少女楽園
柊 秘密子
第1話 ひなぎく
彼女は、とてもしなやかな腕を持っていた。
細く長い指で、ピアノの鍵盤をたたく。才能があったようで、物心つく頃に彼女が興味を持ってからというもの、ピアノの腕はぐんぐんと上がっていった。
ショパン、モーツァルト…特に彼女はリストを好んでいて、夕方…日が傾き夕焼けの茜色と宵の藍色、星が瞬く頃には、彼女の愛の挨拶が施設を彩るのであった。
彼女には、親というものが存在しない。
…いや、この施設にいるものはみな、親の顔を知らないものたちばかりだ。産まれた時からこの場所に集められ、世話係を務める大人の女性達に育てられて生活する。そして、そこにいる間は一定の年齢を迎えると体の成長は止まってしまう。
胸は膨らみ身長も大人とは変わらないものの、子宮は未成熟なまま。
この施設と、少女達を必要としている存在…カミサマにみそめられた時、はじめて少女の肉体は女へと成長を遂げるのだ。
カミサマとは何なのか、少女達は知らない。
ただ、未成熟な少女を好み、一定の年齢を迎え…かつ、その中でより美しい少女を選び娶る。
男なのか女なのか…そもそも人間であることすらも分からない。
ただ、それは誉であると、少女達は産まれた時から大人達や…姉として慕う少女達に刷り込まれて生きてきた。
カミサマに見染められることは誉。
ここでは当たり前のことではあるが、冒頭に語ったピアノの名手である彼女…ヒナギクと名付けられた少女は、なかなかそれを受け入れられずにいた。
「アザミちゃん、アザミちゃんはとっても美人だもん…きっとカミサマに見染められるわね。」
「やめてよ、カミサマは私みたいな老け顔は好きじゃないわ。どれかというと、あんたみたいな子供の顔が好きよ。」
夕暮れ時、いつものように愛の挨拶を弾き奏でながら、親友であるアザミという名の少女と、この会話をするのが彼女の唯一の楽しみであった。
アザミはとても美しい少女だ。
くっきりとした目鼻立ちと、高い身長、大きく膨らんだ胸…色香のある姿形は、少女達の憧れの的であった。施設に住む少女たちは皆、アザミの隣にいる事を望む者も少なくなく、ヒナギクが彼女のそばにいることを不満に思う者もあった。
しかし、ヒナギクはピアノ以外に興味を持つことはなかった。
ヒナギク自身も、くりくりとした丸い目に、ふっくらとした頬…癖の強い髪の毛と、18の年齢のわりに幼い容姿もあいまり愛らしい少女であったが、カミサマに見染められる事に興味も持たず、施設の憧れの的である絶世の美少女、アザミと友人であることも、本人にとっては些細なことであった。
それが、アザミにとっては心地よく、彼女にとってヒナギクが唯一の心を許せる存在となっていた。
「私はいやだわ。カミサマの所に行ったら、もうピアノは弾けなくなっちゃいそうだもん。」
「そんな事ないんじゃない?カミサマだし…もう毎日だって弾き放題よ。なんなら…ええと…あの人、サクラさんだっけか。先にカミサマに娶られた人。あの人と連弾できるんじゃない?」
「ああ…それなら、いいなあ…」
二人だけの音楽室。
名前もよく知らない、華やかな服を着たおじさんの肖像画に見守られながら、軽やかなピアノの音を奏でる細い腕は、しなやかに鍵盤を撫でる。
椅子を引っ張り、隣へアザミはむっちりとした足を組んで座る。煽情的に見える仕草も、今この時は少女らしく見えた。
ふたりは、ずっと一緒にいられるものだと思っていた。
「え。嘘ですよね、私がカミサマの元へ行くなんて。私は美しくなんて…」
「いいえ、カミサマはあなたを望んでいます。今夜、カミサマに全てを捧げるの。よかったわね。」
朝、教室で、ヒナギクは大人にカミサマに娶られる事を告げられた。
周りの少女たちは、拍手で喜ぶ者…嫉妬に表情を歪める者とさまざまだったが、ふたりだけ…ヒナギクとアザミだけは、沈んだ表情であった。
「よくなんか…!」
言いかけて、大人に「やめなさい。」と嗜められる。ヒナギクは、ビー玉のように丸い瞳を潤ませ、禊のために入浴し、身支度を整え、誰にも会うことはなく一人で部屋の中で時が来るのを待った。
月が煌めく、夜の闇の中。
数人の女達に囲まれ、ヒナギクはカミサマの元へと向かう。着たこともない華やかなドレス、自分でするメイクも人に施してもらい、今の彼女はとても愛らしく可憐で…その名の通りヒナギクのようだった。
「ヒナギク。」
「アザミちゃん。」
カミサマの元へと向かう少女を送り出すチュベローズの香りの中、音楽室を通り抜けるヒナギクをアザミは静かに呼び止めた。
視線で大人達に了承を乞うと、首を振り許されることはなかった。
ぽろりと、涙をこぼしながらヒナギクは、施設の奥…古びた教会の奥へ奥へと消えていく。
ヒナギクの姿は、それ以降誰も見ることはなかった。
施設から、ピアノの音色が消えた日であった。
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