エースはまだ自分の限界を知らない[第五部B 飛翔編]
草野猫彦
一章 九年目 猛る獣
第1話 モチベーション
飢えが、満たされつつあった。
これまでずっと欲望に任せて、ずっと鍛えてきたのに。
(なんでだ?)
大介はキャンプが終わり、オープン戦が始まっても、調子が上がってこない。
それでも普通に三割を打ち、甘い球はスタンドに放り込んでいるのだが。
去年の年俸更改で、複数年契約の打診があった。
通常なら選手は、複数年契約の方を好むのだ。
野球選手は怪我でもして、一年丸々を棒に振るということもある。
複数年契約を打診されるというのは、これまで安定していい成績を残してきたということで、ベテランは七年契約とか五年契約などで球団に所属することも多い。
大介の安定感は、まさにそれに相応しいものだ。
ただこれは、大介の将来に関わってくる。
今年八年目の大介は、シーズン終了後に国内FA権が発生する。
ライガースは金持ち集団であるが、単純に金があるというだけなら、それよりも上の球団はある。
FA権でより条件のいいチームに移籍するというのは、これまで頑張って成績を残してきた選手への、ご褒美のようなものなのだ。
本気でそれを止めたい球団は、だいたい七年目ぐらいから、複数年契約を打診してくる。
大介はこれまでずっと、単年契約を続けていた。
球団としてはこの先も大介が生み出す利益を考えると、長期の契約で大介を縛ることは、メリットしかない。
大介も安定して収入が入ることを考えるなら、複数年契約の方がいいとも言える。
ライガースが恐れているのは、大介のMLBへの移籍である。
もしもMLBに行くつもりがあったなら、六年目の年俸更改で話が出て、七年目にポスティングというのがスムーズな流れである。
ただ大介はとにかく、国内のピッチャーとの戦いを目的としていた。
それに複数年契約を結ぶことは、むしろモチベーションの低下につながると考えていた。
なので結局は、七年目の契約更改でも、単年の契約を結んだのだ。
その大介が、開幕前にも調子が上がらない。
「燃え尽き症候群じゃない?」
甲子園に戻ってきた大介は、ツインズからそう指摘された。
「俺が? なんで?」
「毎年毎年三冠王で打撃タイトル独占して、去年は逃していた逃した日本一をまた手に入れたでしょ?」
「マイケル・ジョーダンは最初の三連覇のあと二年ぐらい、モチベーションを失ってMLBに挑戦してたんだよ?」
チームの中心選手として、圧倒的な数字を残しつつ、優勝にも導く。
だが大介は、まだまだ成し遂げてないことが多いはずだ。
上杉との対決は毎年楽しみだし、武史が入ってきたので手ごわいピッチャーは一枚増えた。
「でもタケだから」
「タケだしね~」
確かに集中していれば、打てなくはないのだ。
「モチベーションか……。どうしたら元に戻る?」
「まあ、環境を変えてみるとか?」
「今年のオフには国内FA権発生するから、行使してみたら?」
「移籍か~」
去年の年俸更改の時には、全く考えもしなかった。
だが今は条件が変わっている。
椿が妊娠したことにより、出産前後やその後の育児を考えると、身内の多い地元に戻った方がいい。
千葉などであればまさに地元であるし、佐藤家の助けを借りることも出来るだろう。
ただ、単純に家事労働や育児が問題であるなら、ベビーシッターを高額で雇えば済む。
白石家はそれ以前に、二人がかりで育児をするのだ。
それに正直なところ、大介は甲子園球場に愛着が湧いている。
もちろん地元は地元で、暮らしやすさは分かっているつもりだ。
「マリンズかタイタンズか」
上杉や武史と対決するためには、タイタンズしか候補にはない。
パ・リーグであると千葉でもいい気がするが、実際のところは移動が大変だと、よく耳にするのだ。
そんなことを考えても、問題はもちろんある。
去年までに比べて今年の大介の成績が、大幅に低下していることだ。
打率は三位、ホームラン数も打点も五位以内と、普通にいいバッターではある。
だが絶対的なバッターではないのだ。
成績が落ちた年に、FAをするのは馬鹿である。
ここからモチベーションを上げて、今年の成績を上げてからなら、いくらでも引き手はあるだろうが。
「お前たちも仕事も、関東の方がやりやすいよな?」
「ん~、でも最近芸能関連の仕事は減らしてるから」
「大介君のお世話に、赤ちゃんも生まれてくるしね」
それならやはり、関東の方が良さそうではあるが。
あとは、とツインズは告げる。
「アメリカに行くとか」
「メジャーか。給料高いだけで、別にたいしたことないと思うけどな」
事実、WBCで大介がホームランを打った選手が、その後にMLBで活躍していたりもする。
「でもMLBのピッチャートップ20人は、日本のピッチャートップ20人より上だと思うよ」
「上杉さんはさすがに別格だけど」
「あの人のいない場所で戦って、勝ったとは言えないだろ」
確かに柳本のように、挑戦と言ってMLBに行くものはいる。
