彼からの指輪

秋空夕子

彼からの指輪

 その日、直子は一年前から付き合っている恋人の車に乗って海に来ていた。

 天気は快晴で気候も穏やかな浜辺には彼女たち以外にも何人かいたが、泳ぐには肌寒いとあってその数は少ない。

 潮風を満喫していた直子だったが、恋人がおもむろに取り出した箱を見て驚いた。

 その中には指輪が収められていたのだ。

 恋人からのプロポーズ。

 だが、直子の胸には喜ぶよりも困惑が強かった。

 以前から彼女は恋人との性格や価値観の不一致を感じていて、交際関係を続けていくか悩んでいたのだ。

 そんな状況で結婚など考えられるわけもない。

「ごめんなさい、結婚はまだちょっと……」

 その直子の言葉は恋人にとって予想外のものだったらしく、酷く驚いた様子だった。

「え、そんな何で?」

「だからまだ結婚とか早いと言うか、真剣に考えたこともないし」

 あくまで悪いのは自分だという体で直子はプロポーズを断った。

「それじゃあ、今考えればいいじゃん」

「いや、そんな大事なことすぐには決められないよ」

「……わかったよ」

 彼も渋々それに納得してくれたが、先ほどまでとは違いいたたまれない空気になる。

 そのまま彼女たちは帰ることになった。

 車に向かいエンジンをかけてからも二人の間には気まずい空気が流れていく。

 プロポーズを断られたことがよほど堪えたのか恋人の運転はいつになく荒い。

 直子はそれに気づきながらも後ろめたさを覚えていた彼女はそのことを指摘せずに我慢した。

 けれど、目の前に迫る赤い信号は流石に無視できなかった。

「ちょっと赤だよ!」

 直子が叫ぶが恋人は減速する様子もなく通り過ぎてしまう。

 人通りは少なかったことが幸いだったが、一歩間違えば事故に繋がっただろう。

「危ないじゃん」

 そう注意する言葉も彼は無視する。

 不機嫌そうに前を見るだけだ。

(……こういう人だったんだ)

 直子の中で恋人への想いが冷めていく。

 けれどもこんな時に喧嘩したら本当に事故を起こしてしまいそうで、結局家に着くまで彼と口をきくことはなかった。


 それからお互いに連絡は途絶えがちになり、三ヶ月もする頃には自然消滅していた。

 円満であったとは言えないがそれでも大きなトラブルもなく無事に別れられた、とこの時の直子はそうおもった。


 ところがそれからまた一ヶ月後、ある小包がその元恋人から届いた。

(何だろう? もしかして、彼の家に置いてあった私の荷物、とか?)

 身に覚えはないが、もしかしたら何か忘れていてそれを届けてくれたのかもしれない。

 そう思って中身を確認すると、なんとそこに入っていたのはあの日彼女に渡そうとしていた指輪だったのだ。

(嘘……やだ、何よこれ)

