過去にさよなら
雨上がりの空
現在から過去
専門学校を卒業して、実家から離れた会社に就職した。就職が決まり、人生で初めての1人暮らしに胸を膨らませた。
優は早く実家を出たかった。ヒステリックな母親、酒浸りの父親と20年間暮らし、毎日が苦痛だった。
物心ついた頃から、この居心地の悪い家を1日も早く出ていくことが優の夢だった。
家での楽しみは、少ないお小遣いを貯めて買った漫画本を読むことだった。
よく妄想もしたし、何より寝るのが好きだった。
夢の中なら、辛い現実と向き合わなくて良かったからだ。
夢も毎日のように見た。
夢を夢占いで調べて一喜一憂したり、今日はこんな夢が見たいなぁと寝る前に願ったり。
精神が不安定な時は、よく追いかけられる夢を見た。追いかけてくるのが何なのか、はっきり見えないからそれも怖かった。
引越し先では、生活用品を揃えたり配置を決めたりと、毎日が慌ただしかった。
引越しは想像以上に大変だったけど、優はこれまでには感じたことのない大きな希望に包まれていた。
(やっとここで自分の好きなように暮らせる。あー幸せ。)
入社式を終えた帰り道、近くの公園の自販機でミルクティーを買ってベンチに腰掛ける。
ベンチの端に1枚の名刺が置いてあるのに気付く。
「往復屋 ○○県○○市…」
店の名前と住所だけが書かれている。
(この名刺いったい何だろう。)
用心深い優は触る気もしなかった。
ケータイをいじりながらミルクティーを飲み、これからの新生活を想像する。
不安よりも期待の方が大きかった。
ついつい顔がにやけてくる。
家に帰ろうと思い、よいしょと立ち上がり自販機に付いてるゴミ箱に缶を捨てる。
さっきの名刺が目に入り、公園を見渡して誰もいない事を確認してから、手に取った。
(少し気味悪いけど気になるし貰っちゃうか)
拾った名刺をコートのポケットに入れ、家に向かう。
入社してあっという間に1ヶ月が経った。
想像以上に働くのって大変だなと実感した。
まだまだ覚えることが沢山で、家に帰ってはメモを見返して自分なりに勉強する日々。
会社の人の性格も段々分かってきた。
聞きやすい人、聞きにくい人、穏やかな人、ピリピリしてる人。
(会社も学校と同じだなー。色んな人がいるし、毎日顔合わせるし、疲れるなぁ。)
それでも、自分の力で頑張って生活していることに心が満たされていた。
5月のゴールデンウイークは実家に帰らずに一人のんびり過ごすことに決めていた。
母親からの電話とメールの帰ってこい攻撃があったが、「予定があるから帰らないから」と拒否した。
壁にかけたコートを見て、拾った名刺を思い出した。ずっと入れたままにして忘れていたのだ。
名刺に書かれた住所を見ると、ここからは電車で2時間ほどの所にある。
ホームページはないようだ。無性に気になって仕方なかった。
(時間もあるし、日帰りで行ける距離だし、行ってみようかな)
普段は行動力に乏しい優だが、興味がある事にはそれを跳ねのけてしまう一面もある。
明日の朝早い電車で名刺の住所に向かう事にした。
夜は妙にワクワクして寝付けなかった。
もともと寝付きがいい方では無いが、目を閉じてもあの名刺が気になってしまいグルグルと頭の中で巡っていた。
明日の事を想像しながら、深い眠りについた。
目覚ましが鳴った。
今日は楽しいことが待ってるからか一回で起きれた。いつもこうだったらいいのにと思いながら、身支度をする。
少し寝不足で体が重いけれど、プチ旅行気分で楽しもう。
6時25分発の電車に間に合うように、駅中のコンビニでお茶とあんパンを買う。
連休だからか、少し人が多いような気がした。
長椅子に座ってホッと一息つき、スマホで音楽を聴きながらボーっと景色を眺める。
車窓から差し込む日差しが強くなってきて、優の頬を赤く染めていく。
8時33分、目的の駅に着いた。
