第17話 藤原小夜子さん
怪人影男爵の事件から一夜が明けました。中嶋くんは、いつも通りに店にやってきます。昨晩は、ほぼ寝ていないおかげで、頭が少し重いのです。
ドアノブに手をかけて、中に入ろうとした時。ふと視界に、黒い人影を認めました。はったとして顔を上げると、そこには藤原小夜子さんが立っていたのです。彼女は、初めて出会った時の服装とは一変し、薄暗い灰色のワンピースを纏っていました。その姿は、妖精ではありません。まるで影法師みたいに見えました。
「小夜子さん」
彼女は、深々と頭を下げました。中嶋くんもそれに倣って、頭を下げました。それから、二人は、まだ開店前の喫茶店『
中嶋くんはお湯を沸かし、そして小夜子さんにコーヒーをいれます。その間、彼女は、カウンターの席に座ったまま、ただ、じっと押し黙っていたのです。重苦しいような、でも、そんなに嫌ではない沈黙を味わいながら、中嶋くんは、丁寧に作業を進めて、それから小夜子さんにコーヒーを出しました。
彼女は「いただきます」と言ってから、一口飲み込みました。
「中嶋さんのコーヒーは、不思議なお味がしますね。心に沁みます」
「ありがとうございます」
小夜子さんは、それからボソボソと話を始めます。
「昨晩は驚かれたでしょう? 結局は、私たちの問題でした。そんなことに巻き込んでしまって、申し訳がなくて……どうしても、中嶋さんと、お話しがしたかったのです」
「いえ、それだけではありませんよ。結局、怪人影男爵はいたんだ。真夜さんの悪戯ではなかったということだ。つまり、藤原家だけの問題ではない、ということですよ」
小夜子さんは、じっとコーヒーに視線を落としていましたが、意を決したように中嶋くんを見上げます。
「結果的には、本当に現れましたけれど。しかし、事の発端は、真夜がしでかしたことです。こんな
「……僕には、それがいいのか、悪いのかは、わかりません。でも、小夜子さんが幸せならいいのだと思います」
中嶋くんの言葉は、小夜子さんの求めていた言葉なのでしょうか。彼女は、力無く微笑みます。
「私、中嶋さんには甘えてしまうのだと思います。あなたなら、そう言ってくださると思っているのです。宮城さんには、叱られますしね」
「あいつは、いいも悪いもないんだ。ただ、正しいと思ったことのみを口にする奴です。許してやってください。悪気はないんです」
「まあ。怒っているのではありませんよ。あの方は、私の中の中まで見透かしているようで、恐ろしいのです」
小夜子さんは、軽く息を吐いてから中嶋くんを見据えました。
「真夜には、なんと声を掛けたらいいのかわかりません。同じ屋根の下にいてもいいのだろうかと、悩んでしまいます。彼女も、私を持て余しているのでしょうね。しかし、それは当然のことだと思います。彼女は、私を憎んでいると思いますし」
「それでも、あなたは母親だ。それは
中嶋くんの言葉に、小夜子さんは「ふふ」と笑いました。
「なにか、おかしなこと言いましたか」
「いいえ。中嶋さんは、優しい方です。やはり、私の思った通りでした」
「小夜子さん……」
「こんな私ですが、また、ここにお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「もちろんですよ。顔を見せてくれると、僕も嬉しいです」
「まあ。そうやって、何人の女性を口説かれたんですか?」
中嶋くんは、「心外です」と言いました。
「嘘ですよ。困らせてみたかっただけなのです。中嶋さんに大切にされる
悪戯に笑みを浮かべる彼女は、なんの悩みもないかのようにも見えます。彼女は、少し道を外れたのかもしれません。けれど、それはそれなのだな、と中嶋くんは思いました。この目の前にいる彼女が、彼女の本当の姿なのではないか、と思ったのです。
「小夜子さん。色々なことがありましたが、あなたと出会えたことは、なにかの縁に違いないと思います。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
そう言って、作業台に両手をついて、頭を下げると、小夜子さんは、目を丸くしましたが、すぐにそれを細めて笑いました。
「こちらこそ。中嶋さん——そして、おじさん探偵団の皆さん。よろしくお願いします」
二人は顔を上げて視線を交わしてから、にっこりと笑い合いました。
— 第1章 了 —
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