第17話 無理なお願い

 ジョージィが、ボスロフの仕事に関係することとなったのは、菊池章一郎が勤務する商社と、ボスロフの会社が昔から取引があったことに起因する。

 まだ若かったボスロフと章一郎は、仕事を離れても友人関係であった。

 その頃はふたりは英語で話しあっていた。

 章一郎はロシア語がわからない。ボスロフは日本語がまだ不十分であった。

 飯倉片町の界隈がふたりの遊び場となっていた。

 この近くにはロシア大使館が存在する。


 ボスロフはここでロシア大使館に勤務する、イリーナと知り合い結婚した。

 章一郎はいくつかの会社に出向したが、精密機械を製造する中堅企業の部長時代に輸出を積極的に進め業績をあげていた。

 その陰にはボスロフと、イリーナの存在が大きく係わっていた。

 ロシア向けの輸出が拡大し、ボスロフの社内における地位も向上しやがて代表となった。

 しかしこの両者の扱う精密機械は、ココムの対象となっていた。

 (ココムとは共産主義国家には重要な品は輸出をしてはならない)という資本主義国家間の国際的な取り決めで、1994年まで存在した)


 章一郎とボスロフの取引は、ココムに違反する違法なものであった。

 この秘密の取引が明るみになった場合、資本主義国家の間で大きな問題となる。

 事実、それまで沢山の事件が起きていて、日米間の摩擦の原因のひとつであった。その後、章一郎はアメリカに転勤となるが、この取引はさらに拡大した。


 章一郎はニューヨークで暮らすマリアと知り合い、結婚することとなった。

 マリアにはジョージィという娘がいた。

 章一郎はマリアを伴い帰国するが、ジョージィは大学に在学中であり、ひとりニューヨークで暮らすこととなった。

 

 章一郎は帰国後、業績が評価され精密機械部門が分離独立し、初代社長となった。やがて、ジョージィも日本で暮らすこととなり平和な生活が始まる。

 ジョージィとスコットの関係を除いては。


 しかし、章一郎は急逝した。脳梗塞であった。

 ボスロフは章一郎の葬儀に自分は出席せず秘書を差し向けた。長年、付き合う親友ではあったが、秘密の取引を隠し通すには自分が出席することはできなかった。

 ボスロフの秘書はジョージィと歳は近いと思われる女性であった。

 ロシア語を話す彼女とジョージィはすぐに打ち解けた。

彼女は結婚したパートナーの転勤が決まったことにより、近々ニューヨークへ行くということであった。


ボスロフにとってジョージィは彼女の後任として最適な候補であった。

 彼女は先ず、ジョージィをボスロフの妻イリーナに紹介した。

 イリーナはジョージィの母、マリアと同世代と思われるが、会ったその日から実の母以上の親しみを感じた。母マリアの生き方に多少の疑問を抱いていたジョージィにはイリーナは追い求めていた理想の母親像に見えた。


 イリーナの家に招かれ、イリーナの夫、ボスロフに会った時、ジョージィは父親に再会したような気持ちになった。

 三人でロシア語で話していると、幸せだった幼少期がそのまま延長して今ここにあ  

 るような錯覚におちいった。

 ボスロフの仕事は貿易商ということであったが、ジョージィは仕事のことはあまり興味がなかった。

 こうしてジョージィは、ボスロフの重要なスタッフのひとりとなった。

 ただ、ジョージィの仕事上の名前は菊池愛子を名乗ることとなった。これにはボスロフのある考えがあった。菊池章一郎の娘であることは都合の良いことがあると考えたのである。


 ジョージィ(菊池愛子)の仕事の中で最も重要なのは対役所関係であった。

ボスロフが欲しい情報の大部分は、役所や研究所のパソコンの中に入っている。

「見せてください」といって「どうぞ」ということは有り得ない。

当然、〈無理なお願い〉になる。

 ボスロフが役所の偉い人に会う時はしかるべき席が用意され、常に彼の妻イリーナとジョージィがそばにいた。

 ボスロフが欲しいものを見れる立場にある人の大部分は、高級官僚である。

 ジョージィが「本日はお越しくださいましてありがとうございます」という。

 それだけで十分であった。

 それが、最も重要な任務であり、代わりをできる存在はいなかった。

 ボスロフのいう〈無理なお願い〉は必ず通った。













       



















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