第5話「もっとわがままに」
襲撃事件から三日後。
一行は再び野宿を
国境地帯には戦の爪痕が深く、焼かれてしまった街も一つや二つではなかったからです。
「お願いがあるのだけど」
「何なりと、おっしゃってください」
デラトルレ卿が、優しく微笑みます。
襲撃事件以降、護衛の近衛騎士たちとはグッと距離が縮んだように思います。
今なら、ちょっとしたわがままくらいは許してもらえるかもしれません。
「今夜は、鹿肉が食べたいの」
「鹿肉、ですか?」
「干し肉は、その……飽きてしまって」
正直に言うと、デラトルレ卿の眉が八の字に下がりました。
「申し訳ありません。今は、これしかないので」
「ええ、わかっています。ですから、狩りに行かせてほしいのです」
「狩りに?」
「はい」
「お嬢様が?」
「そうです」
「……」
沈黙の中、デラトルレ卿が改めて私の姿を見つめます。
短めの上衣に皮の胴当て、厚手の布で作った丈夫なズボンに皮の
焚き火の向こうではマース伯爵が面白がっている表情を隠しもせずに、事の成り行きを見守っています。
「この辺りに、鹿が?」
「もう春ですから、美味しいとは言えないかもしれませんが。味気ない干し肉よりは」
「ええ、まあ、そうでしょうが」
デラトルレ卿が、チラリとマース伯爵の方を見ました。
伯爵は肩を竦めただけでしたが、それで十分です。
「四人ほどお連れください」
「多いわ。物音で獲物に気づかれてしまいます」
「では、三人」
「一人で十分よ」
「……」
再びの沈黙。
嫌な沈黙ではありません。
「……二人お連れください」
「ありがとうございます!」
お礼を言えば、デラトルレ卿は困ったように頭を掻いて苦笑いを受けべました。
「怒っていますか?」
「いいえ。……ただ少し、呆れています」
冗談だと、すぐにわかりました。
デラトルレ卿はそういう皮肉っぽい冗談を好むのだと、この数日のやりとりで知っていますから。
その夜は、私も一緒に焚き火を囲みました。
新鮮な鹿肉を切り分けて串に通したものを焼いていきます。
味付けは少量の岩塩のみ。
「お嬢様には驚かされました」
「一発で当てたんですよ!」
「獣道を走って逃げようとする鹿にです!」
「鹿が倒れたと見るや直ぐさま駆け寄って、
「『お見事!』と、思わず声が出てしまいました」
「しかも、肉を捌く手つきの鮮やかなこと!」
「フェルメズでは戦士が日常的に狩りをするとは聞いていましたが」
「いやはや」
「これほどとは」
狩りについてきてくれた二人の騎士が、代わる代わる話します。
フェルメズ王国では貴族も狩りをしますが、オルレアン帝国では狩りは狩人の仕事。
とても珍しいものを見たのが嬉しいのでしょう。
「運が良かっただけです」
ちょうど、肉が焼き上がりました。
騎士たちが、次々と肉にかぶりついていきます。
「美味しい!」
「やはり、新鮮な肉は違いますね!」
「お嬢様も!」
少し迷いましたが、私も串のままかぶりつきました。
誰も
マース伯爵もデラトルレ卿も。
「貴女は、もっとわがままを言っても良いのですよ」
マース伯爵が言いました。
食後の温かい紅茶で暖をとっている時です。
「わがままを?」
「ええ」
「貴女は物分かりが良すぎる。まだ十八歳。もっともっと、わがままを言っても良い」
「けれど、私は公爵家の長子です。わがままなど……」
「では、これからは」
「これから?」
「そうです。すでに国を追放された身でしょう?」
マース伯爵の言う通り、かもしれません。
「私を捨てた相手に義理立てする必要はないと?」
「帝国で暮らすことさえ受け入れれば、義理は十分果たしたことになります。他のことは何をしても、誰も貴女を
「何をしても……」
顎に手をあて、考えてみます。
思えば、これまでわがままらしいことを言ったことはほとんどありません。
父の言いつけを守り、母からは良い子だと褒められるように。
そうして生きてきました。
「私には役割があるだけでした」
「貴女は、その役割を立派に果たしてこられた」
マース伯爵が、私のカップに紅茶を注いでくれます。
暖かな紅茶で、空っぽのカップが満たされていきます。
「これからは、貴女のやりたいことをするのです」
「やりたいこと……」
そんなことを、考えたこともありませんでした。
「どのように生きていきたいですか?」
「それは、自分で決めることではありません」
「これからは、ご自身で決めるのですよ」
自分で決めなければならない。
これからは、誰も私に生き方を示してはくれないということですね。
私自身の手で、決めて進まなければなりません。
何も望まず、何もせず。
ただ無為に生きることもできるでしょう。
ですが。
──そんな生は、『
「私は、誇り高く
森に生きる気高い獅子のように。
「誰にも踏み
宴の席で『
元婚約者には、犯してもいない罪で弾劾された。
妹には、ただただ憎しみだけを向けられた。
私はもう二度と、あのような扱いを受けたくはありません。
「尊重されて、生きていきたい」
誰かの
「私は、私として尊重されて生きたいです」
マース伯爵が頷きました。
ただ真摯に、私の言葉を受け取ってくださったのです。
「ならば、貴女は強くならなければなりません」
「強く?」
「そう。誰もが貴女を尊重するように。貴女は、貴女自身の力で強くならなければ」
公爵令嬢という血筋も、王太子の婚約者という肩書きもない。
オルレアン帝国に渡れば、ただのシーリーン。
持っているのは戦士の魂。
ただ、それだけ。
「できるでしょうか?」
「できますよ。貴女ならば」
笑みが、こぼれました。
心から嬉しいと思ったのです。
生まれて初めてのことかもしれません。
「では、お嬢様。他にご要望はございますか?」
マース伯爵のわざとらしくかしこまった台詞に、周囲の騎士からも笑いが漏れます。
「……今夜は、星を見ながら眠りたいわ」
「お心のままに」
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