バッターならば織田が去年ポスティングで渡ったし、アレクも今年のオフにそうするのではとも言われている。
大介の場合は来年まで待てば海外FA権が発生するが、球団を儲けさせようと思うなら、今年のオフにポスティングを申し入れたほうがいい。
球団も来年になれば無償で出て行かれるよりは、今年のオフに大介を売るほうを選ぶだろう。
ただそれはあくまで、大介がMLBに行く意思があればの話だ。
「なんか刺激がほしいのは確かだけど、そういやまたWBCがあるな。プレミアの方がいいかな」
しかしその二つの国際大会も、大介の期待するようなピッチャーは出てこない。
さほどの金にならない大会に、MLBのチームは選手を出したくないのだ。
己のリーグが世界一だという驕りは、既に二回連続で、日本に蹂躙されて分かっているだろうに。
モチベーションが回復とまではいかないが、少しは気分転換も思いついた。
とりあえずホームランや打点などは、日本記録を狙っていけばいいだろう。
そんなことを話していた数日後、瑞希が無事に出産したという知らせがあった。
ツインズは千葉に戻り、大介は遠征である。
「女の子か」
「あ~、瑞希ちゃん、大変そ~」
「男の子産まないとね~」
いまどきそんなことがあるのかとも思うが、あるのである。
ただどうしても無理なら、親戚から婿養子を取るということもある。
直史はそんなことを許さないだろうが。
そして大介が遠征から関西に戻ってきた日、直史がやってきたのである。
普段は何か用事があっても、ライガースが関東に遠征する際に、会って話をすることが多い。
それなのに直史がやってくるというのは、異常事態である。
さらに内容も驚くべきものだった。
直史の説明は簡略で、娘の心臓に異常が見つかって、手術の必要がある。そしてそのために大金が必要となるため、金を貸してくれというものであった。
それは構わないのだ。
金は使ってこそ、と大介は思っているが、現状大介の累計年俸は出来高も含めて50億を超えている。
税金でかなり持っていかれるが、資産運用をツインズに任せているので、だいたい一割ぐらいは毎年増えているのだ。
義理の姪の命に使うなら、10億ぐらいは平気で出す。
ただここで、大介は考えてしまった。
その発想を、一瞬でかき消そうとし、そして消えないことに、自分でも驚いてしまったが。
この状況でならば、直史は己の頼みを聞いてくれるのではないか。
人間として、言ってはいけないことではないのか。
「俺と戦ってくれ」
だが口から出る言葉を、止めることは出来なかった。
あの日の、直史の目に灯った輝きを、大介は忘れない。
次の試合から、大介はヒットとホームランを量産し始めた。
今年の大介は悪いという評価を完全に取り戻し、覆す勢いで。
山田と真田が故障し、ピッチャーのローテに穴が空いたこともあり、ここまでライガースは調子が悪かった。
しかし二軍から上がってきた阿部が存在感を示し、大介が取られる以上に取り始めた。
野球は点取りゲームである。
相手にいくら点を取られようと、それ以上に点を取れば勝てる。
大介復活後のライガースは、10点以上を取る試合が何度も達成され、投手陣の薄くなったところを補った。
この年のペナントレースは、レックスが独走していた。
それを六月に入ってから大介が復調し、真田と山田が戻ってきて、阿部とともに先発の三本柱となった。
猛追するライガースであったが、結局は届かず。
しかしクライマックスシリーズでは去年と同じく、レックスを撃破。
混戦のパ・リーグをどうにか制したジャガースとまた戦うことになり、そこでまた優勝したのであった。
これでライガースは二年連続で、下克上を果たして日本一。
シーズン戦にはともかく、短期決戦には強いことを証明した。
だがこの年の大介が注目していたのは、日本シリーズですらない。
日程的に、その翌週に行われたドラフト会議。
そこで無事に、直史はレックスに指名された。
万一にもパの球団に指名されれば、勝負するのは交流戦のみ。
直史としても娘のためには、セの球団に入るのは望み通りであったのだ。
直史自身は既に、トレーニングを開始している。
とは言っても司法試験から司法修習と、直史が鈍っていることは確かだろう。
だが大介は信じている。
直史はこういう時、期待を裏切らないのだと。
11月下旬、大介の姿は東京にあった。
府中市にある巨大施設、東京競馬場。
その出走馬の中に、サンカンオーの姿があった。
サンカンオーの馬齢も五歳と、一流馬であれば引退の話が出てくる。
事実年内にて引退させようと、調教師や騎手とは話をしていた。ツインズが。
ここまでの成績は、有馬記念、宝塚記念を制しGⅠを二勝。
二着が六回と、惜しいレースも多くあった。
GⅡは四勝、GⅢ一勝と、間違いなく名馬の内に入る。
勝った重賞は全てが2000m以上で、どちらかと言うとスタミナに優れた血統。
