人として・獣らしく
金城sora
第1話 こんばんは
六畳間ほどの狭い部屋の中、あるのは机、本棚、小さな薄型テレビ、ベッド。
普段は部屋を使いやすいように並べているそれらの家具は今、扉の前に積まれている。
いや、テレビとテレビ台は定位置の窓の下だ。
テレビ台にはプレステ4。
中身はFF7のリメイク、クリアする前に電気が止まった。
俺の命はいま、適当に並べた家具のバリケードと薄っぺらい扉1枚で護られている。
ガタンガタンッ
「あ"あ"ぁぁぁぁ」
ガタンガタンッ
扉半分は家具で埋め、見えている半分の扉部分に背中を預けている。
我ながら、扉をしっかりバリケードで埋めないあたりに未練というか、情けなさを感じる。
ドカンッドカンッ
扉の振動に背中を預けている。
かれこれ3日はずっとこの調子で打撃音が続いている。
俺はその打撃音と振動を背中に感じながら、床の上にあるペットボトルに入った水をボーッと眺めている。
残りは満タンの600mlが1本に、残り僅かな飲みかけのペットボトルが1本。
その中に入っている水も、扉の打撃と共に僅かに振動している。
以前に、学校でパイプ椅子を運んでいる時に扉を椅子の足で破ってしまった事がある。
その時に見た、扉は屋外と屋内をへだてる扉は頑丈にできているが。
室内と室内をへだてる扉は薄い板と板を貼り合わせ、中は空洞という作りになっている。
その気になれば小学生だって蹴破れるようなちゃちな構造だ。
いま
俺の命を護っているのはそのちゃちな扉だ。
扉を叩く打撃音の主。
扉の向こう側には、俺に喰い付いて、喰い殺そうとしている正気を失った人間がいる。
その人は
非常に親しかった人間で。
僕が産まれた時からずっと一緒にいた人間で。
幼い頃は俺のオムツを変えた人間で。
俺に自らの乳を飲ませた人間で。
俺に物心が付けば常識を教えた人間で。
俺が年頃になれば学校に送り出した人間で。
俺を18歳まで育ててくれた人間だ。
その人が今。
正気を失って俺を喰い殺そうとしている。
扉を引っ掻き、殴り、叩いて。
俺を喰い殺すために口から泡を吹いて唸り声をあげている。
俺はそんな扉に背を預けて座り込む。
恐怖と
悲しみ
悔しさ
後悔
思い出
それらが溢れる。
涙に形を変えて。
溢れる。
どうすりゃいいんだ。
どうにかなんねぇのかよ。
母親をこのままにはしておけない。
だけど
母親を
正気を失い
治る見込みも無い
それでも
母親を自分で手にかける
それが出来なくて3日もこうしている。
頭がオカシクなりそうだ。
今すぐにここから逃げだしたい。
だけど、母親をこのままにしておけば誰かを襲い。
誰かを殺し。
誰かに殺されるだろう。
いや、ここから出られなくて衰弱して死ぬか。
いずれにしても、母親が自分の見ていない所で誰かを殺すのも、誰かに殺されるのも、死んでしまうのも嫌だ。
それなのに
決断出来ずにずっとここで膝を抱えている。
「タケシ、生きなさい。 どれだけ辛くても生きなさい。 お願いだから、生きて、生きて、いきて……」
ふとした拍子にフラッシュバックする。
死の間際、母親の遺言。
それはほんの3日前の出来事。
俺はもう、死にたい気持ちでいっぱいだ。
カツンっ
カツンっ
顔を上げた、窓に目を向ける。
カツンっ
気のせいじゃない、テレビ台の後ろの窓から聴こえる。
ナニかが窓に当たる音がする。
立ち上がり、鍵を外してすりガラスの窓を開く。
一軒家の2階、開いた窓は隣の家との間に面した窓。
下を見ると30才くらいの丸坊主の男がこちらを見上げていた。
「あー、こんばんわー」
当たり前のような顔で軽く頭を下げて挨拶された。
「…… こんばんわ」
反射的に言葉を返した。
こんばんわ。
妙な気分だ。
時刻は分からないが外はとっぷりと日が暮れている。
だから"こんばんわ"という挨拶がおかしい訳では無い、だけど、"こんばんわ"という単語に違和感を感じた。
世界がこんなになってから、挨拶という物を初めて聞いた気がする。
そうか、自分の中で挨拶という物がもう既に死語になっていたのかもしれない。
「一応、安全な場所があんねんけどよかったらどないかな?」
男は、この世界では誰もが喉から手が出るほど欲しがる物をどこか申し訳無さそうに提示した。
── 安全、か。
ガタンガタンっと後ろの扉が今も砕かれんばかりに叩かれている。
ここは安全とは言えない。
だけど母親を置いて、ここから逃げ出すのか?
