第51話 殺したのか

 清美がやる気を出した頃、病院では……。

 三階の部屋にひとり戻った高森は、その部屋のムードにさらに神経が高ぶっていた。そこにいる全員が敵に見えてしまう。地下から運び出していた懐中電灯の残りの二本を手にして、避難してきた人たちは固まっていた。

「川田さんはどこだ」と消防団の木田直人が高森に詰め寄ってきた。赤堀ジュニアとケンカしていた男。ラグビー選手のように肩が盛り上がったガッチリ体型。三十代ぐらいで力は強そうだ。

「戻ってきません」

「どういうことだ!」と木田に胸ぐらを掴まれそうになったとき、高森は赤堀ジュニアに襲われたときを思い出して、飛ぶように下がった。

「なんだなんだ、おまえ、警官のくせに、なんだその態度」

 そうだそうだ、と懐中電灯の向こう側、暗闇の中にいる住人の誰かが叫んでいる。

 こいつが来てからろくなことがないぞ。威張りやがって……。

 もう一人、やはり三十代の男がじわじわと高森との距離を詰めてきた。

 避難住人の心がとんでもないストレスにさらされていることは高森にも推察できた。異常すぎる事態。高森がなにかをしたわけではない。もちろん、だからといって責任がないわけでもない。少なくとも住人のために役に立つことは、なにもできていない。成果はないが、拳銃を手にしている。

 成果どころか、希愛を助けに行こうと勝手に軽トラを使って山へ向かい救助できず、同行したその持ち主の赤堀を行方不明にしてしまった。洪水に巻き込まれたからだが、高森の判断の甘さ、身勝手さに住人たちは苛立っている。それなのに、ベテラン看護師の川田の指示に従って院長を地下へ閉じ込めてしまい、浸水があったからとその院長を助けに行こうとして、殺してしまった。そしての川田は、おかしくなってしまった院長夫人に刺されて死亡。その夫人も川田に刺されて死亡。そんな死体が一階と二階のどこかにある。

 しかもいまさっき、階段で起きたことも、高森の心には深い傷となって残っていた。その傷口は恐怖と不安と責任感によって必要以上に大きく裂けて、高森から正常な判断力を奪いつつあった。

 住人たちはすべてを知っているわけではないものの、戻って来ない人たちが増えれば増えるほど、そしていつも高森だけが一人で戻ってくることを目撃してしまうと、最悪の想像しかできないのだ。

 高森にとってショックだったのは若い看護師の野上の死だ。助けるどころか、拳銃を奪おうとした赤堀ジュニアを助けるために、高森を羽交い締めにしたのだ。赤堀ジュニアは高森から拳銃を奪おうとし、危うく殺されるところだった。野上はその銃弾で死亡。赤堀ジュニアも高森ともみ合っている間に銃弾で死亡。彼はもう一発撃ったので、残りの弾は二発。

 いま対峙している住人たちは、木田直人を含めて九人と一匹。もっとも飼い主の藤岡夫妻と愛犬は別の個室に閉じこもっているらしく、ここに姿はない。

 目の前に七人。うち二人は高齢者。木田とその妻、いま近づいてくるもう一人の三十代の男とその妻、その男の姉らしい顔つきのどことなく似た中年女性が一人。

 高齢者二人と女性三人は、高森にとっては脅威とは感じない。もっとも野上の例もあるので、あなどることはできない。気を許せる人はここには誰もいない。

 少なくとも、いまのところ彼女たちを味方に付けるような要素も一切ない。

 騒ぎを先導しているのは、木田ともう一人の男。この二人を無力化できれば、騒ぎは収まるかもしれない。住人たちは彼らをなだめたりはしない。むしろ無言で背中を押している。一緒になって彼らの味方となって、つまり高森を敵視している。