長距離のレースではスタートから先頭に立ち、そのまま逃げ切るというパターンが多い。
だが2000mのレースでは先行集団から進出し、そのままレースレコードで勝ったこともあった。
切れる脚というのは持っていないが、ラップを正確に刻めば、充分にレコードタイムに近い決着も狙える。
また故障らしい故障はなく、充分な間隔をもって使えたというのも大きい。
「こいつが引退したら、ちゃんと嫁さん集まるんですかね?」
大介は顔見知りになった馬主に訊いたつもりだったのだが、それに回答したのはツインズである。
「種牡馬入りした馬に、お嫁さんがいっぱい来るかどうかは、主に三つの要素からなってるよ」
「馬自身の競争成績、馬の血統、それと種付け料」
「GⅠ二勝だとどうなんだ?」
「同じGⅠでも何を勝ってるかで違うんだよ」
そしてツインズの解説タイムが始まる。
現在の競馬において、最も価値が置かれているのは、なんだかんだ言いながらクラシックディスタンスと言われる、2400mである。
だが実際のレースを見れば、それ以下の距離のレースが多くなっている。
つまり種牡馬に重視されるのは、2000mぐらいまでの距離でどのような成績を残しているかだ。
あとはやはり、クラシックに出られるかどうかという、早熟の力がある馬の方が好まれる。
サンカンオーはGⅡのレースでは2000m以下の距離を勝っており、三冠は勝っていないが全て二着で、ステップレースには勝っているし、二歳の重賞も勝っている。
五歳になっても重賞を勝っているので成長力も期待できて、長く楽しめる子供が生まれるのでは、と言われている。
なので成績的には問題ないだろう、ということだ。
次に血統の背景である。
サンカンオーは日本にあふれているサンデーサイレンスの名前が、父方の三代前に登場する。
また同じく父方には、ノーザンダンサーの仔であるノーザンテーストが、四代前と五代前に入っている。
現在の流行であるサンデーサイレンス系の種牡馬であり、その点はじゃっかん相手を選ぶかもしれない。
だがもう一つの流行である、ミスタープロスペクター系が入っていないのだ。
サンデーサイレンスもノーザンテーストも遠いので、それなりに種付けできる牝馬は多いだろう。
母方の血統は流行の血統があまり入っていないので、その点でも相手として選びやすい。
あとは種付け料であるが、大介はこれで別に儲けようとは思っていない。
なのでお手軽感があって、最初の数年はかなり花嫁が集まるのではないかと思われている。
「あ、でももう一つ、成功するかどうかの要因があった」
ツインズでも言い忘れることはある。
「日本の生産者は基本的には、一つのグループが一強なの。そこのスタリオンステーションに入れば、グループが世界中から買って来た、良血の繁殖牝馬が集まるんだけど」
日本にはなんだかんだ言って、父系にはサンデーサイレンス、父母か母系にはノーザンテーストの血が入っていることは珍しくない。
その血から遠い外国の馬とかけあわせれば、いい馬が生まれる可能性は高いというわけだ。
サンカンオーにはそういった話は来ておらず、引退後は静内のスタリオンステーションに入るという話になっている。
種牡馬としての期待度はそこそこ高いが、絶対にほしいと思わせるほどのものでもないのだろう。
まあそれぐらいがいいのではないか、と大介は思っているが。
種牡馬のハーレムなど、馬にとっては苦行だろうと思う、リアルで二人の嫁を持っている大介である。
レースはいいスタートを切ったサンカンオーであるが、先頭に立つことは出来ない。
逃げ馬に先を越されて、先頭集団の中で待つ。
大介としてはあの、逃げて勝った有馬記念が印象的なだけに、これでいいのかと感じるところはある。
まあ今日は馬券を買っていないの、そのあたりもどうかとは思っている。
元々三番人気で、単勝での旨みがあまりなかったのだ。
展開としてはあまりよくないのでは、と思っていた。
だが向こう正面から大欅と呼ばれる、実は榎の木を過ぎたあたりから、早めのスパートに入った。
四コーナーを曲がってきたところでは先頭に立ち、そこから逃げ馬たちが落ちていき、そして差し馬たちが内側から突っ込んでくる。
サンカンオーはそれに馬体を併せると、お得意の粘り強い走りを発揮しだした。
共に併走するかと思ったが、相手はあまりそれに慣れていないのか、直線の途中でたれていく。
一頭だけだと外から追い込む馬に負ける可能性があるのだが、幸いにもやや外から他の馬がやってくる。
今度はそちらに併せていけば、サンカンオーはまだ伸びる。
最後はクビ差でゴールインし、GⅠ三勝目を勝ち取ったのであった。
レース後に亀裂骨折が明らかになったサンカンオーは、有馬記念を前に引退を宣言。
まさに名前の通り、GⅠを三勝して、その競走生活を終えたのであった。
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