見渡すと店がポツポツあり、そんなに都会的ではないなという印象だ。
便利でも不便でもない、程よく過ごしやすそうな街だ。
(まだ9時少し前だから、喫茶店見つけて少し休もうかな。)
少し歩くと、昔ながらの外装の小さな喫茶店「Time」があった。
ここは8時から開いてるらしい。
早速ここで休むことにした。
コーヒーを頼み、スマホで「往復屋」の地図を検索する。
ここから歩いて20分ほどの所にあるようだ。
コーヒーを飲み干し、胸を踊らせながら店を出た。
さっきの喫茶店を出て5分ほど歩くと、車が通れないような細い路地になった。
地元の人の通り道のような、よそから来た人は一度入ると迷うような道だった。
手入れのされていない木が無造作に立っている。
少し不安になりつつも「往復屋」について妄想を膨らませながら歩く。
(この店の名前から想像できるのは…宅急便屋さん?郵便屋さん?往復屋って名前だし、たぶんそんな感じの店だよね。)
ケータイの地図を見ながら歩いて約20分、とうとう店の前に着いた。
外観は地味な薄紫色の1階建ての店。
看板が無く、玄関付近を見ても何も書いてない。
今は誰も住んでない空き家のようにも見える。
(せっかくここまで来たんだし、入ってみよう。でも、あードキドキする。)
ガラガラとドアを開け少しキョロキョロしながら、「こんにちはー」と挨拶をした。
だが、返事はない。
もう一度挨拶をしようとしたら、スーツを着たスラッとした女性が奥から歩いてきた。
「こんにちは。ようこそお越しくださいましてありがとうございます。」
優は、この店の雰囲気に似合わない人が現れたので一瞬ドキッとした。
ニコッと笑顔で挨拶をされ、反射的に優もニコッと返す。
「突然すみません。実は、この間名刺を拾ったんですが、書いてあった住所を調べて来たらここに辿り着いたんです。」
「そうでしたか。よくいらっしゃいましたね。」
人当たりの良さそうな女性は50歳前後くらいだろうか。胸のネームを見ると【先見】と書いてある。
(せんけんさん?さきみさん?何て読むのかな)
「失礼ですが、こちらは何のお店なんですか?配達ですか?」
優の質問にしばらく答えず、少し距離のあった女性は優に近づく。
「いいえ、配達は行っておりません。ちょっと変わったお店と言いますでしょうか…。少しこちらにかけてお話しましょうか。」
近くの椅子に座り、向かい合う。
「早速ですが説明させて頂きますね。ここでは、お客様が過去に戻ってやり直したい事を私どもがお手伝いするんです。誰でも一度は戻ってやり直したいと考えたことがあると思います。ただ現実的に考えるとありえない事ですよね。それに今はインターネットに一人でもその事を載せると、あっという間に広がりますから。看板やホームページを出さずに、本当に必要な人がここに辿り着くようにしていた訳なんです。」
「じゃあ、私がこの名刺をたまたま拾ったからここに来れたんですね。過去に戻るなんて、漫画や小説の世界じゃないですか。普通ならありえないですよね。」
「はい。言ってもすぐに信じて貰えない事は分かってます。本当に過去に戻りたい人がここに来れるように特別な名刺を使っていたんです。いまその名刺、お持ちですよね。」
優はポケットの名刺を取り出す。名刺を見ると、何も書かれていない真っ白な紙になっていた。
「あれ?確かにこの名刺に、お店の名前と住所が書いてあったのに…」
「この名刺は、ここに辿り着いた途端に情報が消えるようになっているんです。お客様が拾われたのも、決して偶然ではありません。」
「そうなんですか?たまたま公園のベンチで拾ったんです。それも偶然ではなくて必然なんですか?」
信じたいような信じられないような、現実味をおびない不思議な話を半信半疑で聞いていた。
(これって夢じゃないよね?お酒飲みすぎて寝落ちしちゃったとか?)
