第29話 欲と名誉
「有名ですよ」とは果たしてどんな意味があるのだろう。奈津美にはあの客の言った言葉が気になり、その裏側にある本意を知りたいと思う日が続いていた。
事業が順調なら決して気にすることもない単なるお世辞と受け止めるところであるが、今の奈津美にはその余裕はなくなっていた。来客は順調に増えつつある。
だが商品は一向に売れる気配がない。
それも当然である。店員はそれぞれ自分の商売を始めていた。来客の中に有望な見込み客と思う女性客がいたら店員はプライベートなデートに誘う。そこで何が起ころうともこの店には一円の金も落ちない。ホストクラブならホストが商売であるから客が席に着くと同時に売上が発生する。しかしこの店では逆である。来客がある度に経費だけが発生する。デート商法は破綻していた。
奈津美には相談する人物も思いつかなかった。松野も橋本も役員として名前は連ねているが名前だけである。それだけではない、松野も橋本も出資者の一人として奈津美を責めるるだろう。
この店のオーナーは事実上、奈津美なのだ。
奈津美は相談相手になれる可能性のある人物を、頭の中でリストアップしていた。
その中にボスロフがいた。松野の助手としてボスロフとは何度も合っている。
その席にはつねにジョージィもいた。ジョージィの恋人は原島である。
これらの人物との関係からみてボスロフは敵ではない。
ボスロフから果たして有力な助言が得られるか、いや本当の目的である資金の提供が得られるか全く不明であるが、ほかに方法が浮かばなかった。
奈津美は受話器を手にしようとする度に、いや待てと思いとどまる動きを何度も繰り返した。その日はついに苦悩するだけで終わった。
この日、進藤とマリアの二人は、セルリアンタワーでいつもの通り遅い朝食を済ますとタクシーで渋谷区役所へ向かった。戸籍係に提出する書類にはすでに二人のサインが記されている。
書類が進藤の手を離れると進藤改め菊池の誕生となる。
二人は結婚して進藤は菊池の姓を名乗ることにマリアは賛成した。名前などマリアには関係がない。結婚の事実は変わらないのだから。
そして婚姻届けは澁谷区役所に渡されて、マリアと進藤は正式な夫婦となった。
新婚の菊池夫婦はタクシーで銀座へ向かった。
「奈津美さん、ボク達は結婚しました。ボクは今日から菊池になりました」
あまりにも突然で衝撃的なできごとに奈津美はしばらく声が出なかった。
「奈津美さん、大丈夫ですか?」と、進藤に言われたが大丈夫なわけがない。
資金繰りの心配をしていたつい先ほど前のことも、すっかり頭の中から消えていた。
マリアの声もかすかに聞こえたがぼんやりとだった。
「奈津美さん、あなたのことはジョージィからよく聞いていますよ」とマリアは言った。
「ジョージィから?」
「ええ、娘のジョージィから」
なんということか、ジョージィの母親が自分の部下で愛人である男と結婚して、自分に挨拶をしている。しかも菊池の姓を名乗っている。
女性店員が持ってきたコーヒーをひと口飲み、ようやく頭の中ができごとを理解し始めた。
「おめでとう、進藤さん。いや菊池さん」
「いや、今まで通り進藤でいいですよ」
進藤改め菊池は自分のことをマリアにどう説明しているのだろう。二人の関係など気にするそぶりも見せない。マリアに至っては嬉しそうな顔でニコニコと、まるで恋する乙女のようだ。
「それより、奈津美さん、3日だけお休みを下さい」
「新婚旅行を楽しんできてください」
進藤改め菊池は新婚旅行など考えてもいない。彼の3日間とはこの店を自分の物にするための準備のために必要な日数であった。
まず彼はビルのオーナーの秘書に面会を申し込み、この店の経営を自分が引継ぎたい旨を伝えた。オーナーからの返事は彼の予想よりもはるかに早く、その日の午後にあった。しかも秘書を通さずオーナー自らの電話であった。
オーナーの経営に対する意欲の表れであろうか。大物となった今でも彼は相手を選ばず直に話を聞く。
菊池との会談のために彼は翌日午後に充分な時間を割いてくれた。
「進藤君いや菊池君、あの店を君がやってくれるのなら私は君を応援するよ、君は銀座をよく知ってるようだから、後は秘書と話し合って決めて下さい」
オーナーはあっさりと菊池の提案を受け入れた。オーナーとしては店子の中に揉め事は起こして欲しくないのだ。それにデート商法にまだ可能性をあると見ていた。
店子の経営にまで口を出す気はないが、奈津美よりも銀座を知り尽くした人物に任した方がいいだろう。オーナーと菊池では地位と階層は違っても共に銀座で生きている同士として共通する感覚を持っていた。共通する感覚とは欲と名誉に執着する者どうしが感じる臭いといってもいい。
銀座を代表する大物の理解を得た。担保として充分な不動産も手に入れた。
彼には怖いものはもう何もなかった。
☆☆☆
翌日あの諜報部員が奈津美の店を訪れた。
「いらっしゃいませ、先日はご満足を頂ける品をお見せできなくて失礼いたしました」
奈津美は仕事上の常套句を口にしたが心の中には商売をしようとする意欲は失われていた。資金繰りに加え進藤も失った。この店もいつまでもつか経営者である奈津美自身にもわからぬ状況である。そんな奈津美の顔に熱意を感じないのは諜報部員でなくてもわかる。
「ご気分が優れないようですが、またにしますか?」
諜報部員は情報を得るためには、褒めるもいたわるも役者になって相手の懐に入り込む。
「何か心配ごとでもあるんですか?」
全てを失いつつある今の奈津美の心の中にできた空洞に、諜報部員のささやくような言葉は抵抗なく入り込んだ。
「僕も商売をする者です。あなたの気持ちが分かるような気がします」
外国人男性の話し方に共通する、女性をいたわる気持ちを込めた言葉づかいに奈津美はもっとこの男と話してみたいと思い始めていた。
「どんなご商売なんですか?」と、奈津美は聞いた。
「子どものおもちゃの輸入販売です。あなたのお店とは競合しませんから、少なくとも敵ではありません。一度、ゆっくりお食事をしながらお話でもしませんか?」
と、 ストレートなデートの申し込みに奈津美は躊躇することなく返事をした。
「それはでいつがいいですか?」
「それじゃ今夜にでも、7時にお迎えにまいります」
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