母親は間違いなくそうして欲しいのかもしれない。
今際の際にも言ったのだ、「生きろ」と。
ガタン
ドカンっ!
扉が開いた。
鍵は無い扉だ、乱雑に扉を叩いていた手が偶然に取手にかかって開いたのだろう。
母親が、開いた扉の隙間から顔を差し込む。
バリケードに本棚や机を扉の前に置いているので10cm程しか隙間はない。
母親が隙間に手を差し込んで空を掻く。
ぬらりと扉の隙間から出た顔は目が血走り、赤茶けた皮膚。
優しく、朗らかだった面影は無い。
「おいっ! 大丈夫かっ!?」
外から男の焦った声が聞こえる。
「大丈夫です」
窓から少し顔を出して答える。
振り返ってもう一度母親の顔をじっと見る。
俺の姿を見た母親はさっきよりも飢えた殺気を放って俺を喰い殺そうともがいている。
無言で目を逸らし、床に置いてあったリュックを拾い上げてチャックを開ける。
無造作に置かれていたペットボトルの水を取り上げてリュックに入れ
ゴカンっ!!
扉が蝶番から外れ、バリケードにしていた机の上のカラーボックスを押し倒した。
母親は斜めになった扉を乗り越えようと身を乗り出すと扉が滑り、転んで机に顔面を強打して机の向こう側に転がっていった。
リュックに水を入れ、それだけを持って窓を閉めて鍵を掛け、急いでベランダの窓を開けて雨戸をひらいて外に出る。
すぐに窓を閉めようとしたが既に母親が部屋に入り俺のTシャツの襟を捕んで凄まじい力で引っ張る!
「ぐあっ」
首が締まる!
咄嗟に後ろ蹴りで母親の腹を捉えるとビリリッという音と共に手が離れた。
渾身の力で蹴った、母親は勢いよく部屋の端まで転げて壁にぶつかる。
窓を閉め、雨戸を締めると向こう側からドカンっドカンっと窓を叩く音が響く。
窓から身を乗り出すと下にはサンルームがある、体を手摺から乗り出してサンルームの屋根に足を乗せる。
サンルームの端に移り、ゆっくりと地面に降り立った。
「上にゾンビがおったんか?」
男が小声で話しかける、間近に見る顔は小綺麗な丸顔。
男前と言えなくもない。
「はい」
「服エライ事なってるけど、噛まれんかったか?」
背中に手を回して触るとTシャツの大部分が破れていた。
「はい、噛まれてはないです」
玄関に行き、扉をそっと開ける。
「開けて大丈夫なんか?」
男を見て頷く。
家には母親しかいない、その母親は今2階の自分の部屋にいる。
音を立てずに1歩だけ中に入り、靴を持って直ぐに閉めた。
玄関に鍵をかける。
「行きましょう」
バリンっ!!
2階から窓の割れる音が響いた。
ガンガンガンっと雨戸を叩く音が聴こえる。
「行こか、ここにおったらあの音でなんぼでもゾンビ共が集まって来てまうわ」
靴を履いている間に男は通りに出て左右を見回している。
靴を履き終わり、男の背中まで小走りで近寄る。
振り返って見上げる。
10年以上を過ごした家を離れる。
世界がこんなふうになっていなければ
母親があんなふうになっていなければ
こんな惨めな気持ちで家を離れる事はなかっただろう。
本当に母親をあのままにして行ってしまっていいのか……
「こっちや」
少しの逡巡のあと、叩かれる雨戸から視線を外して足早に去った。
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