正して座り直す。緊張しながら、その戸が開かれるのを待った。
「お待たせ」
お姉さんが、部屋に入ってきた。僕の目の前でしゃがみ込むと、ドーナッツとジュースが載せられたお盆を置いた。そのまま、お姉さんも足を崩して座り込む。お盆の上にあるジュースのコップを掴むと、僕に差し出した。
「はい、どうぞ。ジュース、飲むでしょう」
僕は、そのコップを受け取った。
「ありがとう」
お姉さんも、自分のコップを持ち上げる。喉が乾いていたのか、お姉さんはゴクゴクと美味しそうに飲み始めた。僕も釣られるようにして口にする。甘酸っぱいオレンジジュースだった。
「さっきはゴメンね。キツく言っちゃって~」
僕は、首を横に振った。
「いえ、そんな……でも、大変だったね」
お姉さんが、ため息をつく。
「ねえ、さっきの続きだけど、自転車男の特徴を、わかる範囲で良いから、私に教えて欲しいの……お願い」
先程とは違う、困ったような表情で僕を見た。そんなお姉さんの表情に、僕はドキッとした。なんだか、とっても色っぽいと思ったから。じっと見ていることが出来なくて、僕はお姉さんから目を逸らしてしまう。取り繕うようにして、僕は腕を組んで天井を見上げた。
「えーと」
「赤い自転車って言っていたよね?」
「うん、しかもサイクリング自転車だった。そう言えば、さっきも走っていたんだ」
お姉さんの目が細くなる。
「どういうこと?」
「窓から見ていたら、その自転車がノロノロとやって来て、お姉さんの家の前で、止まった」
「ちょっと待って、それは、何回も走ってきたっていうこと?」
お姉さんが、目を丸くして驚いた。
「いや、何回もじゃなくて、お姉さんを触ったのを入れて、二回」
「もー、触った話はいいのよ」
お姉さんが口を尖らせて、僕を睨んだ。
「ごめんなさい」
僕は頭を下げる。怒った顔も綺麗だな、と思った。
「それより、ヒロ君。自転車男の特徴をもっと説明できないかな?」
「説明……」
僕は、かなり返答に困ってしまった。思い浮かべることは出来るけれど、どう説明したら良いのかが、分からない。
「白いシャツを着ていた。それから、大きいお兄ちゃんだった。でも、中学生か高校生かは分からない」
「そう……他には?」
「うーん、帽子を被っていた」
「……」
お姉さんは、僕の説明を聞いて、小さなため息をついた。僕は、そのため息に、酷く傷ついてしまう。お姉さんに、頼りない奴だと思われてしまった。どうしよう……。
「もしね、もう一度、ヒロ君がその男に出会ったら、分かるかな?」
お姉さんが、不安げに尋ねてきた。
「分かる、分かると思う!」
思わず、元気よく返事をした。
「そう、良かった。とっても心強いわ」
お姉さんが微笑んでくれた。僕は、ホッとする。お姉さんは手を伸ばすと、ドーナッツが載せられたお盆を、僕の方に少しズラした。
「ヒロ君、ドーナッツも食べてね」
そう言うと、お姉さんが立ち上がった。本棚に近づき、一冊の本を抜き出す。振り返ると、ドーナッツを食べている僕を見下ろしながら、悪戯っぽく笑った。
「ねえ、ヒロ君。お願いがあるんだけど……」
お姉さんを見上げながら、僕はドーナッツを呑み込んだ。媚を含んだようなお姉さんの視線が、とても妖しかった。
「少年探偵団って知っている?」
僕は、首を横に振る。
「怪人二十面相っていう泥棒を追い詰めていく、子供達だけの探偵団なの。そのボスはね、明智小五郎っていうのよ」
「明智小五郎……聞いたことがある」
お姉さんは、嬉しそうに笑った。
「その少年探偵団のリーダーがね、小林少年っていうの」
僕は、目を丸くする。
「ヒロ君の名字と一緒だね」
そう言って微笑んだかと思うと、お姉さんは背筋を伸ばした。まるで教壇に立つ学校の先生の様に振る舞って、強い口調で僕の名前を呼んだ。
「小林博幸君」
「はい」
お姉さんに気圧されて、僕も、思わず背筋を伸ばした。
「貴方に、自転車男の調査を命じます」
「えっ! 僕が」
僕は、お姉さんをマジマジと見つめた。
「ヒロ君、いま、ドーナッツを食べたでしょう。それだけの仕事をしてください」
ドーナッツ……口の中の甘さが、妙にネットリと絡みついてきた。
「でも、僕なんかが……」
お姉さんは、僕に向かってゆっくりと歩いてきた。僕は、正座をしたまま、お姉さんを見上げる。お姉さんは、後ろ手に持っていた本を、胸元に持ち替えた。
「ヒロ君、私はね、貴方だけが頼りなの。参考になるのかは分からないけれど、この本を、貴方に贈呈します。読んでみて」
そう言って、手に持っていた本を、僕に差し出す。僕は、その本を、女神様から神託を下された様な気持ちで、受け取った。
「怪人二十面相……」
表紙の題名を見て、呟く。
「江戸川乱歩って作家が書いた本よ。とっても面白いお話。この本を読めば、きっと、ヒロ君も私に協力したくなるはずよ」
僕は、ハードカバーのその本を両手で掴んだ。なんだか物凄い宝物を授けられたような気がした。表紙には、仏像に扮した少年が描かれている。
「その表紙の男の子は小林少年よ。あ・な・た・が主人公のお話なの」
そう言って、お姉さんは表情を引き締める。膝を折って、僕の前に正座をした。僕を、じっと見つめる。
「実はね、あまり言いたくはなかったんだけど、最近、私の周りでおかしな事が起こっているの」
「おかしな事?」
「例えばね、この間、私の自転車の鍵に付けているキーホルダーが無くなったの」
「キーホルダー」
「クマの人形のキーホルダーなんだけど、多分……盗まれたと思うの。それにね……」
そう言って、少し顔を赤らめた。僕は、拳を握りしめて、お姉さんの言葉を待った。
「学校での事なんだけど、私の体操服が盗まれたの」
「えっ!」
「今の所、犯人が全然分からなくて……他にもね、不審なことが起きているの。だから、ヒロ君の目撃情報だけが、今は有力な手掛かりなの」
僕は、西村お姉さんをじっと見つめた。力になってあげたいと、心の底から思った。
「分かった。自転車男を見つけたら、西村お姉さんに伝える」
お姉さんは、手を伸ばすと、僕の手を掴んだ。ドキッとした。まるで、心臓を掴まれたような気分だ。僕の心が震える。
「ありがとう。それとね、私の事は貴子でいいわ」
そう言って、貴子お姉さんが、優しく笑った。
「貴子……お姉さん」
僕は、心のなかで、何度も、貴子お姉さんと呼んでみた。とても、心地良い響きが、僕の中で木霊する。何だか、やる気みたいな物が、僕の中から膨れ上がってきた。いま、ここで、力一杯走り出したい様な、そんな気分だ。よく分からないけれど、異世界ではなくて、新しい世界が、いま、ここから、始まったような気がした。
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