7









 それから三十分ほどが経っただろうか。異様な外観をした建物の敷地前で、不意に車が停まった。


「……ここ、どこですか?教会?」


「もう閉鎖されている。降りろ、行くぞ」


「廃教会?」

 車から出ると、凍えるような寒さが肌を刺した。「ま、待ってください。どうして廃教会なんかに?」


 錆びれた鉄門に鍵は掛かっていたが、腐食していたようで、三黒が手を掛けると簡単に開いた。


 近くで見ると、建物は昏い灰色をしていたが、それが長年の汚れによるものだと直季は直感した。しかし造り自体にはそんなに年季が入っているようには見えず、ちゃんと手入れをすればすぐにでも人が出入りできそうな風貌である。所々から覗くペンキには白色の名残を残しており、もとは恐らく藍白か、真っ白の外装だったに違いない。


 教会の扉に鍵は掛かっていなかった。三黒に続いて中に入ると、小ぢんまりとした祭壇の上部を覆うようにしてステンドガラスが張り巡らされていた。ふと靴音がしないことに違和感を覚え床に目を向けると、四方一杯に煤けた絨毯が敷かれているようであった。


 今時分とうに夕刻を過ぎ、赤い空に昏い夜気を孕んでいる。


 ステンドガラスを通して、赤い光が射しこんでいる。祭壇近くに立つ三黒の姿も真っ赤に染まっていた。直季は、このステンドガラスもまた、赤い色をしていることに気づいた。よく見るとオレンジと黄色も所々に混じっているようだが、大部分は赤で埋め尽くされている。


「まだ日が射しているのは、この季節にしては珍しい。でも直に暗くなる」


 言葉どおり、急速に日が陰り、周囲が一気に暗くなった。


 ステンドガラスの残像が脳裏にしっかりと残っている。暗がりの廃教会の中で、直季は蒼白する思いだった。そこに描かれていたのは、巨大な悪魔だったのだ。


 ぐるりと周囲を見回していた。祭壇の真後ろには小さなモニュメントがある。キリストではない。そこに神はいなかった。真っ赤な十字架が逆さに立て掛けてあるだけだ。まるで血に濡れているかのように、赤く――或いは、それは悪意のある塗装のせいだったのかもしれない――に染まっている。そういえば、この教会にはマリアもキリストも天使もいない。その意味を考え、直季は一瞬この場が恐ろしくなった。


「まさか……この教会の信仰って、邪教の神?」


「邪教?」


 言葉を繰り返される。人影が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。「……それは違うな。こうして悪魔を祀ってあるが、過去はそうじゃない。しかし、司祭が心変わりするとは、滑稽だねえ」


「どうして…こんな所に僕を連れて来たんですか?」


 暗くて辺りがよく見えない。直季は人影から後退りした。


「ここは、司祭が悪魔に魂を売ったと言い伝えられている教会だ。この町唯一の教会でもある。激しい非難を受けながらも、しばらくの間この教会は生き続けた。その理由は、暗に支持する者がいたからだ」


「悪魔を支持する人間?」


「確かめたいことがある」突然、冷たい手が直季の腕を掴んだ。ぎょっとした。まるで氷の様だったのだ。「あんた、ここを知ってるだろ」


「し…知らないです、こんな所…」


 振りほどこうとしたが、ほどけなかった。


「…こんな所?おいおい……{天使と悪魔は紙一重}なんだろ?」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。


(――奴らは、紙一重でもあるんだ。この意味がわかるか?…)


 いつかの声――ああ、一体どんな意味だったか?…――が頭の中で反響する。


 暑くもないのに、じわじわと汗が滲むようだった。直季は目の前の真っ黒の顔をじっと見ていた。


「見ろよ、朝顔だ」


 顔を上――頭上のステンドガラス――に向けると、薄暗い光の中、中央の悪魔を囲むようにして無数の朝顔がオレンジと黄色で表現されていた。


「もちろん、そこらに咲くような、ただの朝顔じゃない。しかし、少なくともこの教会を建てた奴ら――一部の連中は、真相に気づいているってことだ」


「真相?」


「この町の真実。霧の中に悪魔が棲むと言われる所以だ」


「…は……放してください」


 言うと、冷たい手が、ゆっくりと解けて行った。


「全然…意味がわかりません。そもそも僕にとって、この町の所以なんて、どうでもいいことです。僕は以前から、この町のことは何も知りません。それなのに……どうしてこんな場所に、僕を連れて来たんですか…?」


 三黒は黙って、大袈裟に驚いた貌をした。


「答えてください」


「……そんなことより、おれにはこの教会の悪魔よりも不可解なことがある。あんた……何も憶えていないのか?」


 本当に、忘れているのか。


「憶えてるって…何を?一体、何を言ってるんですか…?」


「ふん…。何を忘れているのかを、忘れたのか」


 暗がりの中で、眼の前の男がにんまりと笑ったような気がした。


 平静を装いながらも、直季は激しく混乱していた。


 三黒の言動が何ひとつ理解できないからだけではない。心に何か、引っかかるものがあることに気づいたからだ。三黒の言うとおり、自分は何かを忘れているのだろうか?…でも、一体何を?……


 頭の中のピースは何ひとつ嵌まることなく、ばらばらと散らばったままだ。


「わからないなら、無理に思い出そうと――…知ろうとしなくていい。ただ、これは言っておく。この場所にあんたを連れて来たのは、おれにとっては賭けでもある。それは、この場所が、おそらくあんたにとって――おれにとっても――、これからこの町で起こる事の核(コア)であるからだ」


 三黒はじっと直季を見つめていた。「{霧の中の住人}が、あんたにはどう見えるか、おれにはとても興味がある」


 まるで呪文のようだった。


 何ひとつ判然とせず、歪なしこりばかりが心に傷を残してゆく。


「……一つだけ…訊きたかったことがあります」


 唐突に、頭上の天井がばりばりと音を立てた。しかし不思議なことに、恐怖は感じなかった。


 直季は疑問に思って来たことを、やっと口にした。


「……最初に会った時から、ずっと不思議でした。先生は……僕を、知っているんですか?」


 それとも、知っていたんですか?


 ステンドガラスが一瞬眩い光に照らされる。


 遠くの空でごろごろと雷が鳴っている。続いて、稲光――。


「――あっ、やべえ。おい、出るぞ」


「えっ?」


 天井を叩く雨音が激しくなった。稲光が、二人の貌を青白く照らし出した。


 急かされるままに出口の扉に向かう。戸惑っていると、三黒はここでも舌を鳴らした。


「やべえ。ヘッドライト、点けっぱなしで来ちまった…」 




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