第2話 大正期の内閣と出来事
1914年第一次世界大戦(第2次大隈重信内閣)
ヨーロッパの列強間の戦争として始まった大戦に対して、日本は局外中立の立場が取れた。しかし領土的権益拡大の機会と捉えて、日英同盟を口実して協商国側に立ってドイツに宣戦布告、参戦した。ドイツの持つ山東省での権益(青島・膠州湾)を奪った形の日本は、この山東省権益の要求、最大の課題、期限切れが近くなった満州権益の延長(99年)、中国政府部署に日本人顧問をつけること等を含む等の「二十一カ条の要求」*を袁世凱政府に突き付けた。これは中国人の激しい抗日感情を生んだ(5・4運動)。外国からの批判もあって要求事項は修正されたが、大半を呑ませた。また太平洋方面でもドイツ領を委任統治領として獲得した。アメリカは南洋諸島がドイツの内は問題がなかったが、海続きの日本がスペイン―ハワイの間に割り込んで来た形になった。いわば太平洋はアメリカの海ではなくなった。そこでアメリカは日英仏に呼びかけ太平洋の領土保全相互尊重、諸島に非軍事基地化の「4か国条約」を提唱した。これによって日英同盟は解消された(米による英への圧力があった。アメリカ外交は中々やります)。日英同盟は日本が5大国に列せられるまでの外交の基軸であった。
日本は大戦景気に沸き、その結果多額の金、ドル準備を持つ状態になった。
この時代、軍人が文官職に就く場合は、現役から予備役となるのが普通だった。軍人が内閣になった場合はそう理解願いたい。
1918(大正7)年、シベリア出兵(寺内正毅内閣)陸軍大将。後の寺内寿一陸軍大臣の父。
第一次世界大戦の連合国がロシア革命(1917年)に干渉して共同出兵した。日本は他の国の兵力の数倍を派兵し、大戦終結後も居座り国際社会から批判を受けた。また軍事費がこの間倍増し(派兵前の予算に占める比率30%が60%に)財政負担となった。派兵を見越した米の買い占めが米騒動を起こさせた。22年加藤友三郎内閣は撤兵を決定した。1924年護憲3派で組閣し、普通選挙法を成立させた加藤高明は、日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をももたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評している。
原敬内閣(政友会)内閣:1918年(大7)~21年(大10)11月:平民内閣で知られる。陸海大臣以外を政党から出した本格的政党内閣。21年11月暴徒(鉄道省駅員)に暗殺される。
高橋是清(政友会)内閣:日銀総裁(~22年6月)に引き継がれ、ワシントン海軍軍縮条約を結ぶ。
加藤友三郎(政友会)内閣:海軍大将(~23年8月・死亡)、第2次山本権兵衛海軍大将(革新倶楽部)内閣(~24年1月)関東大震災起きる。皇太子狙撃事件で内閣総辞職。
護憲三派・加藤高明(憲政会)内閣:外務官僚 1924年(大13)6月~26年(大15)11月
25年普通選挙法、抱き合わせて治安維持法成立。ソ連と国交樹立。2個師団の削減(宇垣軍縮)。26年1月加藤高明死亡につき、若槻礼次郎が後継内閣となった。加藤高明は三菱閥であった(三菱入社、副支配人、岩崎弥太郎の長女と結婚)。この内閣には元首相の高橋是清、加藤のあと次々と首相となる若槻禮次郎、濱口雄幸、幣原喜重郎(臨時)、犬養毅が閣僚におり、本格的な政党政治時代のスタートに相応しい内閣であったと言えよう。西園寺公望は加藤高明を高く評価している。
注:二十一カ条の要求
日本は日露戦争でロシアの権益を受け継いだ期限が後9年で切れることになっていた。この延長を(99年)求めた。1999年まで延長が認められることになった。官吏や警察での日本人顧問の採用という保護国的要求の第5項は秘密条項として交渉したが、中国政府が暴露したことによって国際的にも批判され、第5項は取り下げた。ドイツの山東省権益要求は鉄道権益の一部に留まり、ほとんどを短期間で返還した。
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