13

 






 夕刻が迫り、急激に低下してゆく気温に身を震わせる。

 一気に人気の減った放課後の教室に、軽快なオルゴールの音色が響いている。……気象庁より濃霧注意報が発令されました。校内に残っている生徒は速やかに……。


 室内にいるというのに、吐かれる息は白い。この日は、最後の授業が終了したばかりで、まだ残っている生徒が複数いるというのに、早々に空調機が消されてしまった。学校側の早く生徒を帰らせたいという意図が見えるかのようだった。


 六限目の授業が終わってすぐに三黒は一応教室に顔を出したが、奇妙に乱れた髪と服装をして――恐らくは走ってきたために――、「アナウンス聞いただろ。早く帰るように」という趣旨の言葉を口にしただけで、さっさと出て行ってしまったきりである。

 一度も途切れることなく、延々と同じアナウンスが繰り返されている。それが生音声ではなく、録音されたものだと知ったのはいつだっただろう、とふと直季はそんなことを考えた。


「あのさ、いつも思ってたんだけど…」


 コートを羽織りながら、直季はすでに鞄を背負ってこちらを待っている様子の友人に訊ねてみた。

「濃霧注意報って、わざわざアナウンスするほどの事項なのかな?そりゃあ、視界が遮られて、夜道が危険ってことはわかるけど…」

 言葉を区切り、反応を窺う。

 坂上は何かを言いかけ、しかし何も言わなかった。

「……本当なのかな。霧の中に悪魔が出るって…」

「…………。行こう」


 大雑把に首にマフラーを巻き付け、鞄を持つと、直季は坂上と並んで歩き出した。

 廊下に出ると、すでに天井の灯りは消されていた。「やべえ、マジ暗い。コエー」という生徒の声が、階段の方から響いてきた。


 校舎を出ると、校門前は我が子を待つ多くの迎えの車で賑わっていた。校門前の路肩と狭い駐車場は車で溢れかえり、収まりきらない車の列が、校舎から数十メートル先の路肩の方まで続いていた。霧深い日の恒例――いまとなっては特に珍しくもない光景だが、この町に来たばかりの頃の直季の目には、どうにも異様に映ったものである。


「……そういえば、碑石の家の人は、こういう時迎えに来ないんだな。まあ、うちもだけど…」

「え…ああ、うちは……母さんが働いてるから。それに、母さんは、霧のことなんて、あんまり気にしていないと思う…」

「…そっか。親父は?」

「いや…父さんは……いないんだ。随分前に、火事で……」

「……。……そっか」

「…阪上の家の人は?心配して、迎えに来ないのか?」

「うちは、霧とか悪魔とか、そういうの、無頓着だから」

「……。へえ」

 ……無頓着。

 その言葉に、少しだけ、直季は驚いていた。この町の中にも、そういう人間がいることに…。

「……この前の、葬儀のやつら…」

「…えっ?」


 つかの間、阪上が立ち止まった。

 その目が、吐き出される息が霧の中に吸い込まれてゆくさまを見つめ、そうしてまた、ゆっくりと歩き出した。


「…葬儀のやつらって?」

「……いや……。この前の葬儀会場で、何か騒いでた女がいただろ…。それで、途中でそこに割って入って来たやつら――…その一人に、おれ見覚えがあるんだ。多分、おれだけじゃないと思うけど」

「えっ?…」


 突然の話に、直季は戸惑いを隠せなかった。

 のろのろと歩みを進めながら、阪上は霧にぼやけた目を、強く指で擦った。

「――……碑石は知らないかもしれないけど、実はこの町、数年前に全国紙の記事になったことがあるんだ。〈全国一、自殺者が多い町。「霧の街」の秘密を探る〉――そんなようなタイトルだったと思う。それで、二年前の戸田舞子の自殺の件も併せて、散々この町に取材に来たのが、あいつだった。市庁舎が近くにあるせいか、しょっちゅうこの辺をうろうろされて、不審に思った近隣に通報されて、警察沙汰になることも珍しくなかった…」


「――えっ…あ、あの人たちって、記者だったのか…?」

「ああ……。あと、環境庁のやつらも来てた…」

「か、環境庁…?なんで……」

「なんの伝手だか知らないけど、多分あの記者が呼んだんだろ……。葬儀なんか、お構いなしに…。礼服まがいの、あのダセエ環境庁のロゴマーク……二年前とちっとも変わらない…」

「……二年前…?二年前にも、環境庁の人が来たのか?この町に…?……」

「ああ。……あの記者の意図は、よくはわからない。ただ、〈自殺者が多い〉――その原因を探るために、あいつはとうとう、環境庁の力を借りることにしたんだ。……滑稽だよ。すべてを知るためには、この〈霧の街〉の人間になるしかないってのに…。そう、ここの住人になれば、いずれ、ああいうやつにも……何かがわかるかもしれないな…」

 突然に肩を掴まれ、どきりとして足を止める。

 車の通り過ぎる音が、ゆっくりと目の前を去って行った。思い出したように周囲に気を配ると、いつの間にか交差点に差し掛かっているようであった。

「あ、ごめん…」

 謝ると、阪上はわずかに笑んだ。

 しかし、それもすぐに霧に被れて、見えなくなってしまった。

「……阪上」

 名前を呼ぶと、白いのっぺらぼうのような顔が、こちらを覗いた。

「………霧の中に住む悪魔って、そんなに忌まわしい存在なのかな…?…この町には、悪魔を信仰していた歴史がある。忌み疎みながらも、長い間その信仰が続いたのは、その存在を支持し、認める人間がいたから――。認める人間……彼らは霧の中に、一体何を見ていたんだろう?…」

「……。……ふふ。なんだよ、霧の中に天使でもいるってのか?…」

「…天使と悪魔は、紙一重だろう?」 


 びっくりしたような目が、直季の顔を見た。

 干乾びたような唇が、少しだけ開かれたまま、生温かな煙のような息を吐き出した。そうして、阪上はふと、以前に自らがこの友人に放った言葉を思い出していた。 


『……わからないってことは、それは碑石がまだこの町に馴染んでないからだと思う。この町に住んでいれば、いずれわかるようになる筈だ。だけど、稀にそうじゃないやつもいるって聞くけど……少なくとも、そういうやつに、おれは会った試しがない…』 


 ……天使……。天使だって……?


 不意にふつふつと込み上げてくる笑いを堪えながら、阪上は鼻で深く空気を吸い込んだ。


 二人分の吐息が、霧の中に静かに溶けて行った。




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