色んな思いが頭の中でグルグルと行き交う。
大きめの深呼吸をして、優は少しでも平常心を保とうとする。
「大丈夫ですか?話を続けてもよろしいですか?」
優は小さくうなずく。
「では続けますね…。この名刺は、過去に戻りたいと強く願う相手に届く名刺なんです。誰かが置くのではなく名刺の意思で、です。名刺にも意思があって、必ずここに来る方を選んでいます。この特別な名刺は一枚しかありません。確実に来る相手をきちんと分かってるんです。」
「名刺にも意思があるんですか。なんだか怖くなってきました。」
「そうです。怖がるのも仕方ない事です。
あっ、すみません。自己紹介を忘れていましたね。わたくしサキミと申します。
よろしくお願いします。
お客様のお名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「はい。わたしはユウといいます。
よろしくお願いします。」
(センケンさんじゃなくてサキミさんか。)
サキミはニコッと優にほほえみかけると、
「では早速ですが、ユウさん。過去に戻りますか?」
サキミはじーっと優の目を見る。思わず目をそらす優。なかなか言葉がでてこなかった。
「少しお時間を差し上げますので、考えてみてください。私は奥の方におりますので。」
優は小さくうなずき、考え込んだ。
(過去に戻ってやり直したいことなんていっぱいありすぎて…どこに戻ったら私は本当に幸せになれるんだろう。一人暮らし始めて、ようやく心から幸せだと思ったんだもん。本当ならもっと小さいうちから幸せを感じたかった。)
頭をかかえて、ふさぎ込む。
過去を振り返ると、嫌な記憶が一瞬で頭を埋め尽くす。
ヒステリックな母によく叩かれて、いつも怯えていた。両親は毎日喧嘩ばかり。父は家にいる時はほとんど酔っていて、酒に飲まれて暴れる毎日。
家の中も穴だらけで、いつも散らかっていて、最悪な環境だった。
両親とはまともに話したことがない。
普通の会話が分からず、学校では普通の学生を装っていた。それなりに話す友達はいたが、本音を話したことはない。
毎日が苦しかった。逃げたかった。
この世界に産まれたくなかった。
苦しかった過去を思い出し、優の目からは涙がこぼれていた。胸がキューっと痛くなり、拭っても涙がボロボロこぼれ落ちる。
優は今もなお過去に囚われ苦しんでいた。
持っていたポケットティッシュで鼻をかみ、一呼吸つく。
(はぁー。あの頃の私、毎日よく耐えてたよ。頑張ったよ。)
愛情を注がれなかった子供は、いくつになっても過去の記憶に苦しめられる。
心に傷を負い、苦しい日々に耐え抜き、それでも立派な社会人になった優のような人間は、傍から見ても分からないだけで案外たくさんいるのかもしれない。
辛い記憶ばかりだが、一つだけ楽しかった思い出がある。それは、近所に住んでいたお姉さんがとっても優しくて、よくお姉さんの家に遊びに行っていた事だ。
当時、優は5歳くらいで、お姉さんは30歳前後くらい。遊びに行くたびに、オレンジジュースとお菓子をくれて、人形遊びも一緒にしてくれた。
両親にはお姉さんの事は内緒にしていた。
もし話して、遊びに行くなと怒られたら嫌だったから。
(お姉さんと遊ぶようになる前は、父も母も仲が良かった。だから、幼稚園の時に戻って、二人に何があったか知りたい。)
立ち上がり、奥にいるサキミさんを探す。
「サキミさん。私、決めました。」
奥から現れたサキミは、優に手招きをする。
「ユウさん。こちらへいらして下さい。」
恐る恐る奥へ進むと、扉が見えた。
サキミは扉の鍵を開け、
「あちらの椅子におかけ下さい。いまからご説明させて頂きます。」
優はこれから起こるであろう不思議な出来事に、胸を踊らせた。
「ユウさん。過去に戻ること、決心されたようですね。」
「はい。…今までほとんど幸せだと思ったことがなくて、社会人になって一人暮らしするようになってからようやく本当の自分になれたというか。
20歳までの自分は本当に辛いことが多すぎて…。
思い出すたびに落ち込むんです。さっきも、過去を思い出して涙が止まらなかったんです。」
(サキミさんには、辛かった過去の話も話すことができる。話しやすくて、なんだか安心できる人だ。)
「色々お辛い過去があったみたいで、今まで苦労されましたね。ここで過去に戻ることで、これからさらにユウさんに幸せがたくさん訪れる事を願っています。」
「過去に戻ってやり直して、本当の自分の幸せをつかみたいです。人生をもっと楽しく、豊かに生きていきたいと思ってます。」
サキミは優しい笑顔でうなずく。
「では、いつに戻りますか。西暦何年、何月と教えてください。」
優は5歳に戻ることにした。
「はい。西暦●●年、●月です。5歳の時に戻りたいです。」
「かしこまりました。その前に…注意事項がございます。過去に戻ってから88分以内に、強く"帰りたい"と願わなければ現在に戻ることはできません。それでもよろしいですか?」
「…はい。お願いします。他には何か気をつけることってありますか?」
「いいえ。あとはございません。この事だけ気を付ければ大丈夫です。では、あちらのベッドに靴を脱いで横になってください。横になって眠ることで、過去に戻ることができます。それと、お好きな香りのアロマを焚きますが、何が良いでしょうか。こちらからお選び下さい。」
ラベンダー、ローズマリー、オレンジ・スイートの3種類からオレンジ・スイートを選んだ。
薄い紫色のシンプルなベッド。
靴を脱ぎベッドに横たわり、枕に頭をのせる。
ちょうど良い布団の固さで寝心地がいい。
(寝不足だからきっとすぐに寝ることができるだろう。)
「ではユウさん、過去の旅へ行ってらっしゃい。」
部屋の明かりが薄暗くなり、ほのかにオレンジの香りが漂ってくる。
自分の呼吸の音だけがスーっと聞こえる。
優は意識が遠くなるのを感じながら深い眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます