第六部:彼女たちの願いは六つ

第五十一話

 街灯の届かない暗がりを選び、イングリットは駆け続ける。後ろ手に拘束したシュナイダーの手錠をつかみ、ただひたすらに背を押していく。

 広大な夜の公園は進むほどに方向感覚を狂わせた。本当に車のあった場所から離れているのか、同じところをぐるぐる回っているだけではないのか――そんな不安に襲われる。


 だがどこかしらには行き着くもので、結果的にイングリットたちを迎え入れたのは、枝ばかりの木陰がいっそう深い一角だ。あまり手入れされていないようで低い位置も剪定されていなかった。人影は、ない。

 ここならばそうそう見つからないだろうと確信を得て、肩の荷が一気に降りた。


「は、はあーあ……」


 とても見張り役のものではない声とともに地面へ腰を下ろす。むろんシュナイダーも一緒に。

 いかんせん年上の男性だ、本気で抵抗されたらどうしようかと思っていたが、案外素直についてきた。イングリットにとっては幸いだ。


 そうして落ち着いてみると、大気がかすかに震えているのが感じられた。サイレンサーに濾過された銃声はここまで届かない。しかし何が始まっているかは嫌でも分かった。

 エレナたちが戦っている。それを思うと、人心地ついたばかりの胸がきゅうと狭まった。


「大尉、フレーゲルちゃん……」


 私はいつも、こんな役回りばかりだ。そんな言葉が胸の内でわだかまる。


 エレナはやっぱりずるい。日常業務はやり過ぎというほど任せてくるのに、イングリットを命の危機には巻きこまないのだ。任務の時はいつもサポートに回されるか置いてきぼりをくらう。そういう時ほど頼ってほしいのに。

 だが仕方のないことだとも承知していて、それ以上に我が身の非力さが情けなかった。拳銃も申し訳程度にしか使えない。誰かを手にかけたこともないし、そうすることになったとして、イングリットはきっと躊躇ってしまうだろう。戦闘面では疑いなく足手まといだった。


 最後の任務くらい、あの人の役にたちたかったのに――そう苦い気持ちを噛み締めていると、傍らのシュナイダーがぽつりと呟いた。


「……フレーゲルって、あの子のことか」


 出し抜けな問いに、どう応じたものか一瞬迷う。そうして出てきたのは「ええ、いや、まあ。そうですね」などという我ながら曖昧な肯定だったが、シュナイダーには十分だったらしい。ふう、と深く嘆息すると小さく首を振る。


「そうか……ひどい名前だ」


 クソガキフレーゲル。本当の名の代わりに今の彼女をあらわすもの。

 確かにひどい話だったが、これは他ならぬフレーゲルの望みでもあった。国家保安省シュタージの人間になってから、彼女はこの名を使い続けてきたのだから。


 ふと思う。イングリットは「フレーゲル」になる前の彼女を知らない。だがあの偽造パスポートと亡命書類には、エーレンベルク家の娘としての彼女の名が載っていた。今よりなお幼い彼女の写真とともに。

 シュナイダーは、あの子のことをどれだけ知っているのだろう。そう疑問を持ったときには軽はずみに口が開いていた。


「これは、個人的な興味なんですが。なぜあなたがフレーゲルちゃんの亡命書類を持ってたんですか? あの子はあなたのことを知らないようでしたが」

「当たり前だ。俺は彼女の親としか接触してない。あの子のいない時間に会おうっていうのが、先方の願いだったから」


 思いのほか、彼の口も軽かった。半ば独り言なのだろう。その言葉はもうイングリットのほうを向いてはおらず、聞き返す間もなく続いていく。


「あの子の両親は俺の恩人だ。その願いだからあの子を亡命させようとして、でもあの人たちは消えた。お前らに消された。あの子は本当なら、こっちで元気に笑ってたはずなのに……」


 悲壮な声だった。打ちひしがれているのか混乱しているのか分からない、浮かされたような口調だった。

 しかしその真剣さは疑いようもなく、確かにフレーゲルのことを思っているのだと肌で分かる。フレーゲルを亡命させたい。彼女に笑っていてほしい。その想いはきっと本物なのだろう。確保直前にエレナへ食ってかかっていた様子を思い返すと、その確信はより強まった。


 そこでイングリットの胸に浮かんだのは、また破滅的なまでに我が儘な正義だ。


(この人なら、フレーゲルちゃんの支えになってくれるかもしれない)


 フレーゲルが亡命を選んだとして、その後見人はどこにもいない。彼女を慮ってくれる人がひとりでもいてくれるだろうか。それがイングリットの唯一の懸念だった。


 だが彼ならばフレーゲルを支えてくれるかもしれない。亡命に協力しようとまでしていたのだ、彼とフレーゲルの親との関係は信頼できた。

 シュナイダーを逃がしたところで、どの道イングリットが罪をかぶるつもりだったのだから問題ない。むしろ事実になる分だけやりやすいだろう。

 シュナイダーが本気でフレーゲルのことを心配しているのならば、交渉と協力の余地はある。そう口を開くと、彼の頭がいっそう項垂れた。


「あの、あなたは――」

「だから、俺は――」


 その続きは、言うことができなかった。


 あご先に衝撃。次いで目眩。真っ暗な景色がゆっくりと移ろい、星なのか火花なのか分からないものが小さく瞬く。

 気づけば背中はしっかりした大地に抱かれている。なのに平衡感覚の崩壊は止まらない。シュナイダーの声が落ちてきた方が上なのだと、それだけがはっきりしていた。


「あの女を殺してでも、俺自身が殺されてでも。絶対にお前らからあの子を救い出す」


 それを最後に、足音らしきものが頭蓋に反響する。だめだと、話を聞いてと、待ってやめてと言いたいのに動けない。

 まるで神経が絶たれたようだ。ぐるぐる回る暗闇のなか、焦りだけが空転する。そうして何もできないと悟り、心を支配した思いはただひとつ。


 ――また、私は役に立てない。


 その事実が胸を灼く。泣き喚こうとしても声の出し方も分からない。

 あまりに情けなくて悔しくて、この気持ちがあればいくらでも目覚め続けていられると、そう思いさえしたのに。


 視界のぼやけるがまま、感情に溺れるがまま。イングリットの意識は数える間もなく閉ざされていった。

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