6
この日も放課後になると、直季は三黒に呼び止められた。
「ヒセキくん。ちょっと時間あるか?」
「いえ……今日はちょっと…」
「ちょっと?帰りはちゃんと送って行くから心配するな。それに、そんなに遅くはならない」
「いえ、一人で帰れます。それで、何の用ですか?」
「いや。一人じゃ帰れない」
「……は?」
眉間に皺の寄った直季の顔を、涼しい貌で三黒は見ていた。
「誤解するなよ。徒歩じゃ無理って意味だ。今からちょっと、出る予定なんだよ」
「で…出る?これからどこかに行くんですか?」
「話は後だ。とにかく駐車場で落ち合うぞ」
――あっ!いたあ、三黒先生!
三黒が立ち去った直後、直季の遠く背後から、女子生徒の叫び声が響いた。
一旦教室に戻り、コートを着て鞄を肩に掛けると、その足で駐車場に向かう。途中、阪上に声を掛けられたが、何となくお茶を濁した。
校舎を出て裏門近くの駐車場に行くと、見計らったように停まっていた黒い車にエンジンが掛かり、運転席からウインドウをノックされた。白い息を吐きながら、促されるまま助手席に乗り込むと、中はすでに暖まっていた。
「白いコートか。霧に溶け込みそうだな」
「灰色です、一応。先生はいつも黒ですね」
「白って柄じゃねえよ」
「はあ」
そういえば、と直季は思う。
この人は何もかも黒色だ。服装も、髪も、靴も、鞄も、ファイルも、マフラーの色も。
直季がシートベルトを締めるのを確認すると、三黒は車を発進させた。
「…吹奏楽部は、いいんですか?」
「あいつらなら、おれがいなくても、うまくやる。そもそもおれに楽器は弾けない」
「いや、そういう問題じゃないと思いますけど…」
「これから行く場所は、おれにとっては賭けでもある」三黒は言葉を遮った。「ひょっとしたら、ヒセキくん、あんたは知って――…いや、憶えているかもしれない」
「えっ?」
ゆっくりと三黒の顔を見ていた。
校門を出て緩やかなカーブ道を曲がると、車は交差点に差し掛かった。目先の信号が黄色を示していたが、三黒はアクセルを踏み込んだ。
がくんと車体が揺れる。
急激な加速。ちらりと二十キロメートルの標識が見えたが、メーターは五十キロメートルを振り切ろうとしていた。
「あっ…危ない、危ないですよ」
フロントガラスの外は真っ白に染まっていた。
「先生」
「この町じゃ、交通事故はほとんど起こらない」
メーターが六十キロメートルを切った。「死亡事故なんかは、三年に一、二件稀に起こる程度だ。原因はこの霧にある。視界が遮られて、ドライバーは碌にスピードが出せないんだ。ふん、当然だな」
じゃあなぜ今、こんなにもスピードを出せるのか。淡々とアクセルを踏むこの男が、もはや直季には信じられなかった。
「あ、赤。赤ですよ。前、信号!」
「どれ、見えねえぞ。青じゃねえのか」
「ふざけてるんですか?止まって、止まってください!」
ハンドルを握る腕を掴むと、舌打ちとともにようやくブレーキが踏まれた。
タイヤの擦れる音が響く。心臓が高鳴る瞬間。直後、停止線を大きくはみ出して停車した。
「―――おい。運転中に腕を引っ張るな。心臓が飛び出るかと思ったぜ」
「す、すみません…」慌てて手を引っ込める。「でも、赤だったから」
「そりゃ赤だろうなあ」三黒は淡々と言った。「ここじゃ、夕刻を過ぎると、信号は常に赤か黄色なんだよ」
霧の中からぼんやりとした光が現れる。ひどくゆったりとしたスピードで、反対車線の車が通り過ぎて行った。
シートベルトを締め直す音が小さく響き、再びゆっくりと車が動き出した。
「先生、あの…」
「うん?」
「…いや……なんでもないです」
「ふうん」
窓の外に眼をやると、空はいつものように赤く染まっていた。
車内BGMのボリュームが大きくなる。
心地よい気怠さのロック・ミュージック。Maroon 5のThe Sun。直季は顔を窓に向けたまま、深くシートに凭れかかった。重い沈黙。メーターは今しも二十キロメートルを切ろうとしている。
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