第5話 忍びの者
彼らは、一斉に音もなく背中に負った忍び刀を抜き放った。そして、ほんの刹那のあいだに、筏の上の人足たちをすぐさま斬り捨てた。
ここ
その現場を仕切っている
しかし松木孫兵衛は、まだ彼らの真の姿を理解してはいなかった。
「貴様ら、何を怠けておるか!」
松木孫兵衛は人影に向かって声を上げた。
ふと、松木孫兵衛は草履の爪先が柔らかな何かを蹴る感触を覚えた。
「ぬ……?」
彼は歩みを止め、見下ろした。
それは、斬り捨てられた人足の死骸であった。
孫兵衛はぎょっとして息を呑み、霧の奥へ眼を向けた。
孫兵衛の視界に、霧の中に閃く白刃が見えた。霧の中に見えた影は、黒装束の忍びだったのだ。そのことに、彼は今ようやく気づいたのであった。
松木孫兵衛は、すぐさま太刀を抜いた。周りに向けて大声で呼ばわる。
「
その声に、
「
松木孫兵衛は顔色を変えて怒鳴った。
松木孫兵衛に呼応した畔柳の足軽たちが、槍を構えて突進した。が、彼らの眼前には深い霧が立ち込めている。彼らは敵の姿を視認できず、うろたえながら周囲を見回した。
「うおおおおおっ!」
むやみに怒声を上げ、槍を構えた畔柳の兵たちが無謀にも霧の奥へと突進した。無論、それは無駄な抵抗に過ぎなかった。
足軽たちは、手練の〈猫目組〉たちによって、たちどころに斬り伏せられていた。
「ええいっ、何をしておる、早く乱波を斬り捨てぬかっ!」
松木孫兵衛は、狼狽しながら怒鳴り散らした。もはや孫兵衛にすらも、霧の奥のどこに味方の畔柳兵がいるのか、敵の忍びがいるのか、わからなくなっていた。
長い年月畔柳家に仕えてきた松木孫兵衛であった。が、血煙舞う戦場で忍びの者と遭遇するのは彼にとってはじめての体験であった。焦燥が、松木孫兵衛の背筋を冷たく駆け上がる。
が、一刹那の後である。
ズンッ、ズンッ、ズンッ――という規則正しい地響きを、孫兵衛は耳に聞いた。
孫兵衛のこわばった頬が、笑みになって緩んだ。
松木孫兵衛の視線の先、霧の向こうにぼんやりと銀色の巨体が浮かび上がった。
「待ちかねたぞ、
それはまさに蒸機兵〈
そして〈多聞〉こそ、他国から〈
銀色に鈍く光を放つ蒸機兵〈多聞〉は、ゆっくりと周囲を睥睨した。その一瞬後、〈多聞〉の両手首に装備された
〈猫目組〉忍びの者十一名のうち、六名がわずかな瞬間に蒸機兵〈多聞〉の火筒から放たれた弾によって、躰を引き裂かれた。ずたずたに砕かれた肉片が赤黒い霧となり、
「白銀入道!」
束の間、薄くなった霧の向こうに浮かんだ影を見つめ、
父の
いきなり、霧の中で〈白銀入道〉の手首が再び光った。〈猫目組〉の生き残りに向けて、三連火筒を放ったのだ。
新太は無我夢中だった。身一つで蒸機兵に立ち向かうなど、無謀だとわかっていた。しかし、体が自然に動いていた。
足元に倒れた足軽の血まみれの手から、槍を拾い上げる。
新太は霧にけぶる奥をにらみつけた。槍を握った手に力を込めた。巨大な銀色の蒸機兵の影が、徐々に近づいてくる。
新太は歯を食いしばって駆け抜けた。その草履が、川原に
新太の胸の中で、嵐が荒れ狂っていた。それは熱く、激しく、野蛮で原始的な衝動だった。殺戮への渇望であった。
「白銀入道っ!」
裏返った声で怒鳴り、槍を大きく振りかぶった。
と、まさにそのときである。
新太の足が何か柔らかいものを踏みつけた。新太は体勢を崩し、砂利の上に倒れ込んだ。
「痛っ……」
