兎に誘われた猫

☀シグ☀

呼び出し


 日差しが和らぎ、蝉の声が聞こえ始めたある日の午後。

 窓を全開にして自室に清涼な風を迎え入れようと試みるも、思うように風は来ない。

 湿度の高い空気が重苦しく室内に居座っている。

 その中で私は扇風機の前に寝っ転がり、床と生温い風で僅かな涼を取っていた。

 大量に出された宿題をとうの昔に消化し、余った時間を携帯端末片手に消費する日々。

 これでは単なる休日と変わらない。

 いや、熱気に焦れて思考がまとまらない現状は、より時を浪費していると言えよう。

 かと言って行く宛など特にない。いや、これは間違いだ。

 行く宛はあったが、私が行く気にならなかったのだ。

 今日からの親戚の集まりはいじられるのが面倒で、親だけで行ってもらった。

 今年はどこだったか、旅館に行くそうだ。

 他に行きたい場所はちらほらあるが、いざ行動するとなると、尻込みをする程度。

 近くのものは煩わしい程眩しくて、遠くのものは泡の様に曖昧で繊細で、触れるのを躊躇ってしまう。

 とどかぬ願望を彷徨わせている内に、今日も一日が終わりへと降っている。

 端末を床に滑らせ、目を閉じる。

 果報は寝て待てと言うが、その果報が兎の場合、待つ程に愚かなことはないだろう。

 それに、寝続けた兎がどうなったかくらいは、私でも知っている。

 だが、私は待つ。今日は。この体の熱が冷え、考えが鮮明になるまでは。

 何か。この暑さを吹き飛ばす程に心躍る何かはないだろうか。

 この限られた空白を極彩色に染め上げる劇的で、鮮烈な何か……。

 頬を伝う汗を拭う腕もすでに汗に塗れ、行き場を失った彼らは床へと行き着く。

 まるで鉄板の上の私というバターが溶けているかのよう。あるいは溢れた猫か。

 どちらも液体化しているのは変わらない。虎も走り回ってバターになった。


『こちらは……防災……』


 開けていた窓から、防災放送が聞こえてくる。

 そういえば、今日は光化学スモッグ注意報が出ていたんだったか。

 光化学とは何だ? 光学迷彩と関連はあるのか?

 検索するにも端末を持つのも、ロックを解除するのすら億劫だ。

 音はこうも簡単に私の部屋に入るのに、風はちっとも入って来ない。

 ふくらはぎが痒い。昨日までに誰かが蚊を連れて来たか。

 それとも、昨日塞いだ網戸の穴から――



 端末から軽快な音楽が鳴り始める。



 コミュニケーションアプリの呼び出し音だ。

 大方、友人の誰かだろう。

 ダレた右手に喝を入れ端末を手に取り、着信に出てスピーカーをオンに切り替える。

 これで端末を持たずに話すことが出来る。

 それにしても、何の用事だろうか。

 まだ日は出ているが、そろそろ日も暮れ、そこからは夜だ。

 明日以降の用事なのだろうか。


『しもしも~?』


 聞こえてきたのは、若い女の声だった。

 クラスのグループに入っているから、そこから連絡してきたのだろう。

 だが、こんなノリをするやつなんて誰がいただろう。

 ロクに画面を見ずに出たのが悔やまれるが、もう一度見る気は起きない。

 代わりと言ってはなんだが、不思議と思考だけがよく回る。

 ……ああ、たちばな辺りはしてきそうだが、声が違う気が。

 まあ、休みで一ヶ月近くあっていないのだから、そういうこともあるだろう。


「もしもし」


『あ、聞こえてる~? 今日って、二十時に教室集合だよね?』


「え?」


 教室に二十時。

 当然学校は閉まっている時間だ。

 しかも私がそれを知っている・・・・・かのような口調。


『今日カズ先がいるみたい。会った時ぼやいてた。見つかったらマジで怖いから、みんなに静かに来るよう言っておいてね~』


 通話が切れる。

 初期設定のままのロック画面は、十八時四十七分と表示していた。

 ……思う所はいくつかあるが、行くしか選択肢はないだろう。

 せっかく面白そうなイベントがあちらから転がり込んでくれたのだから、この期を逃す訳にはいかない。

 図々しいと思われようが、連絡した方が悪い。

 行くと決まれば、準備をしなければ。

 一日を自堕落に過ごしていたから髪は乱れ、服も汗まみれで見た目も臭いも少々よろしくない。

 窓を閉め、エアコンを点けると風呂場へと向かう。

 シャワーで全身の汗を洗い流した後にドライヤーで一気に髪を乾かし、久しぶりに制服を着込んだ頃には、ダイニングの壁にかけられた時計の針が十九時二十九分を指していた。

 小走りで行けば間に合うだろう。幸い今日は親がいない。

 家の鍵と携帯端末だけを手に外への扉を開くと、甘橙色の光が差し込み目が滲む。

 燻んだ青に、朱色に染まった雲が千切られた綿菓子の様に浮かんでいる。

 上空は風が強いのだろうか。

 ツクツクボウシの鳴き声がそこら中に聞こえる。

 忘れていた湿気と熱気がむわりと全身に纏わりつく。

 エアコンはそろそろタイマーで切れる。

 帰ってくる頃には、また家中この暑さだろう。

 いやあまったく、面倒だ。

 早くも頬を伝った汗を拭い、扉を閉め、家を後にする。

 体は湿気でずしりと重いが、不思議と足取りは軽い。

 これが私の忘れられない夏の始まりであった。

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