 どうしてプロポーズに使った指輪を元恋人に送ってきたのかその意図がわからず、直子は混乱する。

 キラリと光る指輪がとにかく不気味であった。

 連絡先はまだスマホに残っていたので文句を言おうと思えば言えたが、それよりも彼と関わりたくないという気持ちの方が大きく、連絡する気にはなれない。

 これはプロポーズを断った自分に対する嫌がらせだろうと直子は思った。

 指輪を捨てることも考えた彼女だが、仮にも値の張る品だ。

 弁償しろといわれでもしたら面倒くさいので、指輪を送り返すことにした。

 これで今度こそ彼との縁が切れたと思った直子だが、指輪はまた彼女の元に届いた。

 それもまた彼女は彼のところに送り返したのだが、指輪は何度も彼女のところに送られてくる。

 ここまでくると常軌を逸した物を感じる直子だったが、なおのこと指輪を手元に置いておくのが恐ろしく、だからといって捨てるのも怖いので必死に送り返した。

 それでも送られてくる指輪に、とうとう直子は引っ越しを決意する。

 直子は翌日から時間を作っては不動産を回り、職場からそう離れていない場所にあるマンションへと引っ越した。

 電話も着信拒否したし、新しい住所は家族にしか伝えなかった。

 そうしてようやく指輪は送られてこなくなり、彼女の平穏な暮らしが戻ってきたのだ。




「そういえば彼とよりを戻したんだね」

 引っ越しから一ヶ月後、友人がそんなことを言った。

「え? 何の話?」

「何って、プロポーズ断って別れた彼と、またやり直すことにしたんでしょう?」

 友人は不思議そうに直子を見るが、直子からすれば全く見に覚えのない内容だ。

「いや、本当に何の話? 私と彼が復縁? 私、彼とはもう何ヶ月も会ってないよ?」

「え? いやいや、そんな嘘つかないでよ。彼からの指輪を受け取って、また恋人になったんだって聞いたよ」

「だ、誰がそんなことを?」

「彼が言ってたけど」

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。

 まさかとは思うが、あの指輪を送ってきたのはやり直したいというサインだったということか。

 それで指輪が返却されなかったから、自分たちの関係は以前に戻った。そう思っているのだろうか。

(いや、でも……荷物って受取人がいなかったら返却されるよね? それとも手違いで紛失しちゃったとか?)

 どちらにしても誤解だと説明しようとした直子だが、次の友人の言葉に息が止まった。

「それに私、二人が歩いてるの見たし」

「……え?」

「昨日、彼と一緒に歩いてたよね? 直子は気づかなかったみたいだけど」

「……いや、歩いてないよ。人違いじゃない?」

「えー、確かに後ろからだったけど、ちゃんと直子と彼だったよ」

 友人は一体何を言っているのだろう。

 自分をからかっているのかと思ったが、彼女の顔はこんな冗談を言う子ではない。

 また友人の方も直子が嘘を言っているわけではないと感じ取ったらしく、その後はなんとも言えない空気のまま二人は別れることになった。


(でも本当、どうなっているんだろう?)

 帰り道、直子は友人から聞いた話を考えていた。

 元彼が自分と復縁したという話を周囲にして、友人も自分と元彼が一緒に歩いていたのを見たと言った。

(……やっぱり、一緒に歩いていたのを見たっていうのは、勘違いだろうな。誰かを私達と見間違えたに違いない。問題は彼が私と復縁したって言いふらしていることだけど、これはどうしよう……)

 そんなことを考えていると、道路の向こうに元彼の後ろ姿を見つけた。

 悩みの元凶の姿に、直子の眉間にシワが寄るが、彼の隣に誰かいることに気づいて視線を凝らす。

 それは女性だった。元彼と同じく後ろ姿なので詳しくは見えないが、背格好は直子と同じぐらい。髪の長さも服の趣味も、直子とよく似ている。

(もしかして、新しい彼女?)

 友人が見たのは、彼女ではないだろうか。

 それで自分と見間違えたに違いない。

 直子は肩透かしを食らったような気持ちになって、次いで怒りの感情が芽生えた。

 こっちはあの男のせいで引っ越しまでしたのに、本人は新しい彼女と幸せになろうとしている。

 一言ぐらい文句を言っても許されるのではないのだろうかと二人を睨みつけていたのだが、あることに気づく。

 ふと、女性が元彼の方を向いて横顔が見えたのだが、それが自分と瓜二つだったのだ。

(え……私?)

 女性はすぐに前を向いたので顔は見れなくなったが、それでも自分の顔を間違えるはずがない。

 背中に冷たいものが走り、直子は何も見なかったことにして家に帰ることにした。

 その途中で、一度振り返ったが二人は直子に気づく様子はない。

 ただ、女性の左手の薬指にキラリと光る何かを見つけたが、それが例の指輪かはわからなかった。




 元彼が行方知れずとなったのは一週間後のことだった。

 元彼は家族や友人たちに直子と寄りを戻したと言っていたので、彼の行方についていろいろと聞かれたが、直子は自分たちは復縁していないし何も知らないと答えるしかなかった。

 いろいろと疑われもしたが、元彼がいなくなった当日、直子は普段どおりに仕事をしていたし不審な様子もなかったことから元彼の失踪には関わってないと判断された。

 ただ一つ、直子があの日見た自分そっくりな女性については何も話せていない。

 これ以上関わって変な疑惑をかけられるのが嫌だったこともあるが、直子自身あの日見た光景を信じられていなかった。

(もしかしたら、彼が指輪を受け取ったと言っていた『私』は『私』の振りをした別の何かで、彼はその何かに連れて行かれたんじゃ……)

 そんな荒唐無稽なことを考えてしまったが、結局彼が見つかることもなく、真相はわからないまま。

 あれからもう指輪が送られてくることがないことだけが、唯一の救いだろうか。


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