間の抜けた己の姿に怒りを覚えながら、新太は自分がつまずいたものに視線を向けた。そして彼は、息を呑んだ。
黒装束の男が倒れていた。その太ももに、尖った石のかけらが突き刺さっているのが見えた。
黒装束の男が、うめくように声を漏らして新太に顔を向けた。
「おぬし、
「あ、あんた……〈
新太は訊いた。
男がうなずくと同時に、もう一つの影が音もなく滑るように近づいて来た。
「
頭巾で顔立ちはわからなかったが、その声から新太より一つ、二つ年上の娘のように思えた。
新太の胸裡から、沸き立つ怒りが急速に萎えていった。こんなに年若い娘が、忍びの者として血みどろの死地を駆けている。急に、新太の胸の奥に冷たい恐怖が膨れ上がってきた。
黒装束の娘は、雷蔵と呼ばれた男を抱き起こした。
「お摑まりください」
「かたじけない」
黒装束の娘は、五間(約9メートル)ほど離れたところの川岸に転がる、一抱えほどもある岩陰に雷蔵を導いた。新太もまた、引き寄せられるように二人の忍びの後を追った。
「
岩に体をもたれかけると、痛みに顔をゆがませながら、雷蔵は言った。
「ですが、雷蔵さま!」
「早く行け。我らの忍びばたらき、気取られてはしまっては、いたしかたない。生き残った者どもとともに陣へ戻るのだ。それに小僧」
雷蔵は新太に顔を向けた。
「小僧じゃねえ、俺は
「おお、新太とやら。おぬしも志乃とともに去るのだ。ここはおぬしのいる場所ではない。戦は我らの仕事。おぬしのような百姓が手を汚してはらぬ」
「でも……俺……」
「雷蔵さまを置いてはいけませぬ!」
志乃は、必死の面持ちで割り込んだ。
彼ら三人の背後に、蒸機兵〈多聞〉――白銀入道の足音が着々と迫りつつあった。
「愚かなことを申すな。我ら忍びは影に生きる者。生も死も秘されてこそ花だ」
雷蔵は優しくそう言い、口元に薄い笑みを浮かべた。
「雷蔵さま……!」
志乃が声を漏らした。
新太は、周囲の霧がさらに濃くなっていることに気づいた。酒爪川のほうを見やると、十間(約20メートル弱)ほど向こう、筏の上にぼんやりと黒い影が浮かび上がっていた。
雷蔵が懐から握り拳ほどの黒い塊を取り出した。小鼠の尻尾のように飛び出た短い糸を引っ張ると、岩陰から身を乗り出し、白い霧の中へと投げた。
心の臓が五つほど鼓動したのち、断続的な破裂音と火花が上がった。新太は、両眼を見開いた。これが忍びの使う業なのだ。
息を飲み込みながら振り返る新太の眼前で、蒸機兵〈多聞〉が歩を止める。そしてその上体を破裂する爆竹のほうへと向けた。
「今だ、参るぞ!」
雷蔵が言うなり、川岸の艀に向かって、びっこを引きながら駆け出す。志乃もあとを追う。
新太は狼狽しながら、あたりをきょろきょろと見回した。彼ら〈猫目組〉の忍びとともに行くべきなのか?
いや、すぐ眼と鼻の先に、父の仇〈白銀入道〉が立ちふさがっているのだ。戦場で、奇跡的な邂逅を果たしたのだ。
討つのは、今しかない。
しかし、新太の喉の奥には苦くて硬い塊が滞っていた。
顔を上げた。
――俺は、侍じゃないんだ。
新太の心は千々に乱れた。
新太は塊を飲み下し、一気に霧の奥の影に向かって駆け出した。
——死にたくない。
おのれの
――生きたい。生きなきゃいけない。
ただその思いだけが、彼を衝き動かしていた。
第6話へつづく
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