第五十話
交戦時特有のひりつく空気。もう慣れてしまったそれを肌で感じながら、フレーゲルは傍らのエレナを見上げた。
(――はじまった)
そしてこれから終わる。フレーゲルとエレナの因縁も復讐も、すべて。
レニというあの少女の言う通りにすれば、フレーゲルは正しいままでエレナを死なせることができる。
「エレナ・ヴァイス。聞こえてるだろう、出てこい」
男の声が聞こえた。姿は見えない。
あちらも潜んでいるのだろう。さほど近くないようではあるが、弾丸が届く距離ではあるはずだ。おそらく遊歩道を挟んで逆側の木立にいる。
「シュナイダーを渡せ。我々に対する工作行為についても事情を聞かせてもらおう」
「何のことかさっぱり。あんたら
一応言っとくけど我々はただのDDR国民だ。少なくとも、ここでの破壊工作なんかには縁がない程度には」
「調べはついている。お前にも分かっているだろう」
そう切り捨てられるとエレナは声だけで笑った。
最低限の取り繕いといった風で、表情は相も変わらず空っぽのままだ。昼のやり取りから分かってはいたが、やはりいつもの彼女らしくない。
「まあそうだ。今ここに至って、話し合いの余地はそもそも生まれるべきじゃない」
よく分からないことを言う。イングリットも不審に思うのか、怪訝そうに眉をひそめた。
「大尉、それはどういう……」
「イングリット、命令」
小声が鋭く遮る。イングリットに捕らえられたシュナイダーを軽くあごで指し、木立の奥の方を示した。
「ここで銃撃戦になったら
「えっ……いやいやいや、フレーゲルちゃん連れだすんですか!? この状況で!?」
「戦力としては期待してないよ、まあ頭数か囮くらいにはなるかな程度。こっちはシュナイダー連れてるって思わせなきゃだし」
「戦力とかそういう問題じゃなくて、危ないって言ってるんです!!」
小さな声ながら必死な訴え。それが紛れもないイングリットの善意なのだと、今ならわかる。
しかし今のフレーゲルがすべきなのは、彼女に首を振ることだ。
「フレーゲルちゃん……?」
なぜだと問いかけるような目が胸に刺さる。だがエレナの近くにいないと目的は果たせない。ならば囮だろうがなんだろうが、エレナと行動できるのはむしろ好都合だった。
決然とイングリットに背を向け、フレーゲルはエレナとともに低い姿勢で歩を進める。
エレナは冷めた表情でこちらを一瞥。いつもの猛禽めいた雰囲気はそのままに、一切の遊びや酔狂が消え失せている。しかしその振る舞いは無駄がない代わりに気怠げだ。本気というよりも、先に言っていた通り面倒なのだろう。
単に気が乗らないだけなのか、あるいはこれがエレナの素顔なのか。これから死ぬ相手だというのにそれを考えずにはいられなかった。
「今こっちにいる敵は三、四人。その他にもどっかに散ってるはずだ。教会のときみたいに楽勝とはいかない」
頷く。エレナの話しぶりからして、相手は西側の情報機関――自分たちと同じような人間なのだろう。
ほとんど民間人のようなものだった半年前のポーランド人たちとはわけが違う。いくら最終目的がエレナの死だとしても、それまで倒されないくらいには努力しないといけない。
それを見透かしたように、エレナは色褪せた瞳を小さく細めた。
「まあせいぜい頑張りなよ、死なない程度には」
そう言うが早いか、エレナは木の幹に隠れながら漆黒のCz75を構える。闇と静けさと殺気の巣食う対岸へと引き金を引く。
銃声が低く重く夜の空へと響きわたって、それが開戦の合図だった。
***
サイレンサーに潰された銃声が大気を震わせる。消せない硝煙の匂いがつんと鼻を刺激する。
それに望み通りの事態の進行を悟って、レニはころころと誰にも聞こえない笑みをこぼした。
「ふっふふふ。はじまった、はじまったわ。馬鹿ばっかりの大騒ぎ」
暗い周囲に人の気配はなく、ここは彼女の独り舞台。
ならば言葉を選ぶ必要もなかった。甘い声音だけはそのままに、心に湧きでる嘲弄を遠慮なく汲みあげる。
「そうよねそうよね。前は上から狙撃されたんだもの、高所から狙えないここを選んだのは当然よね、偉いわ」
闇に慣れた目で周りを見渡す。このハーゼンハイデ国民公園は高い木々で囲まれており、近辺に高い建物もない。しかも木立に入ってしまえば見通しはよくて百メートルかそこらだ。高所・遠方からの狙撃を防ぐという点では賢い選択だろう。ここでは狙撃手の圧倒的優位が奪われる。
だがレニの笑みはもうどうやったって消えないまま、待ちわびるように愛銃を磨きつづける。がり、と奥歯で錠剤を噛み砕く。
「でもね残念。とってもとっても浅はかだわ。やっぱりあなたみたいな女、おかあさまが気にかけるまでもないの」
優越感に満ちた言葉は虚勢でも強がりでもない。確信だ。レニの策略はすべて思うがままに進んでいる。ならば結末だって予想通りのはずだった。
無骨な暗視スコープを愛銃に装着する。手のひらほどの大きさをした円盤も一緒にだ。電池を入れた金属の箱と繋げてしまうとずいぶん大がかりになる。
この仰々しい感じはレニの好みではないが、装備は外観より機能と割り切るのは慣れている。なによりこれからやることを思えば、そんなことは気にならなかった。
エレナ・ヴァイス――最愛の母へ捧げる命の名を、胸の中で吐き捨てる。
「今ここで、レニが殺してあげる」
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