第30話 砂防ダム

 一方、高森は、雨が小降りになったのを幸いにペースを上げた。ほどなく山道はふいに終わりを告げた。

 ガシッと固いものを足が踏みしめた。コンクリートだ。勢いよく雨水が流れている。つま先立ちのようになるほど、かなりの傾斜ではあるものの、コンクリートで固められてしっかりとした道となっていた。

「助かった……」

 ここまで来ればもうすぐ病院だ。

 背中の少女、美桜は相変わらず全身から力が抜けたまま。目も閉じている。二人とも雨でぐっしょり濡れていた。それでも高森は彼女の温もりを背中で感じていた。

「もう少しだぞ」

 道を慎重に下っていった。藪も森もなく、見通しがよくなる。夜でも遠くに灯りが見えている。街灯だろう。病院の輪郭もはっきり見える。遠く周辺の農家もぼんやりと存在が感じられる。

 人の住む場所へ辿り着いたと思うと、高森の気分は高揚し再び力が沸いてくる。

「がんばれ」

 希愛のためにも早く病院へ行き、背中の少女を預けて救援隊を呼ばなければ。そしてトンネルにいる先輩たちを助けなければ。

「おーい、なにしてるんだ、そんなところで」

 ふいに野太い声がして、ギョッとなった。

「高森です」と名乗ってから誰も知らないだろうと気づき「警察です!」とさらに大声で返事をした。「ケガ人がいます!」

「ケガ人? 早くしろ。上の砂防ダムが決壊するらしい。このあたりまで水に浸かるぞ。急げ!」

「ええっ?」

「みんな病院に避難しているんだ」

 近づくとそれは作業着の上に赤い模様の入った半纏を羽織り、長靴、黄色いヘルメットをした六十代ぐらいの男だった。ヘルメットにライトがついている。

「あなたは?」

「消防団の赤堀です。このあたりの人たちがみな避難したか確認に来たんだけど、病院に行ったらトンネルに向かった連中がいるというんで、もしかしてこのあたりに降りてるかもしれないから見に来たんだけど、もうあまり時間がないんで引き返そうと思ってたんだけど、なんとなく森の中に灯りがチラチラ見えたもんだから、なんだろうな、と思ったんだけどね」

「ありがとうございます。急ぎましょう」

「あんたらだけ?」

「ほかに途中でひとり、ケガをして倒れています。ほかの人たちは十人ぐらい、トンネルにいます。崖崩れで林道が通れなくなったので……」

「えっ、林道が崩れたのか。車は通れない?」

「ムリですね。で、みんなトンネルに避難しています」

「トンネルに? よりによってトンネルに?」

「なにか?」

「十二年前もこんな雨だったから……。あの時もトンネルに行った連中が大変なことになったんだから……」

「トンネルにいれば無事ですよね。あそこは大丈夫でしょう?」

「ああ。だけどな、あそこにじっとしていられねえんだよ。それが問題なんだ」

「どうして?」

「さあね。いろんなうわさ話はあるけど、本当のところはよくわからねえ」

「誰かに救出に行かせましょう」

「だめだ。もう引き返す時間はない。ダムが決壊したら、このあたりも危険だ」

「でも……」

「いまはダメだ! 病院へ行くぞ」

 坂を下っていくと少し平たい空き地があり、かつてはそこにも家があったかのような痕跡がある。そこに赤堀の運転してきた軽トラが止まっていた。

「乗って」

「ぼくはこっちでいいです」

 ぐったりした美桜を助手席に乗せてシートベルトを止めると、呼吸を確認。眠ったように見える。意識は戻っていない。

 高森は荷台に乗る。そこも水びたしだ。

 軽トラは、雨の中、病院へ急ぐ。

 これまでの厳しい山道が嘘のように、圧倒的に速く、滑らかに雨の中を病院に向かう。高森はかなり脱力していた。文明の力を感じると、雨を恐ろしいとは思わなくなる。このエンジン音。勢いよく突っ走るこのエネルギー。危機はどこか遠くへと去ったのだ。

 蛇角山のシルエットが遠ざかっていく。周辺は田畑で少し土地が低いので、もし水が出たら池のようになってしまうだろう。

 気がかりなのは置いてきた希愛のことだ。彼女はダムの決壊を知らない。もし遅れて下山してきたら、巻き込まれてしまうかもしれない。むしろ下りない方がいい。それを知らせる方法はない。

 病院の玄関に横付けしたトラックの荷台から飛び降りた高森は、赤堀と一緒に美桜を抱えながら中へ入っていく。

「ダムの決壊は確実なんですか?」

「これまでは一度もなかった。警報は何度か出たけどな。しかし今回はヤバイと思う」

「どうしてです?」

「これまでも何度も話題には上がっていたんだ。古いからな、あのダム。何度も大雨のせいで、いろんなものが詰まっちまってるんでね。十二年前は持ちこたえたが、この雨はあの時より酷い。普通じゃない。いよいよダメかもしれねえ」

「改修していないんですか」

「毎年、その話は出るけど、カネの問題でノビノビ」

 もしダムが決壊したら、改修を怠った自治体や政府の責任ではないか。それで希愛巻き込まれて死んだら、人災ではないか。それでトンネルに逃げた人たちが死んだら、それもすべて人によって殺されたのではないか。

 いつしか小走りになっている高森。病院に入ると、そこは、午後に岡崎先輩と立ち寄ったときとはうってかわって、煌々と明るく照らされ、大勢の人たちが行き来している。

 避難してきた町民たちだろう。

「看護師さん!」と高森が叫ぶより大声で赤堀が「初栄ちゃん! 初栄ちゃん!」と度鳴った。

 例のこの病院の主、看護師の川田初栄が奥からスタスタやってきた。

「どうしたんです、大声出さないで」

「意識不明」と高森が美桜を彼女に見せる。

「大変!」

 すぐさまストレッチャーが手配され、美桜は看護師たちの手で奥へ運ばれていきます。

 自分の手を離れたので、高森はホッとした。同時にすべてを思い出す。

「赤堀さん、軽トラ、貸してください」

「ダメだ。この病院は少し高い場所にあるから、たぶん大丈夫」

「でも、もう一人、山にいるんです」

「うーん」

「本部に応援を頼んでみます」

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