海の中

穀粟

海の中

 私は海の中に飛び込んだ。

 下へ下へどんどん沈んでゆく。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 小さな魚達が泳いでいる。

 自由なように泳いでいる。

 本当は海の中だけという制約があるのに。

 きっとそれは海の中しか知らないから。

 知っても、海の中だけでいいと思うだろう。

 あんなにも優雅に楽し気に泳いでいる。

 その先の死などは考えずに泳いでいる。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 寂しげに鳴いている。

 それを聞いて私も悲しくなる。

 あなたも寂しいんだねと思う。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 クラゲが漂っている。

 海の流れに身を任せ、生きている。

 死んでしまうのは海の流れのせいにするためか。

 自分で動くのを放棄して。

 きっとそれはあの小さな魚達の成れの果てだろう。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 今度は楽し気に鳴いている。

 それを聞いて私は悲しくなる。

 あなたも置いていくんだねと思ってしまう。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 鮫が廻っている。

 よく見ると片目が潰れてしまっている。

 いくら嗅覚が利いても、獲物を取るのに不便だろうと思う。

 この鮫は後に小さな魚になりクラゲになるのだろう。

 私がここで血を流したら食べてくれるかな。

 でも、ごめんね。

 私は落ちることしかできないの。

 もう捨ててしまったの。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 また寂しそうに鳴いている。

 それを聞いて私もまた悲しくなる。

 あなたも失ってしまったんだねと思う。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 海上を見上げている。

 そこには人がボートを漕いでいる。

 それでできた揺れでクラゲが動く。

 クラゲは喜んで踊っている。

 そこに積んである網で小さな魚を捕るのだろう。

 小さな魚はそれでも構わないように泳いでいる。

 そこに隠している銛で鮫を殺すかもしれない。

 鮫にとってそれは解放なんだろう、上へ上へと向かっている。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 まだ寂しそうに鳴いている。

 それを聞いて私は泣いてしまう。

 一回知ってしまったら最初より辛いよねと思う。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 大きな鯨に出会う。

 目だけで私よりでかい鯨と目が合う。

 その鯨は鳴いていない。

 この子も私と同じで捨ててしまったのかもしれない。

 それでも私を心配そうな目で見てくる。

 大丈夫もう大丈夫と思っていると、鯨は悲しそうに潜っていく。

 やっぱりあの子も捨てていた。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 別々の場所で何匹も鳴いている。

 それを聞いて私は泣き止んでしまう。

 みんな孤独なんだと思う。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 海の音が聞こえてくる。

 きっとこれは海の声なのだろう。

 海は孤独ではないと知る。

 小さな魚や漂うクラゲ、片目の使えぬ鮫に、大きな大きな鯨だっている。

 でもみんなはやっぱり孤独なんだ。

 海の考える孤独と私達が考える孤独は違うものなんだ。

 だからみんな寂しいのだ。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 とても力強く鳴いている。

 それを聞いて私はまた泣いてしまう。

 あなたは強いんだねと思う。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 太陽の光がここまで照らしてく。

 私を海の晒し者へと変えていく。

 酷いものだと思ったが必然とも思う。

 太陽は私を救おうとしている。

 縋れないのは私の弱さだっただろう。

 今はもう捨てている。

 ごめんね、もう遅いんだ。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 諦めずに泣いている。

 それを聞いて私は泣き疲れる。

 あなたの声はどこまでも届くのねと思う。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 チョウチンアンコウが潜んでる。

 光につられた小さな魚が食べられる。

 その光は希望なのだと信じて疑わずに近づいていく。

 小さな魚にとって悲劇でも、チョウチンアンコウにとっては喜劇であり。

 私はどちらの敵にも味方にもなれやしない。

 また謝って、言い訳を垂れて、落ちてゆく。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 他のクジラも鳴いている。

 それを聞いて私は安心する。

 あなた達はもうすぐ出会えるねと思えた。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 女の人が海に入ってくる。

 彼女も私と同じように捨てたのかと思う。

 しかし彼女は藻掻いている。

 あぁ、落ちてしまったのだ。

 私より価値のある人が落っこちたのだ。

 でも、ごめんね。

 もう戻れないの。

 落ちるしかできないの。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 疲れたように鳴いている。

 それを聞いて寂しくなる。

 あなた達でさえ救われないのかと思う。

 まだまだ底にはたどり着かない。



 海の底を夢想する。

 そこはきっと暗いけど、私を受け入れてくれる。

 そこはきっと、地上よりも息がしやすいのだろうと思う。

 もう捨ててしまったけど、今更とも思うけど。

 それでも私の希望はそこにある。

 そのために捨ててきたし、落ちている。

 まだまだ底にはたどり着かない。


 クジラが遠くで鳴いている。

 掠れた声で鳴いている。

 それを聞いても何もしない。

 あなた達ももう終わるのねと思う。

 まだまだ底にはたどり着かない。

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海の中 穀粟 @cokeawa

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