 ホルスターに戻している拳銃を、手にすべきだろうか。

「なんだ、なにか言えよ。おまえ、それ、血じゃないか?」

 木田の懐中電灯が高森に向けられ、ちょっと水で洗ったぐらいでは取れなかった野上と赤堀ジュニアの血を見つけられてしまった。

「川田さん、どこにいるんだ。もう一人の看護師さんも」

 木田の奥さんが「野上さん」と小さくつぶやきます。彼女も小さい懐中電灯を持っていた。つまり、木田夫妻がいまはこの集団の先頭に立っているようだ。

「まさか、おまえ」ともう一人の男もすぐ近くにやってきた。

「違う。事故があったんだ。助けようとしたんだ」

「助けようとした? それで? どうなったんだよ」

 木田がその男に目配せをしたのだが、懐中電灯を浴びせられた高森からは見えなかった。

「あっ」

 一瞬で左右から二人の屈強な男に腕を掴まれてしまった。

「本荘、しっかり掴んでろよ」

「あたりまえだ」

 木田の妻の横に本荘の妻らしき女も駆け寄る。

 木田の懐中電灯がその妻に渡り、高森を照らす。木田と本荘、その妻二人。いまはこの四人が、高森の直接の脅威となった。

「酷い」

 頭から肩、腕、胸のあたりへとべったりと大量の血がついていた。これだけの血を浴びて、高森はどこも負傷していない。つまり、あの銃声はいまいない二人に向けられたのだ。こいつが、この警官が二人を殺したに違いない……。

「殺したのか、てめえ!」

「違う。事故だ、事故だったんだ」

 なにがあったの、みんなどうしたの、院長先生はどこだ……。

 住人たちが口々に高森を責め立てる。

 鍛えているとはいえ、腕を一本ずつ二人の男が馬鹿力でがっちりと背後に捻りあげられてしまうと、高森はなすすべもなく床に膝をつく。気付けばジャージもぐっしょりと濡れて、肌に貼り付き不快だ。

「落ち着いてください。みなさん、落ち着いてください」と説得を試みるしかないのだが、その声は自分でもおぞましい響きに感じられる。

「ふざけるな」

「あったま来るな、こいつ」

 なにを言っても聞く耳を持ってくれない。

「赤堀はどこだ。さっき病人たちを見回りに行ったんだが……」

 そのことはいま、どうにも説明ができない。冷静であったとしても、まともに詳しく伝えるのは難しい。一瞬と言えるほどの短い時間に、それだけのことが起きたのだから。高森も、なぜ野上が赤堀ジュニアの手助けをしたのか、赤堀ジュニアがなぜ拳銃を奪おうとしたのか、よくわからない。

 そもそも赤堀ジュニアは病人を見回りに行ったのではなく、階段を下りて来たのだ。それは病人を見てからのことだったのか。それとも最初から階段を下るつもりだったのか。

「おい、英里子、見に行ってきてくれ」

「うん」

 木田の妻が懐中電灯を持って、病人のいる部屋へ向かって行く。

 冷たい空気の中で、長い沈黙が続いた。高森はなんとかこの場を納める方法はないか、必死に考えてみるのだが妙案はない。たとえ男たちから逃れたとしても、敵対関係が変わるわけではない。外は洪水だ。救援が来るのは朝以降だろう。電気の回復は期待できない。通信はどうだろう。いまは回復しているかもしれない。試したいが、この状況では難しい。

「もうすぐ助けが来ます。信じましょう」

 すると本荘の姉が、ケラケラケラと笑った。「なに言ってるの、こいつ」

「助けは朝にならなくちゃ、来ないだろうな」と木田。「そもそも連絡がついていないんだから」

「町が大変なことになっているなら、ここまで人が来るはずがない。ここで、こんなことが起きていることは、誰も知らないんだからな。夜が明けて雨がやんだら、ヘリが飛ぶかもしれない」と本荘。

 ただ殺気立っているだけではなく、冷静さもあるらしい発言に、高森はさらに焦りを感じた。手強いのだ。激情にかられての行動ではない。

 ゆらゆらと揺れる懐中電灯が戻ってきた。小走りに木田英里子が戻ってきた。

「死んでる! 階段の下で死んでるの! 赤堀君と野上さんが!」

 水に沈めたつもりでも、やはりムリだったようだ。

「死んでる? どういうことだ」

「こいつに撃たれて死んだに決まってる!」

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