マニュアル・トークとフリー・トーク

 この世に星の数ほどある接客業&営業職には、マニュアル・トークというものがある。私が経験した職業の中でもっとも数が少なかったのは五つ、もっとも多かったのはファイル数冊分だった。ただし、ファイル数冊の時に勤務していたのは、とあるコール・センターだったので、手元の資料を参照しながらの対応だった為、さほど困ることもなかった(勿論、要領は必要だったが)。

 ただ、丸暗記しなければならないマニュアル・トークがもっとも多かったのは、宝石屋のお姉さんの時である。

 項目別に分かれたマニュアル・トークが、全部で幾つあったのかはすでに覚えていない。おそらく百とは言わなかっただろう。基本は、丁寧で上品な言葉遣い。そして、お客さまに対して否定的な言葉は使わないこと。加えて業種柄、お客さまを褒めて・褒めて・褒めちぎることが要求される内容である。なので、時に「宝石は資産にはならないし、食べられるものではないので、無理のない範囲でお気に召すものをお選びください」と言ってしまう私のトークは、会社的には超NGなのだ。

 新人社員は、このとんでもない数のマニュアル・トークを、一〇〇%暗記する事が義務付けられる───が、問題児ならぬ、問題社員がここに存在した。

 私の記憶力は、平均値からいえばさして劣る方ではないと思う。問題は、そこにはある種のフィルターというか、無意識下での取捨選択が存在することだ。具体的にいうと、興味があることならば、初見でほぼ一〇〇%、必要なことなら八〇%は覚えられる。ただし、必要と思えないこと&あとで参照すれば良いことに分類される残りの二割が、全く覚えられないという代物しろものだ。高校時代からの友人は、『それはあんたが真剣になっていないからだ』というのだが、これでも結構真剣に覚えようとしているのだ。

 加えて、各種接客業を経験すると判ることだが、接客というのは十人居れば十人分の対応、百人居れば百人分の対応バリエーションが求められる。故に、マニュアル・トークだけではすぐに手が尽きる───という自論が、更に暗記の邪魔をしていたともいえる。

 それに、マニュアル・トークが不要というわけではないのだ。会話の導入部分として重要な上、おしゃべりが得意&好きな店員とお客さまばかりではないという事実が、確かにあるからだ。典型的な接客を望むお客さまには充分有効で、店員側の失言が少なくなるという大きなメリットがある。変幻自在のトークでキャラ売りしている自分は、当然失言をする確率が高いことも間違いではない。


 そんなこんなで業種故の縛りは多いが、接客業の楽しさはやはりお客さまとの会話だと、私は思っている。例えば、こんな事があった。

 真珠のチョーカーを熱烈に求めていらっしゃるお客さまが来られ、たまたま私が接客することになったのだ。お母さまと来店されたその方は三〇代半ばぐらいの女性で、加えてステキに豊かなデコルテをされていており、間違いなく真珠のチョーカーがお似合いになる方だった。

 一応、私も女性の端くれなので、『似合う』と判っている商品の中から、『更によく似合う』物をコーディネイトしていくのは楽しい。しかも、「他の宝飾品には興味がないので、真珠だけは一生ものを」とおっしゃるその方は、金額に頓着とんちゃくされなかったのだ。結果、チョーカーとしては異例の一〇mm超えの粒の商品を選ばれ、それがまた素晴らしく良くお似合いだった。

 そして、精算等の段階に至り、保証書や領収書を発行する為にお名前を伺って、「あら?」とつい呟いてしまった。

 「どうかされましたか?」とお客さま。「いえ、つかぬことを伺いますが、お誕生日は六月ですか?」と私。

「ええ、だから真珠は誕生石なので(拘りました)」

「勿論、そうでございましょう。ですが、お名前がまたみやびで───元からの姓名でいらっしゃいますか? お名前はお母さまがお付けになられたので?」

「いえ、亡き父が」

「それは、さぞ風情ふぜいを解する、いきなお父さまでいらしたのでしょうね」

「ありがとうございます。そういってくださったのは、店員さんが初めてです」

 ───と、この会話の間、店長も同僚もお母さまも、きょとんとしていた。私とお客さまだけで通じ合って円満に別れたあと、説明を求められたのはいうまでもない。

 つまり、そのお客さまの姓は月にまつわる名字で、お名前が桂子さまだったのだ。誕生石の真珠は常に月の象徴である上、恵子でも慶子でも圭子なく、『桂子』───中国の伝説に、月には大きなかつらの木が生えているとされているのだ。


 こういうトークはマニュアル・トークでは出来ない上、ピタリとはまると『自分、グッジョブ』と嬉しくなる。それが、接客業の醍醐味だいごみというものだろう。

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